一幕 春の訪れ

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 一心不乱に岸に這い上がるも、その人物は思っていた以上に大きく、そして重い。水を多分に含んだ衣服がその重量を更に上乗せしている。自身がそれほど非力であると思ったことはこれまでに一度もなかったが、このときばかりは己の細い腕を呪った。  どうにか引き上げられないかと腕に力を入れるも、冷えてかじかむ手には十分な力が入らず、彼の衣服を離さないようにするのが精いっぱいだった。 「どうしよう……このままじゃ……」  池の水はまだまだ冷たく、このままでは彼の体温は奪われるばかりだ。周囲の動物に助けを求めようとするも、彼らはこの強い神気に充てられてまともに動ける状態ではない。  自分にできることはなんだ? 考えても考えても分からない。ただただ徒に時間ばかりが過ぎていく。  強い風が吹く。穏やかに静まっていた池の水が再び大きな波紋を描く。波の抵抗に耐え切れず、思わず手を離しかけたその瞬間、突如右手に強い痛みが走った。 「……え?」  途端に周囲を覆う威圧感が増長する。思わず痛みの根源を見れば、そこには白い――異常なまでに白い腕があった。消え入りそうに白いその腕は、しかしその印象に反してとても力強い男の手だ。  どうにか逃れようと足掻いてみるも、がっしりと掴まれた右腕は僅かたりとも動かない。 「……――さ、ねぇ……」  声が聞こえる。それはまるで呪詛のように重く低く、脳髄が震えるような錯覚を覚える。何事かとその人物を見つめる。そうして見えた、流れ出る血液よりも深い――昏い紅の瞳に背筋が凍った。  血色の悪い唇が数度無意味に開閉を繰り返す。直後に右腕の骨が軋み――…… 「絶対に――!!」  銀糸の隙間から垣間見える緋の左目に息を呑む。決して光を宿さないその瞳に、今にも自分の魂を吸い取られてしまうような、そんな気さえする。  ――怖い。  棠鵺の中に渦巻く感情はもはやそれ以外の何ものでもない。発せられる神気は圧倒的なものであり、己ごとき矮小な存在がいかに抵抗しようとも、いとも簡単にねじ伏せられてしまうことだろう。それだけの力が目の前のその男にはある。  岸に這い上がろうと腕を更に強く握りしめるその男に引きずり込まれてしまわないように、棠鵺は必死に大地に腕を突き立てる。ぎゅっと雑草を握りしめれば、爪の中に土が入り込んだ。痛い。痛い。掴まれた右腕が痛い。草で擦り切れる掌が痛い。土によって剥がされそうな爪が痛い。もはやどこが痛いのかも分からない。  生まれて初めて味わう純粋な恐怖は棠鵺の思考を停止させるには十分すぎるほどだった。真っ白になる思考をそれでもなんとか動かそうとすれば、ただただ感情のみが空回る。  どうにかしなければ――そうは思っても、押し寄せる恐怖の波は思考の整理を決して許してはくれない。どうしよう。どうしたら。そんな言葉ばかりが脳内を巡る。一向に出口の見えない思考の迷路は、次第に「諦めろ」という新たなる道を示し始める。  いや、しかし。それでも。まだ何か手はあるはずだと、棠鵺は恐怖を必死に抑え込み、大地を映していた瞳に大空を映す。すうっと大きく息を吸い込み――…… 「誰かぁ! 助けて!!」  力の限りに声を張り上げた。そう、ここには本来この地を治める神族――十二様が存在しているはずなのだ。彼女もきっとこの異変には気づいているはず。ならば、もしかしたら――そんな一縷の望みに縋るしか残された手はなかった。  そのとき、突如としてふわりと柔らかな香りが鼻腔をつく。咲くにはいささか早すぎるが、おそらくは桜の香りだ。そしてそれとほぼ同時に右腕の痛みが和らいだ。引っ張られる力が突然弱まった反動で後ろによろめく。  それまでそこにあった重圧がまるで嘘のようになくなっていた。たちまち静まりゆく空気の中で聞こえた「ざり」という、土と何かが擦れる音。ホッと一息吐けると思ったのも束の間。まさかと思って見れば、それはやはり再び意識を失ったのであろう黒衣のその人物が、再び池の中へと沈もうとしている音だった。  その人物を決して池の中には渡すまいと、必死に手を伸ばし、再び衣服を掴んだ。しかしかといって状況は依然変わらない。棠鵺ひとりの力ではその人物を引き上げるのが難しいことには変わりないのだ。  さて、どうしたものか――と再度思考を巡らせる。膨大な神気が静まったことで、先ほどまでの恐怖はなりを潜めていた。とにかくこの状況を打開せねばと周囲見渡してみるも、鍵となりそうなものは何もない。女神がこの場に来ているという気配もなかった。 「とにかく、彼を引き上げないと……」  流れ出る血は留まることを知らず、池の水は既に完全に変色してしまっていた。こんなにも大量の血が流れ出ているのでは、たとえ引き上げたとしても助からないのかもしれない――そうは思うも、かといってこのまま腕を離して見捨てるわけにもいかない。二進(にっち)三進(さっち)もいかない状況に焦りばかりが募っていく。  せめてあと一人、力を貸してくれるヒトがいたら――神気が消えたことによって動物たちも落ち着きを取り戻してはいるが、彼らはこの人物自身を既に警戒してしまっている。協力を仰ぐのは難しいかもしれない。そうは思いながらも、妖気を喉に集中させ彼らに語りかける。 「お願い、誰か力を貸して……」  今にも泣きそうな思いでそう口にしたとき、神域の外側から騒がしい足音が聞こえてきた。それは周囲の木々をなぎ倒すように一直線にこちらに向かってくる。思わず振り向けば、そこにはこの山の(ぬし)とも言われている――体長三ベイトにも及ぶ巨大な体を持つ、赤毛の熊の姿があった。 「手伝って、くれるの……?」  いくら動物と意思を疎通することのできる妖族とはいえ、動物の意思まで制御することはできない。ヒト同士が争いを起こすことがあるのと同様に、動物との間にもそういった諍いが生じることはある。  彼はけっして悪しき存在ではないが、その力の強さゆえに傲慢で尊大なところがあるというのは事実だ。もちろんそれは野生に生きる強者としてのプライドの表れであって、それ自体にどうこう言うつもりもない。しかしだからこそ、彼がこうして駆けつけてきてくれた理由が協力のためなのか、それとも自分の縄張りで勝手なことをするなということなのか――そこを確認するまでは安心することはできない。  恐る恐る語り掛ける棠鵺を一瞥し、主は一度「ふん」と鼻を鳴らす。そしてのそりのそりと歩み寄ってきたかと思えば、おもむろに池の中に腕を伸ばし、黒衣の人物を掴み――投げ飛ばさんが如く力いっぱいにその人物を引っ張りあげた。  ばしゃん、と大きな音と共に陸へと引き上げられたその人物を仰向けに寝かせ、棠鵺は改めて容態を確認する。口元に耳を近づければ、弱弱しくも呼吸をしているらしいことが確認できた。まずはそれだけ分かれば十分だ。 「ひと仕事終えた」といったようにその場に座り込む主に一言お礼の言葉を告げ、軽く背中を撫でる。主はくすぐったそうに身をよじる仕種を見せたものの、それ自体はけっして不快ではないようだった。  次にあの大量の血の出処の確認だ。いや、確認するまでもなくそれは明らかだった。左肩から右下腹脇にかけて――一本の大きな裂傷がある。今にも内臓が見えてしまうのではと思えるくらいにぱっくりと裂けているその傷は、どう見ても人為的なものだ。中身が見えずに済んでいるのは、ひとえに彼自身の筋肉の厚さゆえと言えるだろう。  そうは言っても出血が多ければヒトは死ぬ。これだけ大きな傷をすぐに塞ぐ手段を棠鵺は持ち得ず、今もなお流れ続けるその赤い液体を止めることは難しかった。止血するためには圧迫することが一番だと聞いたことはあるが、これだけ大きな傷となると止血点がどこなのかもわからない。  とりあえず自身の腰ひもで縛ろうかと試みるもそれはもはや焼け石に水のようにも思えた。  万策尽きたかとうな垂れかけたそのとき、再び先ほどと同じ桜――のような――香りが鼻腔に届く。そして、  ――凍らせちゃえば良いんじゃないかな? あそこにある扇で……――  どこからともなく鈴を転がしたようなな少女の声が鼓膜を震わす。まるで脳に直接語り掛けてくるようなその声と一瞬漂った霊気に疑問を抱きつつも、先ほど島の北側に配置した黒と薄青のグラデーションによって彩られるその扇を見た。  玄冬扇――そのように名付けられたその扇には確かにそういった力が存在する。厳しい冬を乗り越えるために生命活動を停止する動物たちにあやかった力を与えられたその扇は、万物から熱を奪い、生物を強制的に冬眠状態へと落とし込む。水から熱を奪って凍らせることも十分に可能だ。  理論上は不可能ではない。冬眠状態――すなわち仮死状態にすることによって助かる可能性は増えるし、傷口を凍らせることで出血を止めることだってできるはずだ。だが、しかし―― 「体力が持つのかな……?」  既に大量の血液とともに膨大な体力を失っているはずだ。下手をすれば止めを刺しかねない。加減を間違えれば凍傷から壊死となって身体の一部を失ってしまうかもしれない。その責任を、自分で負うことができるのか。そう考えるとどうしても決断することができなかった。  震える両手を見つめながら、しかしこのままでもきっと結果は同じだ。やらないで後悔するくらいなら、やって後悔した方が良いのではないか。そんな考えも脳裏に過る。そんなときだった。  ――大丈夫だよ、神族はあたしたちと違ってそう簡単には死なないから――  再びあの声が聞こえてきたのは。再び仄かに感じられた霊気に棠鵺は確信する。間違いない、精霊族がこの近くにいる。君は誰なの? そんな言葉が口から飛び出しそうになるのを抑え、今はそれよりも先にやることがあると気持ちを切り換える。  自身にそれができるのか、正直なところ全く自信はない。しかし、だからといってこのまま何もせずに後悔するよりはよほどマシだろう。何より、ここまで来たらやるしかないのだ。  棠鵺は自身の頬を軽く叩き、意を決して立ち上がる。そして急いで島に件の扇を取りに走った。  呼吸を静め、意識を集中する。  どうか助かりますように。どうか上手くいきますように――そんな願いを胸の内で何度も唱え、扇をひと扇ぎすれば、桜隠しの如く雪がはらりひらりと舞い降りる。最初の一粒が男の傷口に付着したと思えば、途端に周囲に眩いばかりの青白い光が走る。時間にしてほんの数秒。しかしその光が収まった頃には、男の傷は厚い氷に覆われていた。 「上手く、いった……?」  まずは一つ目の山を越えたことに一安心――は、していられない。一刻も早く彼を麓に運んで医術の心得のある人物に見せなければいけない。  この地に人間が足を踏み入れることは基本的に許されていない。もしも麓の人間を呼ぶなら、ここから一番近いのは棠鵺の家になるだろう。しかし棠鵺の家とて山中に存在している。戻ってから呼びに行って……などと悠長なことは言っていられない。  棠鵺は指を口元に充て「ピーッ」とひと吹きする。すると近くの木の上から小柄な鷹が一羽飛び出してきた。鷹はまっすぐに棠鵺のもとを目指し、差し出された彼の腕をその逞しい両脚でがっしりと掴む。 「来てくれてありがとう。これから麓の長のところに行ってほしい。それですぐに僕の家に連れてきて。頼んだよ」  言いながら、棠鵺は自身の衣服の切れ端をに泥で軽く文字を書く。普通のヒトが読むのは至難の業だろうが、彼なら問題なくこの文字の意図を汲み取ってくれるはずだ。そう信じて、その切れ端を鷹の脚に結いつける。 「じゃあ、お願いね」  棠鵺が腕を高く上げれば、その勢いに乗じて鷹は大きく羽ばたいた。空を大きく旋回したのち、山の角度に沿って滑空する。  その姿を見届けたのち、棠鵺は先ほどから横で興味なさげにくつろいでいる()に視線を送る。主はとても面倒くさそうに棠鵺から目線を逸らすも、「仕方ない」とでも言いたげに溜め息を吐き、おもむろにその巨体を起き上がらせる。 「ごめんね、あと少しだけ力を貸して。彼を運びたい。あとでお礼はちゃんとするから」  言いながら、棠鵺は背骨沿いに主の背中を軽く撫でる。男をその背に乗せてくれるように頭を下げれば、彼は不承不承といったように男を抱え上げ、自身の背に担ぐ。そうして四つん這いになったところで棠鵺もまた主の背に跨った。  棠鵺の態勢が整ったことを確認すると、主はすぐさま勢いよく山を下り始めた。  ――そういえば……  見る見るうちに小さくなっていく神域を振り返りながら、棠鵺はふと思う。 (あの声は一体誰だったんだろう?)  微弱ではあったものの先ほどは確かに霊気を感じたのに、今はもうその残滓すらも感じることができない。しかし、その瞬間に再度鼻腔をついた柔らかな桜の香りが、彼女が確かにこの山のどこかに存在しているということを示唆しているように思えた。
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