三幕 綿津見の住処

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「そうそう、話がずれて悪かったな。満珠って言うのは潮満珠(しおみちのたま)って言って、名前の通り、海に投げ入れたら潮が満ちる珠玉(たま)のことだ。海の秘宝の一つなんだけどな」 「うん」 「で、それがあれば直ぐに満潮にできるから、エレイスはそれを借りに来たんだと。でもオレはそこまで話聞いてないから、持ってきてないのな。ホント、必要な言葉が足りないっつか……」  呆れたように言いながら、後ろ手に親指でレイを指す。 「で、今から取りに帰るからちょっと待ってて、って話」  わかったか? と優しく笑いながら琅果の頭をぽんぽんと撫でる。琅果は驚いてスィールを見上げるが、その笑顔につられて笑顔で頷いた。 「ってことで、すぐ取って来るからしばらくここで待っててくれ。海の中に招待してやりたい気持ちもあるにはあるんだが……最近ちょっと不穏でな。慣れない冒険はしない方が良いだろう。何よりこの時期はまだ寒い。海中観光はまた今度っつうことで」――と言ってスィールが海に戻ってから既に随分と時間が経っている。日はとっくに沈み始め、先ほどまで青々としていた海は、今では見事な橙に染まっていた。 「レイさん、スィールさん遅くないですか?」 「…………」 「レイさん?」  返ってこない返事を不審に思って隣を見れば、その人物はかくんかくんと船を漕いでいる最中だった。 「ね、寝てる……」  穏やかな寝息を立てながら、しかし眉間の皺は相変わらず深い。そういえば目が覚める前もずっと眉間に皺が寄ってたな――などと思いつつ、棠鵺はレイの胴部分を見る。  里の人間が修繕してくれた彼の衣服は、ほとんど新品のように綺麗に仕上がっていた。いや、もしかしたら実際完全に新しく仕立て直したのかもしれない。それはともかくだ。完全に閉じられているその衣服の上から、傷の様子を窺うことはできない。  先のスィールの反応、そして先日のブリトマータの言葉がやけに引っかかる。自分はもしかすると相当に彼に無理をさせているのかもしれない――そう思うと、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。  夕日と共に次第に沈んでいく気持ちをなんとか保ちつつ、自身の袂に入った扇を手に取る。 「あれ?」 「棠鵺くん、どうしたの?」  先ほどまで浜辺で体術か何かの修行のようなことをしていた琅果が、棠鵺の怪訝な声に駆け寄ってきた。 「いや、この扇、いつの間に入れたんだろう、と思って……」  棠鵺の手には白秋扇が収まっていた。慌てて両側の袂から残りの扇を全て出す。そしてほっと一息。青春扇と間違って持ってきてしまったのかと焦ったが、青春扇もきちんとそこにある。 「あったらまずいもの?」 「ううん。ただ、この扇は使い方が分からないから置いて来ようと思ってたんだけど……」  青春扇は言わずもがな今回の旅の本命だ。これがなくてはここまで来た意味がない。本来ならば玄冬扇と朱夏扇も必要ないものではあるが、これは護身用に役立つために一応持ってきた。それはいいのだが、問題は白秋扇だ。  美しい純白の扇だが、淵には金の糸で絢爛な刺繍が為されている。ところどころ散りばめられた金箔は楓や銀杏を象っており、限りなく白金に近い。誰もが目を奪われるに違いない、優美な趣のある扇である。  これは本来秋分における儀式で使うものだが、他にももう一つ用途があった――らしい。らしい(・・・)というのは棠鵺自身はこの扇をそういった形では用いたことがないために、実際にどういうものなのか分からないのだ。  曰く、白秋扇は月に関する力を宿しているとのことだった。しかしながら棠鵺の物心がついた頃には月はとっくに夜空から姿を消しており、棠鵺自身はそれを伝聞や絵などの知識としてしか知らない。そんな何か分からないものの力を持った扇を使う気には到底なれず、これまでずっと秋分における儀式以外に使ったことはなかったのだった。 「ふ~ん? でもすっごく綺麗な扇だね」 「……うん、僕も、そう思う」  その純白の扇をぼうっと眺めながら、棠鵺はどこか懐かしいような、哀しいような気持ちを覚える。何度もこの扇を見てきたが、これまでこんな気持ちになったことは一度もなかった。  いつの間にか持っていた件も併せて不思議に思いつつも、今更戻しにいくわけにもいかず、棠鵺は他の扇と共に再び袂の中にしまいこんだ。  日はとっくに沈み、いよいよ夜の帳が降りて来た。いつまで経っても帰ってこないスィールを心配に思うも、現状やれることは何もない。このままここで野宿――なんてことになったら大変だと、棠鵺はとりあえず周囲から焚火に使えそうな枝や葉を集めた。多少湿っていても、朱夏扇の火力で一気に燃せば水分はすぐに蒸発するだろう。とにかく最終的に燃えれば何でもいい。  そう思って浜の周囲を歩き回っていたときだった。海の方から波の音に紛れて「ペタ、ペタ……」と足音が聞こえてきたのは。 「スィールさん?」  棠鵺は声を掛ける。暗がりでよくは分からないが、その人影の大きさから言っておそらく彼で間違いないだろう。そう思って近づこうとしたとき、その影が突然崩れ落ちた。  何事かと急いで駆け寄る。そして手に持っていた枝に急いで火をつけた。そうして視界が明るくなったとき――…… 「スィールさん!?」  そこには、手に持った三叉槍(トライデント)で辛うじて自身の支える、血まみれのスィールの姿があった。 「わるい、けど……」  掠れた声は震えていた。それは感情による震えというよりは生理的なもののように感じられた。肩で息をしながら、スィールは辛うじて声を絞り出す。 「あいつ、呼んできて、くれ……」 「レイさん! レイさん! 起きてください! スィールさんが!」  船を漕ぐこともやめ、完全に寝る姿勢になっているレイの体を棠鵺は必死に揺らす。 「ん……?」  眉間に皺を寄せたひどいしかめっ面をしながらも、レイはおもむろに起き上がった。それも、暢気に欠伸をしながら。 「スィールがどうした?」 「大変なんです! 早く来てください!」 「は?」  棠鵺に導かれて、レイは焚火の前に辿り着く。今、スィールには琅果が付き添っているようだった。 「スィール?」  レイは目を細めた。(かぶり)を振り、一度目を手の平で覆う。そして真っ直ぐにスィールを見る。眉間には先程より更に深い溝ができている。 「はっ、やっと来たか……」  さすがは神族と言うべきなのか。先ほどまでの血は嘘のようになくなり、スィールは昼に会ったときと同じ調子で軽口を叩いた。しかしそれに乗るレイではない。 「何があった……?」  レイは炎を挟んでスィールの正面に座る。まっすぐにその青の瞳を見据え、黙って彼の言葉を待った。  どうしたらいいのか分からないまま、棠鵺はその場に立ち尽くした。それは琅果も同じようで、棠鵺の隣に寄り添うように立ちながら、眉を八の字にし、祈るように手を胸の前で組んでいる。 「…………、……ふぅ」  スィールの口が開く。そこからどんな言葉が出てくるのかと、耳を澄ませる。しかし聞こえてきたのは吐息のみで、彼は何も発さない。長い沈黙がそこにはあった。波の音だけが鼓膜を刺激する。  ふっと、スィールの口許が緩んだ。そして今度こそ口を開き、 「いや、何もない。心配かけて悪かったな」  と、それだけ言って口角を上げる。  しかしそんな言葉で納得がいくはずもなく、レイは何も言わずにスィールを睨んだ。本来は金ともとれるその右目も、今は炎を映して赤銅(あかがね)に変色しているように見えた。緋に染む両の瞳は昏い。 「んな怖い顔で睨むなって」 「言いたいことがあるなら言ってくれ。取り返しがつかなくなる前に」  なお彼を見据えるレイの眼光の鋭さに、むしろこちらの方が身が縮む思いだ――と、棠鵺はそっと息を呑んだ。 「何もねぇよ。ちょっとアホやっちまっただけで」  笑って流そうとしたスィールであったが、刹那、その意識が横に立つ二人に向かうのを、レイは見逃さなかった。 「ここでは言えない話か?」 「……いや?」  口許の歪みの種類が変わった。図星だ。誰から見てもそう取れる。不自然に釣り上がる唇に反し、目は笑っていない。  それを見てレイは一つ溜め息を吐く。 「そうか、分かった。悪かったな」  そこからまだ食い下がるのかと思いきや、意外にもレイはあっさりと身を引いた。そのまま何も言わずに立ち上がり、軽く伸びの姿勢をとる。 「で? 結局例のものはもらえるのか?」  今の会話の中にどんな意味があったのか、棠鵺には分からない。しかし、レイがあえてそこを言及せずにいるということは、神族同士の暗黙の了解のようなものがあるのだろう。そこを聞きたいと思う好奇心を抑え、棠鵺は何も言わずにただ二人の会話を見守った。 「あぁ。これだ」  言って、スィールは何かを放って寄越す。レイは反射的にそれを手に取り、まじまじと見つめた。数珠つなぎになった深い藍色の石のようだった。 「それが人間界の満珠だ。その糸から外して一つ入れれば小潮、二つ入れれば中潮、三つで大潮だ。四つ入れたら津波、五つ以上入れると海底地震やら海底火山の噴火やら、何かしらの天変地異が起きる。気をつけろ」 「……分かった」 「あとは……」  スィールはごそごそと衣服の中を探る。そして「あった」ともう一つ何かをレイに手渡した。 「そっちは精霊界の干珠だ。さっきの理屈だと、帰るときにあった方が便利だろ?」  スィールは悪戯に笑った。手渡されたその石は、先ほどのそれとは違って淡いとも濃いとも言い難い美しい緑色をしていた。 「使い方は満珠と同じだ。入れる量も。ただ、四つ以上で起こる災いが変わる。どっちにしろ天変地異に変わりはない。必要以上にいれないでくれ」 「あぁ。スィール、その……悪かったな。巻き込んで……」  バツが悪そうにそう告げるレイを見て、スィールは「ははっ」と力なく笑う。 「気にすんなよ。俺とお前の仲だろ?」  一呼吸置いて、レイはずっと所在無さげにしていた二人に声をかけた。 「待たせたな。今すぐ精霊界に向かうぞ」  そう言ってその場を離れようとするレイに、スィールが「あ、ちょっと」と声を掛けた。そして今度は棠鵺の方を向き、「聞きたいことがある」と切り出した。 「トーヤっつったっけ? お前さ、この辺にお前以外の妖族がいるのを見たことがあるか?」  意外な質問に、棠鵺は目をパチパチとしばたたかせる。 「いえ、見たことはないです」 「そうか……。お前さ、魔族の知り合いとか、いない、よな?」 「はい。人間以外の方に会ったのは、十二様を除けばレイさんが初めてでした」 「ん? 十二様……っつうことは、お前がブリトマータのとこの妖か。そうかそうか。そっかぁ……なら心配要らなそうだな。引き留めて悪かった」  どうにも、スィールの顔が晴れない。まだ何か気になることがあるようだった。 「お前、さっきから何を隠してるんだ?」  痺れを切らしたレイがイライラとした口調でそう問えば、スィールはやはり「なんでもない」と笑うだけだった。 「そうそう、これから精霊界に向かうなら、ここから少し東に行ったところにある小島から行くのを勧めるぜ。あそこなら海境……が近いから、多分他のところよりも上がりやすくなってる、と思う」 「んなところまでどうやって行けば良いんだよ?」  海境と言った直後に言葉を濁したことを不審に思いつつも、レイはあえてそこには触れなかった。 「それはほら、いい奴がいるだろ?」  楽しそうに笑いながら、スィールは棠鵺にウィンクをする。それにつられて、レイと琅果は思わず棠鵺を見た。 「え、僕、ですか?」
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