三幕 綿津見の住処

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三幕 綿津見の住処

 発端は、琅果のこんな一言だった。 「とりあえず、海行ってみる?」  精霊界に行くことが決定したは良いものの、ではいつ行くのかというとそれがなかなか決まらない。界層を下るのは簡単だが、昇るのは非常に難しい。  ここ人間界が第四界層であるのに対して、精霊界は第三界層だ。つまり昇らなくてはいけないわけで、それが例えば精霊族である琅果一人だけであるならばそれほど難しいことではなかった。「還る」ことは降りることよりも容易だからだ。しかし今回は他に二人の連れがいる。  一人は神族だからまだマシではあるものの、もう一人は妖族だ。元々第四界層を住処とする彼らが第三界層以上の界層に赴くには様々な準備が必要となる。  その中でもけっして無視することができないのが時期だ。ある一定の時期、下層と上層が近くなることがある。それが春分と秋分の前後二日間の、年間約十日間なのだが、生憎現在は春分が過ぎた直後だ。次の時機が来るのは約半年後になってしまう。  反対に一番渡りにくくなるのが夏至と冬至の前後二日間である。この時期は還ることすら難しくなるほどに世界が隔たれる。とはいえ、夏至まではあと二月以上あるため今はそれほど気にする必要もないのだが。  しかし、それにしてもだ。春分という大きなチャンスを逃してしまった手前、次にどの時機を狙うべきなのかが分からない。そんな話をしていたときだった――琅果が先の言葉を言い出したのは。 「なんで、海?」  こてんと首を傾げ、棠鵺は不思議そうに琅果を見た。 「えっとねぇ、界層の渡りやすさは潮の満ち引きに関係がある~……みたいな話を最近読んだんだよね」 「潮の満ち引きくらいなら毎日あるだろ?」 「じゃなくってぇ、大潮の日。棠鵺くん、ここから一番近い海の大潮っていつか分かる?」 「う~ん、そもそも僕は山の管轄だから、海のことはてんで分からないんだよね……」  妖族が自分の管轄を離れることは一生の内に数回あるかないかである。特にこの山は人間と神族の距離が非常に近い。西の方では神族と人間の間に宗教という組織を挟むことで適度な距離を保つこともあるようだが、少なくともこの山の近辺ではそういったことはなかった。  神族と人間が非常に近しい関係を築くとき、要となるのが妖族である。神族と妖族の気の相性は非常に良く、それゆえ人間との関係の築き方も自然と似てくる。そこでそれぞれ役割を決めて互いにとってよき隣人として振る舞うことによって、神族にとっても妖族にとっても人間にとっても不利益のない、理想的な契約をすることができる、というわけだ。  具体的には大きな管理を神族が、そしてその取次ぎを妖族が行うわけだが、元々尊大すぎる気のある神族では人間が怖がり、要求を言い渡せなくなってしまうこともある。対して、少々卑屈になりやすい性質を持つ妖族は、彼らにとって要求を伝えやすい人物なのだ。もちろんその要求自体は神族が叶えるのだから、妖族が必要以上に労力を払う必要はない。  そういったシステムがこの村はじめ、東の国々では出来上がっている。  人間とのより円滑な関係を築くためにも、妖族はそうそう持ち場を離れることはできない。それは棠鵺も例外ではなく、彼もまた自意識が芽生えてからこの方、この地から離れたことは一度もなかった。  それでも多少なりと海のことを知っているのは、この山の裏側に漁村があるからで、そこから海産物を運んできてくれる人間が存在しているからだ。  とはいえ潮の干満の情報までをもくれる人物などそうそういるわけもなく、棠鵺が知らないのは無理もない。 「海に行くこと自体は良いとして、しかしなんで潮の干満なんだろうな?」  レイがふいにそんなことを口にする。棠鵺もそれに便乗するように頷いた。それを見た琅果は驚いたように目を見開き―― 「レイ兄が知らないの、なんか意外だった」  と、それだけ口にした。そして一拍置いて咳払い。「あのね、」と二人に向けて説明を始める。  この世界は界層構造の形を取っているわけだが、 どの世界にも上には空があって、下には陸と海がある。つまり世界と世界を繋ぐのは上界の陸海と下界の空だ。  間には膜のようなものがあり、そこを通るには特別な資格が必要になる。  ただ、変則的ではあるが、ある程度周期的に膜が薄くなる時があり、それが雨となって下界に降る。だからといって海水がそのまま雨になるのではなく、膜で漉されて真水になってから下界に落ちる。その膜の正体は未だ解明されていないが、とりあえずはそうなっているらしい。だから上界の存在しない第一界層である神界にはけっして雨は降らない。 「――っていうところまでは分かってるよね?」 「あぁ。それは分かってる」 「僕は初めて知りましたけど……」 「まぁまぁ。で、ここからが新説ね。雨が降るときは膜が薄くなるときでしょ?」 「あぁ、そうらしいな。神界には雨が降らないからよく分からないが……」 「じゃあ、膜が弛むときっていつか知ってる?」 「え、膜が、弛む?」  思わずそう返したのは棠鵺だ。とても驚いたように琅果を直視した。 「うん、弛むの。海の膜だけ」  あっけらかんと答える琅果に二人は更に驚く。何故この少女は世界の造りに精通しているのだろうか。今までの子供っぽい言動や行動が嘘のようである。 「それがね、潮の干満に連動しててね。上界が引き潮の時は下界が満ち潮、満ち潮なら引き潮なんだよ」  つまりこういうことである。  例えば人間界が満ち潮のとき、人間界から見て上界の精霊界は引き潮で、同時に魔界から見れば人間界は上界に当たるため、こちらも引き潮になる。  琅果が言うにはこれは互いの重力が関係しているらしく、上界の膜が弛んで下界に近くなると、下界の膜が引っ張られて盛り上がり満ち潮になる。すると更にその下の界層にとって一つ上の界層の膜は遠退き、その重力の影響を受けにくくなる。逆にもう一つ下の界層の重力を受けやすくなるため引き潮になる。 「だから、人間界から精霊界なら満ち潮のときの海の付近は行き来しやすいんだよ。近いから。魔界なら引き潮のときね」  更に聞けば、先ほど「海の膜だけ」とは言ったものの、陸の膜も弛むことがあるらしい。ただしこちらは大変不定期で重力は余り関係なく、滅多に起こることではない。ただ単に膜の一部が脆くなり大地の重量に耐えられず一瞬弛む。それが地震である。それ故、最下層の冥界には地震は起こらないというのが現在の定説であるとのことだ。 「海の満ち干きも、昔は分かりやすかったらしいんだけどね、玉兎様がいなくなっちゃったから、最近は本当に分かりにくいんだって……」  琅果は頬杖を吐きつつ溜め息を吐いた。 「ね、ねぇ、琅果、玉兎様って?」 「え、玉兎様は玉兎様だよ? あたしは見たことないけど、昔は夜空にあったんでしょ?」  棠鵺が聞き慣れない言葉を不思議そうに聞き返せば、同じ調子で更に聞き返された。棠鵺は困惑した。しかし琅果もそれは同じであるようだ。互いに見つめ合ってどうしたものかと言葉が続かない。そんな折、助け舟が出た。 「もしかして、月のことか? 確かに昔、月は潮の干満に関係があるって言うヤツは居たが……」 「つき?」  琅果は考える素振りを見せるも、そこには分からないという言葉が続いた。再び会話が切れる。コレのことだと言おうにも、そもそもソレが無いのだから説明するのも難しい。  更に琅果はソレを見たことがないという。例えばここで「丸くて銀色で夜に輝く云々」と説明したところで「確実にソレだ」と言うのは難しいだろう。 「あ、」  声を上げたのは棠鵺だった。 「ねぇ、琅果、アレは何て言う?」  そう言って指差したのは太陽だ。燦々と照り付ける太陽を直視し、琅果は顔を顰めた。すぐに目を逸らす。 「金烏(きんう)様でしょ?」  琅果は当然のようにそう答えた。何故そんなことを聞くのか。琅果は訝しげに二人を見た。  その様子に二人は納得したように頷く。 「もしかして、玉兎様と金烏様は対称だったり、セットにされたりしない?」  違ったらどうしよう。そんな不安が頭を過ぎるが、恐らくこれで間違いない。 「あぁ、うん! 金烏玉兎(・・・・)って言葉があるよ!」  決まりだな――と、レイと棠鵺は互いに頷き合う。 「しかし、そうか、海か……」  一通りのことを話し終えたとき、レイが何か感慨深げにそう呟いた。少し考える素振りを見せたあと、おもむろに口を開いた。 「ここは確か東の端……とか言ってたよな?」 「はい、そうですよ」 「ってことは、ちょうどいいかもしれない。運が良ければ、明日にでも精霊界に行ける」 「え、ほんと? なんでなんで?」  レイから告げられた予想外の言葉に、琅果は前のめりになって言葉の続きをせっつく。 「それは、着いてから改めて言う。とりあえず今から出よう」  レイはそれだけ言って部屋から出て行こうとする――が、またしても鈍い音とともにその歩みは止められた。今回は鴨居に頭をぶつけたわけではない。しかし間合いの測り方を間違えたらしく、柱の角に思いきり足の小指をぶつけたようだ。 「……――っつぅ~!」  悲痛な声を上げてその場に蹲るレイに駆け寄り、琅果はその顔を覗き込む。 「だいじょうぶ?」 「もう、慣れ、た……」  絞り出すような声で言われてもあまり説得力はない。そもそも慣れるのなら痛みの方ではなく家の構造に慣れて欲しい――その言葉を辛うじて飲み込んで、棠鵺もまた「大丈夫ですか?」とレイの側にしゃがみこんだ。 「レイ兄ってさぁ、なぁんか注意力が足りないっていうか、どこか散漫だよね。大丈夫かな?」  レイが出て行った後で琅果にこっそり言われたそんな言葉に、棠鵺は「確かに」と同意せざるを得ない。  レイは一日一度は何かしら怪我をしている。それはけっして大きなものではなく、本当に細かい、小さな怪我である。それらは全て少し注意すれば防げるようなものばかりなのだが、それを何度も繰り返すということはやはり注意力が散漫なのだろう。普段の振る舞いや気の張り方からしてそんな印象は受けないのだが、ふとした瞬間に何かしらやっている。  いや、そもそも「すぐに治ってしまう」というその体質こそが、不注意の原因なのかもしれない――と棠鵺は思い至る。喉元過ぎれば熱さを忘れるではないが、痛みが一切後に残らないことで、自身の痛みに対する学習能力が鈍っているのかもしれない。  そう思うと、彼を精霊界に連れて行くのはいささか危険なのでは――という気もしはじめてしまう。彼は棠鵺や琅果を守るためにきっと必要以上に体を張るだろう。それは非常に困る。  とはいえ、もう行くと決めてしまった以上、今から「やっぱり来なくていいです」と言うのもおかしな話で、結局その心配は心の内にしまいこんだ。
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