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聞くところによればこういうことだ。あの日、レイが神界からこの地に落ちて来たこと、それ自体はまだそこまで問題ではなかった。血の穢れを持ち込んだことも一応は許容範囲だ。そこで棠鵺が儀式よりも救命を優先し、そのまま儀式をほったらかしにしてしまったことも、幼い頃からずっと棠鵺を見守ってきたブリトマータとしては当然のこととして受け入れることができた。
しかしながら、いつまで経ってもレイが出て行く気配がない。その上、里の人間とも少しずつ打ち解けてきてしまい、加えて棠鵺も待てど暮らせど儀式を再開しにくる様子がない。それでもまだ許容範囲ではあった。
しかし今日だ。今日、里の男たちが掟を破って禁足地と定めた山にずかずかと踏み入ってきた。そのときに彼女は思ったらしい。彼らはあの男を受け入れ、自身を追い出すつもりだ――と。
「中には武器を手に持っている者もおったゆえ、てっきりそうなのかと思っての。いやしかし、それでもまだ疑惑に過ぎぬ。過ぎなかった。そんなときじゃ。この時期にはまだ咲いていないはずの桜の香が香ってきた。それと同時に霊気も感じられた。精霊族がここに侵入している、と思ってその香を辿ってきたのじゃ」
「精霊族……」
棠鵺はハッと顔を上げた。そうだ。先ほどここに来るときも、確かに桜のような香りが漂っていた。思わず周囲を見渡すが、それらしい影はどこにもない。
「もしかして、その精霊族の女の子が立ち入ったことでお怒りに……?」
この山はブリトマータによって女人禁制と定められている。男たちが山に踏み入った上に、絶対に入れるなと言われている女まで侵入してきたら怒りも頂点に達するだろう。
「いや? それも別に構わぬ。あぁ、女人禁制というあの掟を気にしておるのじゃな? あれは別に大した意味はないのじゃ。ただ、女子は男子と違ってどうにも血のにおいが取れぬゆえな。もし万が一にも野生動物を刺激してしまうようなことがないようにと言っておいただけじゃ。彼奴等は血のにおいに敏感だからの。不測の事態を起こす要因は最低限に抑えておきたいと思っただけゆえ、精霊のように強き者であれば気にすることはない」
「あ、そ、そうなんですね……」
「お前、意外と寛大な奴だったんだな……」
いつまで経っても怒りの直接の原因が出て来ないことに多少呆れながら、棠鵺もレイも適当な相槌を打つ。
「貴様はほんに失礼な男よな。妾は山の神ぞ? この山のように雄大な心を持つのは当たり前であろう? それはともかくじゃ。そう、その香を辿った先にあの娘がいたのじゃ。何をしているのかと思えば、ほれ、そこな青春扇を盗もうとしておった」
「それでキレたのか?」
「いやいや、声を掛けて一喝してやろうとは思ったが、それくらいでは怒ったりせん。しかし、そう、そこからパッタリ記憶がなくての」
ブリトマータはそこで口を閉じた。顎に手を宛て、何かを考えるように宙を見て、地を見て、二人を見た。
「やはり思い出せなんだな。すまぬ」
けっして頭を下げようとはしないものの、そこには彼女なりの誠意が感じられた。棠鵺はその言葉を真摯に受け止め、「お話しくださってありがとうございます」と頭を下げた。
「しかし……ってことは、その精霊に何かされたって考えるのが妥当なのか?」
「どうじゃろうな。妾には分からぬ。あの娘はそれほど邪悪な存在には思えなかったがのぅ」
二人の会話に耳を傾けつつ、棠鵺は自分の思考に耽る。今回の事態の大体の流れは分かった。しかしまだ分からないことがある。それは、なぜ里の男たちがこの山に突然入り込んだのか、ということだ。鍵を握っているのはおそらくは彼女だろう。
棠鵺は思いついたかのように顔を上げ、妖気を込めて「ピーッ」と指笛を吹く。すると遠くの木々の間から何羽もの小鳥たちが飛び出してきた。そしてまっすぐに棠鵺の元へとやって来たかと思うと、彼の前に一列になって整列した。
「みんな、お願いがあるんだけど、この香りの源を探してきて欲しいんだ」
言いながら、棠鵺はやはり妖気を込めずに軽く扇を薙いだ。小鳥たちは互いにまるで相談でもするかのように見つめ合い、直後に一斉に飛び立つ。
「なるほど、メジロか。確かに桜の香を探すなら彼らに任せた方が良さそうじゃの」
「本当に大丈夫なのか? なんか、飛び方が頼りないけど」
「少なくとも貴様よりは頼りになろうな。安心して任せるがよいぞ。この山の動物たちは優秀ゆえすぐに見つけてくれるじゃろ」
ほっほっほ、と口に手を添えながら高らかに笑うブリトマータを見て、レイは「そうかよ」と一言だけ漏らしてその場に座り込んだ。
「そういえばレイさん、傷口は大丈夫ですか? あと、ナリトはどうしました?」
「ん? あぁ、あいつは泣き疲れて寝たから、とりあえず布団に運んでおいた。傷は、まぁ、まぁ、だな……」
傷の話をした途端に視線を逸らし、言葉を濁すレイを不審に思って、棠鵺は「ちょっと失礼します」とその襟を開く。そこには見事に真っ赤に染まった包帯があり、それはまた傷が完全に開いてしまったということを示唆していた。
「なんで嘘吐くんですか。っていうか、この状態でここまで来るなんて、いえ、お陰で助かったので文句を言える立場ではないんですけど……」
とても複雑な気持ちだった。来てくれたことは素直に嬉しい。しかしそれによってまた彼に負担をかけてしまったという事実は、一番近い気持ちで言えば哀しい。もっと自分を労わってほしい――と思ってしまうのは思いやりの押し付けだ。棠鵺はその言葉をぐっと飲み込んで、替わりに一つの溜め息を吐き出した。
「なんじゃエレイス。まだ傷が治っておらなんだか? 貴様にしては珍しいの。何があった?」
二人のそんな会話に反応したのはブリトマータだ。驚いたように目を見開き、レイの傷口――のある部分をまじまじと見つめる。
「それが……よく覚えてないんだよな。気づいたらトーヤの家だったし」
「ほうほう。なるほど。つまりあれじゃな? 人間でいうところの、老化による物忘れ」
「あぁ、そうかもな。そうだったら良いな。さっさと老衰で死にたい」
「はぁ……まったくつまらん男じゃな」
それきり二人の会話は途絶えた。棠鵺は神族二人を前にして何をどう話を切り出せば良いのか、どこまで踏み込んで良いのかが分からず、ただ黙って時間が過ぎるのを待つしかなかった。
彼らからの情報が来たのはそれから暫くしてからだった。伝令として一羽のメジロが帰ってきた。その報告を聞くなり棠鵺は例の彼女の居場所を二人にも伝える。レイは重い腰を上げ、「じゃあ行くか」とどこか面倒くさそうに件の方向へと足を勧めた。
「十二様は――……」と言いかけた棠鵺に、ブリトマータは頭を振って微笑む。それまでのキリッとした表情とは違い、それはどこか柔らかで、温かい笑顔だった。
「妾はここを直さねばいかんゆえな。共には行かぬ。そちら二人で行くがよい」
「は、はい!」
「それとぬえ」
「はい」
「そなたが妾に会ったのは、先代からここを任された……そう、随分と幼き頃以来よな。妾はいつもそなたを見てはおったが、こうして久しく言葉を交わせたこと、とても嬉しいぞ」
「ぼ、僕も、お会いできて光栄でした。このような形になってしまいましたが……」
「よいよい、これもまた縁起というものじゃ。これがなければまだ暫く会うこともなかったじゃろう。これを機に、これからはもっと会いに来てもよいのじゃぞ?」
「え、良いんですか?」
「もちろんじゃ。妾もそなたと話がしたい。だからどうか無事に戻っておいで、妾の可愛い子」
言いながら、ブリトマータは棠鵺の額に軽い口づけをする。途端に体がカッと熱くなるのを感じて、棠鵺は思わず身を固くした。
「ほほ、そのように緊張せずともよい。取って食ったりはせぬ。さぁ、彼奴も待っているゆえ、もう行くがよい」
「は、はい!」
どこか名残惜しさを感じながら、棠鵺は神域の出口付近で待っているレイの元へと走った。
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