漁師になる

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 「あの日は不幸が重なった。天気の読み間違えにエンジントラブル。私たちは嵐の中海を漂流することになった」  狩谷は当時の状況を思い出すように腕を組んで目を閉じた。 「その頃私はお父さんのもとで見習いをしていた。お父さんはそれはそれは立派な漁師だったとも。海の男になるべくして生まれたような男だった。嵐に飲まれた私たちは、何とか持ちこたえようと力の限りを尽くしていた。しかしその甲斐虚しく船は転覆してしまった。船長、お前のお父さんの判断で、転覆する間一髪のところで私たちは船内居住区へ逃げ込んだ。何とか命拾いしたと思ったのも束の間、それから3日間、待てども待てども救助は来なかった。食料は足りていたが、次第に酸素が薄くなっていくのが分かった。最初は息苦しく感じていたものの、それすら感じなくなり、私たちは次第に意識が薄れていった。次に目覚めたとき、私はベッドの上だった」  狩谷はそこでようやく一区切りつけた。 「嘘だ! 当時の報告書や新聞を見てきたんだ! 生存者1名、1名が失血死って書かれてたんだ! お前はそこで、自分が生き残るために親父を殺したんだ!」  私は声の限りに叫んだが、憤る私を狩谷は手で制した。 「それは断じて違う。私も意識を失っていたので詳しいことは分からない。しかし意識が戻ってから聞いたところによると、お父さんはどうやら自殺したようだ。救助にあたった潜水士が、ナイフを握っているお父さんを見たらしい。生存者の救助を優先した結果、遺体の回収ができず解剖もできてはいないが……」  私はまだ信じられない。今まで重大な事実を隠してきた狩谷を信じたくない気持ちもある。 「それからまだ言っていないことがある。あの時救助されたのは2人だ。そのもう1人とは紛れもなくお前だ。だからお父さんは何としてもお前を救いたく、酸素を少しでも残そうと自殺したんだろう」  ここに至って私は狩谷の言葉を信じざるをえなかった。なぜなら急速に当時のことが鮮明に頭に蘇ってきたからだ。 「お前は幼すぎて、恐ろしい事故と真実を知るにはあまりに酷だった。幸いお前が目覚めた時、お前は殻に閉じこもっていた。人間はつらい経験をすると、脳がなかったことにすることがあるらしい。それは私たちにとっては好都合だった。私はお前のお父さんが死んだと聞かされた時、お前の父になろうと決めていた。周囲も不憫なお前に同情してくれて、報道規制も行うことができた」  全てを聞き終えると、狩谷の頬に一筋の涙が伝った。私はというと、事故のフラッシュバックとともに、父の顔を思い出そうと懸命だった。
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