三幕 綿津見の住処

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 波の音が聞こえる。周囲に人はおらず、春の海は多少波が高くはあるものの穏やかだった。  三人は海へ来た。山里から歩いておよそ二時間の場所に人間界の最も東にあるとされる浜辺はあった。何もない、静かな海だ。もう少し南の方に歩いていけば例の漁村があるはずだが、今回用があるのはあくまでも海そのものだ。  むしろあまり人目につかないようにした方がこちらとしても都合が良いとのことで、あえて周囲を岸壁と山々に囲まれたその浜辺を選んだ。  ブリトマータ治める山から下る川の行き着く先でもあるが、既に山の気は薄くなっている。実際はそんなに離れた場所へ来た訳ではないのだが、慣れない空気にとても遠出をしたようだと棠鵺は思う。  里の人に少し離れることを告げた際とても不安げな顔をされた。しかしすぐに戻ると言えば残念そうではあったが承諾してくれた。その時、一番近い海は何処にあるのかと聞いたところ、この場所と道を教えてもらい、棠鵺たちは言われた道を来たのだった。 「ここで間違いない、ですよね?」 初めて目にする海を高台から焼き付けるように眺めながら、棠鵺は二人に確認する。 「まぁ、うん、海だし」 「潮の香りもするしな」  海の雄大さに思わず息を呑む。先が見えない。  けっして山が雄大でないとは言わない。山とて常に危険と隣り合わせであるし、その威風堂々とした出で立ちはとても美しく、また様々の神秘や畏敬の念を感じさせた。  それでも海と違うのは、有限であることだ。山の裾野は反対側を伺うことこそできないが、それでもけっして先の分からないものではない。見上げればそこには山頂があり、そこが終点なのだ。  それに対してこの海というものはどうだろうか。先がない。いや、有りすぎる。水平線の先を見ることなど不可能だ。そもそもそれが海であるのか空であるのかすら分からないような錯覚を起こす。何より底が知れない。浜辺の近くは足が着くような浅いものであるが、沖に行けば行くほどそれは深くなる。  怖い、と思うと同時に好奇心が疼く。この下には何があるのか――目に見えることのないそれは、たとえ現実に有限であったとしても、無限であることと何ら変わりない。  棠鵺は束の間言葉を失った。ぽかんと口を開けながら、茫然と海を眺めるしかできなかった。 「で、レイ兄、どうするの?」  琅果の声で棠鵺は我に還った。今の自分がどれ程間抜けな顔をしていたか、考えるだけで恥ずかしさが込み上げてくる。  しかし二人の視線はつい今しがたの自分と同様、真っ直ぐに海に向かっているし、言葉を発した琅果の意識はレイに向かっている。棠鵺は気持ち胸を撫で下ろす。そして思考を切り替えた。  遊びに来たのではないのだ――心の内で自身をそう叱責し、問い掛けられたその人物を見た。 「人間界の東の海の底には海境(うなさか)がある」 「うなさか? って、なぁに?」 「海に住む神族のつくった、なんつぅか、人間界と神界を繋ぐ直通路みたいなものだ」 「神族って海にも住めるんだ……」  驚嘆なのか、それとも呆れなのか。どちらともつかない声でそう言うと、琅果は「それで?」と話の続きを促す。 「それ使えば精霊界に行けるの?」 「いや、海境は神界としか繋がってない。行くとしても神界経由だ。それ以前に俺達には使えないんだけどな」 「え、使えないの?」  レイの言葉を、琅果が驚いたように聞き返した。 「海の中にあるんだぞ? 息できないだろ?」  至極真っ当な答えだった。あまりにも当たり前すぎる答えだ。だがだからこそ逆に釈然としない。 「そんな使えないところになんでつくったの?」 「さっき海に住んでるって言ってましたけど、それは海上ってことなんですか?」  ここぞとばかりに二人はレイに詰め寄る。ほぼ同時に全く違う質問を繰り出してきた二人を一瞥し、レイはわずかに考える素振りを見せる。 「スィール(・・・・)は特別だからな。海に愛されてるし、本人も海が居場所だと信じてる。だから海の中で生きることを許された。ヒトでありながら水中生活を送れるのはあいつと魔族の一部くらいだろ。魔界にも海境はあるが、魔族と神族の仲は知っての通りだからな。誰も近寄ろうとしない。海境はスィール(アイツ)専用の近道だ」 「へぇ~。なんかずるいなぁ」  琅果のそんな羨むような声に棠鵺も密かに同意する。この雄大な海の中を好き勝手に生きることができる――その自由な生き方に、少しだけ憧れの気持ちが芽生える。 「で、今回はそのスィールに用があるわけだが……」  レイは目を細めて沖を見た。つられて棠鵺と琅果も同じ方向を見る。  何の変哲もない海だ。特に何かがあるようには思えない。そう思った矢先、潮が突然引き始める。それがあまりにも急速に引いていくものだから、二人は思わず目を疑った。 「来たみたいだな」 「え? え?? えぇーーー!?」  完全に絶句している棠鵺と、到底言葉とは呼べない当惑の音を口から発する琅果をよそに、レイだけはいつも通りにその様子を凝視していた。  目の前には自身の身長をも優に超えると思われる、巨大な高波が現れた。 棠鵺と琅果の目線の先はもはや海そのものではない。轟音と共に刻一刻と迫り来る高波である。  言葉から察するにレイはこれを待っていたようだが、そんなことは関係ない。今にも襲い掛かってきそうなその高波を前に、二人は完全に身を硬直させた。 「そんなに怖がらなくて大丈夫だ。ここまでは来ない――……はずだ」 「はず!?」 「いや、俺もこんなふうに来るとは思わなくて……」  レイのそのなんとも曖昧な物言いに琅果は思わずレイの袖を掴んだ。  ここに来ようと言ったのはレイで、あれを待っていたような発言をしたのもレイだ。ならば彼を信じて良いのだろうと、そう信じるしかないのだが、しかしそのように曖昧に言われてしまえば不安は募るばかりである。 「あぁ、ほら、上にいる」  言われて二人は上を見た。確かに、何かヒトのようなものが乗っている。その人影はこちらに合図でもするかのように軽く手を振っていた。  あの高波がそのままこの岸まで襲い来るのだとばかり思っていたが、現実は違った。波は徐々に徐々にその大きさを縮小させていき、浜辺に岸に着くころには普通の波となんら変わらないものになっていた。  ほどなくして、それ――スィールは目の前にやってくる。巨大な高波に乗って現れるという派手な登場をした割には、小さくなった波に乗り切れず、そのまま浜辺に打ち上げられるというなんとの地味な方法で。 「お前は何がしたかったんだ」  呆れの色を多分に含んだ声で、レイは打ち上げられたままうつ伏せで浜に埋まっているその男――スィールを軽く足蹴にする。その様子を少し離れた位置から観察しつつ、棠鵺と琅果は心配そうに二人を見ていた。 「待て待て待て! エレイス、お前、久々に会った同志にそれはないんじゃないのか!?」  スィールは勢いのままにガバリと起き上がる。砂は水で濡れているため砂ぼこりは起きないが、スィール本人は完全に砂まみれである。起き上がった際に砂浜にできた手形や、スィールの人型は数秒後には波に虚しく掻き消されていった。
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