四幕 海境

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 ――まさか、まさか、まさか。  募る焦燥感を無理やり抑え込み、レイは目の前の敵を視る。  スィールが戻ってきたあの時から嫌な予感はしていた。ここが本当に海境であるのなら、おそらくスィールは先ほどこの近辺に来たのだろう。そしてあれと出くわした――と考えるのが妥当だ。  スィールが棠鵺に「魔族の知り合いがいるか」と聞いた理由もこれで分かった。しかし分からないのは、なぜここにこんなものがいるのかだ。 「うぅっ……! ヒッ!」  先程蹴り飛ばした影が動き出した。ソレはレイに蹴られた痛みに呻き声を上げている。だが、その声の中にもあの笑い声が混じっている。 「ったく……」  レイは声のした方を見る。赤い両目がまっすぐにレイを見据えていた。 (さて、どうしたものか……)  神通力はさっきからずっと使っている。しかし効かない。 (奴に有効打があるとすれば――……)  レイはちらと琅果を見た。そして僅かに溜め息を吐く。  棠鵺はまだ正気だ。何かあったとしても自力で何とかするだろう。多少の怪我は仕方ないにしても。  問題は琅果だ。腰を抜かしたように地面に座り込み、訳の分からない恐怖に静かなパニックを起こしている。  琅果を落ち着かせるのに必要なのは自分の能力(ちから)ではない。できないこともないが、それはかなりの荒療治となる。他に手立てがないならまだしも、今はそうじゃない。  今、琅果を正気に戻す為に必要なのは、間違いなく棠鵺の言葉だ。未だ数日程度しか共にいないとはいえ、それくらいは分かる。  だが、その棠鵺も自責の念でいっぱいいっぱいになっている。 (どうしたものか……)  影がレイに飛び掛かった。レイは間一髪それを避け、今度は肘鉄で影の喉元を打つ。片手に持った大鎌を振るい、影を斬ろうとするがそれは適わなかった。 「っ……! やっぱりダメか……!」  レイは大鎌を消す。そして相手との距離を十分に取る。  ふと、琅果の啜り泣く声が聞こえてきた。棠鵺の困ったような声と、琅果の震えながらも、どこか安堵の混ざった声にレイは一瞬口許を緩ませた。  しかしすぐに険しい顔に戻る。 「ロウカ!」  レイは視線を影に向けたまま琅果の名を呼ぶ。 「はい!」  突然のことに慌てふためきながらも、琅果は大きな声で応答する。 「今から俺が言うことをやって欲しい」 「あ、あたしにできることなら……!」 「霊力で……っと……!」  続けざまに何かを聞こうとするも、邪魔が入る。振り上げられた片手を寸でのところで避けつつ、相手の腹部を膝で蹴り上げる。  相手が一瞬怯んだその隙に、最低限相手に背中を見せないようにしながら琅果の元へと近づいた。 「ロウカ、俺の両目と両脚に、気功術(・・・)を掛けてほしい……」  気功術――それは精霊族が霊力によって扱う術の総称だった。彼らは自身、あるいは他者の肉体の一部を強化し、一時的に身体能力を上げることを得意とする。  ヒトによりけりではあるが、精霊族が肉体的に強いと言われがちなのはこれが主な理由だった。  琅果は一瞬当惑の色を見せるも、状況が状況だ。あまり深く考えずに言われた通りにレイの体に霊力を与える。 「ご、ごめんね……! あたしあんまり他人に術を施すの得意じゃなくて……!」  言いながら、琅果はあたふたと頭を下げた。しかし当のレイはというと、「いや」と一言告げて、再びソレの前へと戻る。  レイは、振りかざされた相手の腕を思い切り掴み、捻る。そして思い切り背負い投げた。  相手は蛙が潰れたような呻きを上げる。しかし直ぐに起き上がり低姿勢で構えた。  長い髪が顔にかかっているがそれすらも気にしていないようだ。だが、ざんばら髪の奥に見える赤の色に少し変化が見えはじめた。 (感情はある、みたいだな……)  レイに対する、恐怖の色がそこにはあった。  自分よりも強い者を恐れる。それは生物の本能だ。  レイはソレを睨みつける。ソレは威嚇をするように牙を剥き出しに、ファーッ! と声を上げた。四つん這いになりながら、獣のように後退る。 「そろそろ諦めろ」  レイは与えられた霊気を今度は腕に集中させ、一歩、また一歩と影に歩み寄る。影は逃げるように下がって行くものの、チリン、と祠にぶつかり、逃げ場を失った。腕を振り上げる。止めを刺すべく、相手の脳天にそれを振り下ろす――筈だった。  その瞬間大気をも割るような裂帛が響いた。レイは思わず耳を塞ぐ。頭が割れるような高音は堪え難く、思わず顔を顰める。  しかし相手もその隙を見逃さない。高く跳び上がり、奥にいる二人へと向かった。 「しまっ……! 油断したか……!」  窮鼠は何をしでかすか分からない(・・・・・・・・・・・・・・・)。それを完全に失念していた。  レイは直ぐさま身を翻し、二人の元へ急ぐ。だが、空を跳ぶそれと、地を走る自分ではその速さは歴然、間に合うはずがない。 「二人とも、逃げ――っ!?」  そのとき、ソレの体が吹き飛んだ。  何事かと思えば、そこには二把の扇を構えた棠鵺の姿があった。朱夏扇と玄冬扇――そこから生み出される熱気と冷気は見事に混ざり合い、突風と共に相手を吹き飛ばす。  しかし相手もそれだけでは終わらない。吹き飛んだ先には木があった。ぶつかる反動を利用して、再度棠鵺へ向かって行く。強い力がかかっている為、先程よりも速い。 「琅果! 伏せて!」 「は、はい!」  琅果は言われた通りに身を屈める。直後、琅果の頭上を鋭い爪が掠めた。  どさっ――という音と共に、ソレは地に落ちた。かと思えば、のそりと起き上がりながらソレは次に棠鵺を視界に捉えた。棠鵺は数歩ばかり後ろに下がり間合いを取る。  ソレが動いた。凄まじい勢いで襲い掛かってくる。棠鵺は飛び掛かってくる相手を、腕でガードするように力一杯受け止めた。  だが、思った以上に力が強い。押し返そうとするも、逆に押されている。重量に耐え切れずに棠鵺は徐々に後ろに下がる。どうにも相手に分があるようだ。 「もう! 棠鵺くんから離れてよ!!」  それまで状況についていけずにおろおろとしてばかりだった琅果だが、ここぞとばかりにソレを思いきり蹴り飛ばした。見事に吹き飛んでいく相手。そしてそれと同時に軽くなる体――掛かっていた力が突如としてなくなったことにより、棠鵺はよろめく。 「わっ……!」  そして、そのとき初めて気が付いた。すぐ横に、あの泉があったことに。しかし時すでに遅く、棠鵺の体は完全に重力の為すがままだ。  ぼちゃん。  次の瞬間、水の音が周囲に鳴り響いた。 「棠鵺くん!?」 「げ、うそ……だろ……?」  急いで助けに向かいたい――そんな二人の思いを無視して、ソレは棠鵺の後を追おうとする。しかしそこはレイが許さなかった。 「させるか、よ……!」  相手の髪を掴み、引っ張り引き寄せ、腕を捻り上げた。 「キィーーーッ!!」と、けたたましい絶叫が響き渡った。腕が有り得ない方向に曲がっている。そこへ追い撃ちをかけるようにレイの拳が鳩尾を襲う。  次にレイはソレの首に手を伸ばす。霊気を再び腕に集中させた。今度は逃がさないように、首を掴んだもう片方の手は力の限りをかけていた。頸動脈を塞がれ、ソレは口から泡を吐く。 「ロウカ、少し耳と目を塞いでろ」 「え、あ、はい……!」  琅果が両目と両耳を塞いだのを確認する。 「……——、……————……」  そして小さな声で何かを唱えたと思えば、次の瞬間にはソレは跡形もなく消え去っていた。
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