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蛍
そういえば、誰かが言っていた。
「蛍の光って、心臓のリズムみたいで落ち着くんだよね」
綺麗な川にしか生息しないその生き物は、その命を次の世代に繋ぐための求愛行動として光を放ち続ける。しかし、それは限られた短い期間にのみ許される事で、そこには人間が想像するよりも過酷な生存競争が繰り広げられている。
僕は今、薄汚れた繁華街の雑居ビルの屋上のフェンスの向こう側、つまりは「危ない所」に腰を掛けて空を見上げている。僕の後方10メートル位の所には、数人の警察官と何人かの知人が立っている。
地上に目をやれば、そこにも同じく数人の警察官がいて、何やら大きな白いマットを広げて、こちらを見上げていた。
「落ち着いて、大丈夫だから! 命を粗末にしちゃ、ダメだ!」
警察官は、もう何度も似た様な事を叫んでいる。少しずつ言い回しを変えているようだが、全部同じ音のように聞こえる。
「うるさいな……」そう呟くと、僕は静かに立ち上がった。一瞬、悲鳴とざわめきがビルの谷間に響き渡る。
生まれて初めて、こんなに沢山の視線を一度に浴びた。僕の限られた人生の中の、ほんの一瞬をみんなが見ている。僕がただ立ち上がっただけで、様々な反応を見せてくれる。
蛍は、どんな気持ちだろうか。必死に命を残そうとする輝きを見つめられるのは、どんな気持ちだろうか。蛍は綺麗な場所にしか生きられない。せっかく見つけた静かで美しい場所で、一番大事な時に限って誰かが土足で踏み込んで来る。
それは、どんな気持ちだろうか。
蛍が居なくなると その川には途端に誰も近づかなくなる。輝きを失った水辺には誰も興味を示さない。
僕は今、蛍の気持ちが分かった気がした。
はっきり言って、迷惑だ。
僕は深呼吸をして再び夜空を見上げた。今日は流星群が最接近するという事で、この場所を選んだ。
広い夜空に流れ星が一つ、線を描きながら燃え尽きて行くのが見えた。この星は長い時間、暗い宇宙を彷徨い続け 最後に燃え尽きる事でようやく人々の目に触れる事が出来た。
わかった、そんなに見たいなら僕が最後に輝く所を見せてやろう。
僕はフェンスの方を向いて、警察官と知人に頭を下げた。何人かは それを見て少し安堵の表情を浮かべていた。
そしてフェンスを両手でしっかりと掴み、そのまま腕をまっすぐ伸ばすと、踵と両腕で全体重を受け止めた。
安堵の表情を浮かべていた人々の群れに、一瞬にして緊張が走る。
僕はその姿を見て、静かに手を離した。遠くなって行く夜空には一つの流れ星が綺麗な線を描いて、すぐに闇の中に溶けて行った。
悲鳴が風の音で徐々に掻き消されていく。風の音に包まれた僕は、蛍が川で輝く理由が少し分かった気がした。
風の音が心地良い。川のせせらぎの様だ。余計な音も聞こえない。
蛍も流れ星もきっと、間もなくその命が亡くなる事を知っている。
きっと僕も同じように。僕は、輝いているだろうか……。
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