幕間・乙 濫觴

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幕間・乙 濫觴

 ぱちん、ぱちん、ごお、ごおと音が鳴り響く中で、今まで聞こえていた「どん、どん、どん」という優しい音が次第に聞こえなくなっていく。どうしたのだろうかと不思議に思ったのも束の間で、次の瞬間には、自分がそろそろこの部屋から出て行かなければいけないのだということが分かった。けれど出方が分からない。どうしようかなと思っているうちに、どすん、どすんと、部屋ごとどこかに落ちてしまった。徐々に脆くなっていく部屋を蹴ったり叩いたりしながら、あぁ、こうやって出て行くのかと、目の前にあった柔らかい壁にそっと手を添え、力いっぱい開いてみる。そうして最初に見えたのは赤いもの。眩しいな、と目を細め、次に見えたのは黒いもの。そうだ、あの部屋を出たなら最初にしなければいけないことがあった。思い出すと同時に、目一杯お腹に力を入れる。全身に響くような大きな振動と共に、自分の中から不思議な音が鳴りだした。あぁ、これが自分の意思を相手に伝えるということなのだと瞬時に理解する。そうこうしているうちに何かが近づいてくる気配がして、そちらに頭を向けてみる。大きな黒い影が動いている。その影の中に、とても綺麗な光の球を見た。なんて美しいのだろう――そう思って、懸命に手を伸ばしてみる。あれが何かは分からないけれど、でも一つだけ分かることがある。それは、あれは自分が持っていないものだということ。そうと理解すると、今度はそれが欲しくて欲しくて仕方がなくなった。あれが欲しい――そう強く願った瞬間、赤い雨が降って来た。 ***  二人は、確かに愛し合っていた。  燃え上がる炎は無情にも、手を取り合い、寄り添う二人の躰を包み込む。二人はもがくことも悶えることもせず、まるでそこに熱など存在しないかのように、ただ静かに緋の衣に身を委ねる。悲鳴の一つも上げはしない。もしやとっくに息絶えているのではないか。誰もがそう思っても不思議ではなかった。けれど、二人はまだ確かに生きている。時たま聞こえる愛の囁きが、二人の命が未だそこに存在していることを証明していた。  それはとても残酷な光景である。しかし、同時にとても美しい光景でもあった。  堅く握られたその手が離れることはついぞなく、それは二人の躰がただの黒い消し炭になってさえ誰の目にも明らかだった。  自分たちはなんということをしてしまったのだろう――そんな気持ちとは裏腹に、群衆の胸には安堵の念が宿る。やっと終わってくれた、これで全てなかったことにできる。相反する二つの想いを胸に秘めたまま、けれど二人をこのままにしてはおけないと、幾人かが黒炭へと歩み寄った。そのとき―― 「おぎゃあ、おぎゃあ……!」  どこからともなく、嬰児(みどりご)の泣き声が聞こえてきた。いや、その出処は分かっている。これは産声だ。そんなまさかとその考えを否定しようにも、声は明らかに前方――すなわち、ただの黒い塊と化したその中から聞こえてきている。近付いて確かめるべきか否か。このまま放置する選択肢など端からありはしない。意を決して歩みを進め、かつて一人の女だった燃え滓の中をそっと覗く。ぱっちりと大きく見開かれた双眸に思わず息を呑んだ。しかし、その一瞬の迷いが間違いだった。  次の瞬間、男の首が――消えた。
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