【1000字小説】空のペットボトル

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終電なんてとっくの前に発車している。 自宅まで歩くのは良い案とは言えないけれど、いくら帰りが遅くなったって困ることは何もない。明日の講義は5限だけだ。 酩酊する頭の端に浮かぶのは、敷きっぱなしの煎餅布団の心地よさだけだった。 煎餅布団の安心感を求めて重い足を引きずる。 ふと、横目にチカチカとした明滅を捉えた。 街灯も少なく暗い路地に、突如現れた賑やかな自動販売機。 サイダーが飲みたい。 降って湧いた消費意欲に抗えるわけもなく、右ポケットに入った小銭入れを取り出した。 チャリンチャリン 視界はふわふわ揺蕩っているのに、必要な硬貨を的確に選び出す自分に少しだけ誇らしくなる。 ガゴン、と甘い炭酸のたっぷり入ったペットボトルが落ちてくる。 取り出すのにやや手間取って、誇らしい気持ちはどこかに霧散していく。 パキッ 小気味いい音が響いた後、甘い炭酸は喉を遠慮がちに通過していった。 幼い頃から炭酸を嚥下するのが苦手だった。 それでもサイダーが好きだ。 左手にペットボトルを持ちながら再び家路を歩く。 サイダーは少しずつ少しずつ減っていく。 減っていくうち、サイダーを飲むのは久しぶりだということを思い出した。 あいつはいつでもサイダーを持ち歩いていた。 ほとんど聞き取れないくらいの小さな声で、延々とクリミア戦争について語る教授との戦いのときも。 歌声と話し声とが交錯する部室で、スターウォーズの新作について意見を交わしたときも。 嫌々行くことになったコンパへ向かう道中、マリオカートで早く走るために必須の技術をレクチャーしてきたときも(俺はマリオカートのソフトなんか持っていない)。 サイダーが好きなのか、なんて聞くまでもない。 いつも飲んでいるのだから好きなんだろう。 口には出さなかったけれど、いや、口には出さなかったからこそ、あいつがサイダーを好きなことを知っている、というのはとてつもなく価値があることに思えた。 でも、それだけだったのだ。 あいつがサイダーを好きであること以外、俺は何かあいつのことを知っていただろうか。 あいつの熾烈な想いも、暗澹たる夢も、俺が理解することは終ぞなかった。 俺は言葉にしない、できないものにこそ価値があると思い込んだ。 だけどきっと、それは間違いだったのだ。 サイダーはもうほとんど残っていない。 家に着く頃にはちょうど飲み終わるだろうか。 惨めな自己嫌悪は仄暗い路地に溶けて染み込み、消えていく。 残るのは、煎餅布団で二日酔いに苦しみながら目を覚ます俺と、 空のペットボトルだけだろう。
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