序.

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序.

  序.  廃都東京は、その日も雨だった。  最も肝要なのは、死ぬまできちんと殺すことだ。  胸を貫かれようと、脳を焼かれようと、それが生半であれば、大概の人間にとっては、厄介な禍根を生む種にしかならない。そうやって芽吹いた復讐心にはいかなる除草剤も効かない。根から絶つには手間がかかる。なら、やはり大原則は、はなから、死ぬまできちんと殺すこと、となる。 「どうしたら俺を見逃してくれるんだ? 金なら出す、足りなければ必ず払う、盗んだ物も返す、もう“ホーム”にも近寄れない、だから……」  雨音に負けじと大音声で命乞いをする男は、防毒マスクを着用した人物に追い込まれた路地の行き止まりで、恐怖をありありと浮かべた表情を隠さない。防毒マスクの人物は、有毒雨の降りしきる東京で「対象は長くもたないだろう」と考えていた。  すでに喉は汚染された大気に冒され、呼吸にひどいノイズが含まれている。雨に曝露された眼球も、もはや正確に像を結んではいないだろう。  道路に横たわる肉塊の表面を有毒雨が撫で、むき出しの骨をも、煙を伴いじわりと溶解させていく。東京に降る雨が影響するのは生体だけでなく、死体にすら優しくはないのだ。廃ビルとなって久しい周辺の建造物の壁面ですら腐蝕され、どす黒く変色しており、かつて、この街が日本国の中心部であったことすら忘れさせる。 「ここに“追放”された時点でお前の処遇は死あるのみ。その決定を早めたのは自らの行動だ。もう交渉の余地はない。盗んだ物は“統括区”は既に回収済みだろう」 「とっ、統括区の犬め! 貴様には守りたいものがないのか!」 「あるからこその掃除夫稼業“クリーナー”だ。俺は犬であることに充分な理由を持っている」  追跡者と逃亡者。彼我の距離は着々と詰められていく。 「畜生が!」  逃亡者が足元の礫を掴み、追跡者に投げつけるも、命中はしなかった。相手が避けたのではない。彼の持つ、拳銃型無反動銃の放った熱線が、空中でそれを蒸発させていたのだ。 「そう、畜生だから、調教もされている。今すぐにお前の頭に焼けた穴を設えることもできるほどには」  逃亡者が態度を翻し、膝をついた。 「頼む……頼むからせめて、家族に一目……」 「“ホーム”は情状酌量という概念を持たない」  追跡者が、防毒マスクの空いたフィルタスロットに銀の円柱状の、ニコチン摂取用エアゾールカートリッジをはめ込み、ひとつ、呼吸をした。排気スロットから白煙が溢れる。 「あるのは、適当な口実を設けて人口を調節するという考えだけだ」  ぴん、と追跡者の耳元でアラートコールが短く鳴った。次いで、女性めいた合成音声。 『言論ユニットより、クリーナーに忠告。先の発言は統括区への非難と取られます。ご注意ください。なお、一定水準を超えた危険発言は』 「追放対象となり得ます。……わかっただろう?」 「な、なあ、そんな窮屈な立場を取る理由を教えてくれないか」  追跡者はもう一度白煙を喫い、そして、吐いた。 「知る必要のないことだ。それに」追跡者は物陰に隠れた何者かを狙撃し、続ける。「時間もない。garbageが押し寄せる前にここを去るつもりだ」  物言わぬ骸となった何某かの倒れた“garbage”は、逃亡者に小さく悲鳴をあげさせ、その体をすくませる。 「俺の仕事は掃除だ。それ以上の厄介ごとを引き受けるつもりはない。なればこそ、もうおしゃべりは最後だ。ではな」  熱線が二名の間を走る。 「任務、完了。これより帰投する」 『目標の沈黙を確認。バイタルサインなし。お疲れ様でした、レイジ。帰投してください』  止むことのない雨の下、レイジは天を仰ぐ。その視線は、どこか、雲の遠くを見据えているようだった。東京の雨を透かして、さらにその上空よりも上を。
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