01.猛獣との出会い

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01.猛獣との出会い

 シックな色合いと高級な内装で整えられている落ち着いた店内に、流れる音楽は流行りの歌手の歌では無くクラシック。  庶民的な居酒屋とは異なるこの高級クラブでは、ちょっとやそっとの身分では入り口で追い返されてしまい、店内に足を踏み入れることもできないだろう。  ただ、今はまだ開店前で客は誰もいない。いや、カウンターテーブルに一人の女性が頬杖をついて座っていた。  高級な店内には不釣合いな、グレーのパンツスーツ姿でカクテルを呷る若い女性の着ているブラウスの襟元は乱れスーツには皺が寄ってしまい、クリーニングに出さなければ皺は取れないだろう。 「くっそー! やってられない」  バーカウンター席に座るスーツを着た女性は、溜め息混じりに右手に持った葉書をカウンターに叩き付けるように置いた。  その葉書は昨日、彼女の自宅マンションに届いた封書に入っていたもの。  後ろに立つ着物姿の和装美女が、一気にグラスに入った酒を飲み干す女性を窘めるように「有季子さん」と声をかける。 「飲み過ぎよ。彼とは縁が無かった、そう良い風に思いなさいよ」 「だけどねママ、折角吹っ切れてきた時にこんな葉書が来るのって、元彼女に送りつけるのは非常識じゃない?」  カウンターに置かれた封書は白地に薄ピンクの小花が散らされており、一見して結婚式の案内書だということが分かる。  まさか25歳目前で、親友だと思っていた相手に結婚まで考えていた彼氏を盗られるなんて考えもしなかった。  二人の関係を知らされて彼から別れを切り出されたのは三ヶ月前。  大学の時から二年も付き合っていたのに、半年も前から自分と親友に二股をかけていたとは。正直、展開について行けないし信じられなかった。  その上、親友は妊娠中で安定期に入る頃に結婚式を挙げるのだと、二人は呆然とする自分に言ってきたのだ。  頭が固いのかもしれないが、結婚や妊娠って順序を守りたいと昔から思っていた有季子は、セックスをするときは必ずコンドームを付けていた。  彼もそれを了解していたのに、できちゃった結婚をするだなんて有り得ない話。自分達が裏切り傷付けた元彼女と元親友に対して、幸せがいっぱい詰まった結婚式の招待状を送りつけるだなんて、非常識で信じられない行為だ。 (こんな事なら、ちっぽけなプライドを守るために怒鳴りつけたい激情を抑えて「幸せになってね」なんて言うんじゃなかった。一発殴ってやればよかった!)  幸せいっぱいだろう彼等とは違い、こんなに悔しい思いをして一人アルコールに逃げている自分は、なんて惨めで馬鹿な女だろうか。  いい大人が泣き叫び、何かに八つ当たりするわけにはいかない。この鬱憤を晴らすには酔いつぶれるまで呑むしかないだろう。  常連客の有季子の様子を遠巻きに見ていたママは、苦笑いを浮かべると仕事へと戻って行った。  ふと、有季子が気付くと店には客がかなり入り、先程まで相手をしてくれていたママも常連客の接客で忙しそうに働いている。  何時もならば混み合ってきた頃には店を出るのだが、特に何も言われて無いからいいだろう。と、酔いが回った頭で判断しグラスを傾けた。  *** 「いらっしゃいませ」  出迎えたボーイにコートを渡すと男は店内を見渡した。  店内はほぼ満席状態だったが騒がしいわけでは無く、客達は談笑しながら一時を楽しんでいる。  落ち着いた店内の雰囲気と酒の品揃えの良さ、そしてブラックカードを持っていようがこの店の者は特別扱いをしない、そんなところも気に入って彼はこの店を何度か訪れていた。  一人で来店したため、通されたのはカウンター席。  カウンター席に座る客は、一番奥に座るスーツ姿の女が一人でグラスを傾けていた。  女の持つグラスからカラン、と、氷の触れ合う涼やかな音が鳴る。男はその音を聞きながら、革張りのスツールに腰を落ち着けた。  腰を下ろすのを見計らい寄ってきたバーテンダーに、酒の名前を短く告げる。  彫りの深い顔立ちの男は面倒な仕事を終えたばかり。後処理は部下に任せて明日にはこの国を立つ手筈となっていた。  ようやく、数日ぶりにむさ苦しい連中と離れて静かに過ごせるのだ。  運ばれてきた酒で喉を潤すと男は息を吐いた。  今回、男がこの国へ来たのはビジネスのためであって、この国のマフィアどもと抗争をするつもりは全く無かったというのにと、シャツについた誤魔化しきれない硝煙の匂いを払う。あちら此方に、自分達を逐一監視している彼方と此方の政府の犬どももがいるようだが、男は彼らを相手にはしていない。  ちょっかいをかけてきた愚かな者どもを、死なない程度に痛めつけるだけで止めてやったのだ。  部下達をホテルに置いて一人で飲みに出たとしても、五月蝿い奴らには何も言わせまい。 「お代わりお願いします」  思考に耽っていた男の意識を戻したのは上擦った女の声。  隣の席に座る女は、スーツの色合いや黒縁の眼鏡のせいで地味な印象を受けた。  普段ならば気にも留めない女。  男から声をかけたのは、そう、ただの気まぐれだった。 「……良い呑みっぷりだな」  突然声をかけられたことに彼女は驚いたように肩を揺らすが、手に持つグラスをカウンターへ置いて男の方を向く。 「自棄酒、ですから」  少しずり落ちた眼鏡の隙間から覗く困った表情と声から、彼女は思ったよりも若い女であることがわかった。 「自棄酒だと?」 「女でもそういう時があるんですよ」  そう言いながら、彼女はにかりと歯を見せて笑う。  自分に取り入ろうとする女が向けてくる媚びた笑みでは無い、素の、嫌みの無い笑みには嫌いでは無いと感じた。
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