十.標の示す先

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十.標の示す先

   十.標の示す先  当該地点は、過去に美術館であった建造物だった。入り口までの道が緩やかに傾斜した、半地下の部分にある。そこは有毒雨によって冠水しており、端末を操作することで排水が始まった。  カルミアとナガレはそれぞれに視線を合わせない。厳密には、マスク越しに目を合わせようとナガレが試みるのだが、カルミアが抱きかかえたコルチカムに集中しているように振る舞い、それを避けているように、レイジには見えたのだった。 「なんかオレっち余計なこと言っちまったかな」 『さあな』  レイジの体を半ば引きずりながら抱えたまま、ニカイドウが小さく呟くが、レイジは特に述べる言葉がなかった。生き別れた友人、あるいはそれ以上の関係だった男女が、個人的にでないにせよ、敵対していたのだ。この事態に関して、運命の皮肉、という表現が適切か考えることはしたが、レイジにはそれが単純な問題でないことであることしか掴めなかった。  カルミアが手元の端末に表示された英文を読み取る。 「【Come in.】」 「……行こう、リュウコ。ハセクラの下へ」  彼女は無視こそしなかったが、曖昧に喉を鳴らすように返答するのみだった。  美術館跡は、水密扉に閉ざされ、中には広く清浄な空間が立方体として広がっていた。ガラス張りの間仕切りが通路を作り、道の途中で除染シャワーが三度、行われる。 『ハセクラ、来たぞ』  レイジの声に、天面のスピーカ越しでハセクラの電子音声が応えた。 『いや、会いたかったよ、レイジくん。それにカルミア、ナガレ、ニカイドウ、コルチカム。大所帯だね。食事でも──』 『ハセクラ』レイジはそれを遮り、言う。『時間がない』  ガラスの間仕切りが全てスライドし、多くのルートが解放された。次いで、足元に矢印が投影される。  『さあ、中へ。ちょっとした侵入者対策でね。その矢印に従ってくれば罠は作動しないから安心してくれたまえ』  面々はその標の通りに立方体を壁際まで進むと、壁面が開かれ、新たな立方体の中へと入ることができた。そうして、彼らは立方体を三つ通り過ぎる中で、間仕切りのない空間を通る。人が一人入れるだけのガラス容器の立ち並ぶ部屋だ。  そこに、カルミアは見逃せない男の顔を認めたようだった。 「ガーデンに押し入ったレイヴンの男だ……。奴を覚えているだろう、レイジ」 『事情は説明した通りだ。俺はお前の覚えていることの大半を忘却させられている』 「そうだった、そうだったね……」  ハセクラの電子音声が言葉を発する。 『その通り。それは君の持ち込んだ死体だ。ありがたいことに思惑通りに君は動いてくれた。感謝するよ、カルミア』  ハセクラは次の部屋でロボットアームが作業する間を歩く面々に、次のような言葉をかけた。 『彼らレイヴンの肉体が必要だった。それに、カルミア、君が奪い、私に託した再生臓器抽出物もね。彼らがホームからの支援を直接受けていることは知っていたね? その支援物資が鍵だった。横流しに見える低級品の再生臓器抽出物。これが、どうもよくないものだった』  最後の扉の向こうに、果たして、ハセクラは待っていた。モニタが四方の壁面に設えられた中に一人、彼はいた。 『低級品に見えたクスリは、ある意味では完成品だったんだよ。意味は、分かるかね。レイジくん』 『話は俺たちの体を治してからにしろ。二度も言わせるな。時間がない』  ち、ち、とハセクラは緩やかに首を振りながら、喉元のスピーカから音を立てた。 『話が先だよ。その後に、君たちには選択肢を与える。その答え如何で治療を施そう。そして、ナガレ。立ち止まった方がいい』  ナガレはハセクラに詰め寄ろうとしてか、足を踏み出していた。  『この部屋では私に危害を加える者は何者も生きて出られない。私自身が自らを傷付けようとした瞬間に私を拘束するほどに、ハセクラという人間を守ろうとする過剰な仕組みを作ってしまってね』 「ならよォ、とっとと話付けっちまおうぜ。椅子はねェのか? 車の椅子が固くてケツが痛ェのよ」  ハセクラが頷くと、モニタの一つが内向きに開いて、長テーブルと丸椅子が人数分、加えて寝台が別のモニタから現れた。丸椅子が明らかに固い外観だったので、ニカイドウは不服そうだったが、寝台の方は柔らかそうなマットレスを備えていた。  カルミアがコルチカムの、ニカイドウがレイジの体を、それぞれに寝台に横たえる間、ナガレとレイジは部屋の隅に設置されたガンカメラを見ていた。先程までの迷路といい、過剰なセキュリティだと言えた。  傷付いたコルチカムの体にロボットアームが取り付き、延命措置と目される処置を開始する。それを見届け、全員が腰を落ち着けると、レイジが言葉を促した。 『それじゃあ全員聴く準備はできたね。講義の時間だ』  ハセクラの電動車椅子が四十五度左を向き、自らの背面にあるモニタを見るように言った。 『生体は自己修復機能を持っている。細胞分裂によるものだ。再生臓器抽出物は、その促進因子に満たされた、ある種のクスリという認識で間違いない。これを心臓に打ち込むことができれば、血流に乗ってクスリは作用し、ネクローシス、壊死の起こった細胞を急速再生させることができる。ここまでは序論だ。知っていてくれたかな』 「先を」  ナガレが顎に手をやりながら、脚を組んで言う。 『これを序論としたのは、そういう認識でしか再生臓器抽出物を扱っていない人種がいるということへの道筋の一つなんだよ、ナガレ。例えばガーデンの彼女たちは、この魔法のクスリへ偏見がありそうだったからね。まずは話をするのに、土台を固めなくてはならない』  さて、とハセクラは言葉を継ぐ。 『表向きはこれを使えば、外傷や病理による細胞死を修復できる、ということになっている。しかし、本来はその機能だけが重要なのではないんだ。この細胞修復時、人体はテロメアを消耗しない。カルミア、テロメアについての知識は?』 「DNAの中に含まれる、細胞分裂の末にどんどん短くなってくってやつだろう」 『そう、生物に明るくないとは言っていたが、よく勉強しているね。つまり、理論上は再生臓器抽出物があれば、人間は死なない。細胞分裂に限度がなくなるということは、不老不死の可能性を秘めている、という話になるわけだ。その結果、人間は飛躍的に死ににくくなった。低級品でさえ、この東京では高価な意味を持つことに不思議はないだろう』  間を置いて、お茶でも飲むかい、とハセクラが言うと、レイジはそれに首を振って応えた。 『随分と短くまとめてくれて助かる。このまま俺かコルチカムが死ぬまで続けてくれて構わないんだがな』 『ふふ、では問題提起に入ろう。このクスリはどこから手に入るのか? というところだ。これに関してはレイジくん、君が知っているね』  レイジの脳裏に、エマの姿が浮かぶ。 『ある女性の体内に新生した、再生臓器由来だ。彼女の体から定期的に切除され、培養された細胞片から抽出されている』 『そう、このクスリはエマという女性の人体から得られる。低濃度のクスリでも万能薬になるこの因子を常時、体内生成している彼女に、何が起こったか。彼女はなんと過剰再生を始めたんだ。若返りの奇跡がそこに起きたんだよ。問題はそこだ』  カルミアが苛立ちを露わに、言葉を発する。 「そんな女がいること自体が問題なんだよ。でなければ、人間はもっとシンプルでいられた! 若返り? は! だからなんだってんだい! そんな女、殺してしまえ!」  ナガレが彼女をたしなめる。 「その女っていうのが、レイジの愛する女性だったとしても、かい? リュウコ」 「……!」  レイジは気にしていない風を装い、口を開いた。 『若返ることは、非常に問題だらけだった。人類が得た不老不死の可能性が、その内、無へと返っていく。これは多くのホームの人間を困らせる』  ニカイドウがここで腕を組み、唸った。 「そこはお前、レイジよう、私情で言葉捻り出そうや。『俺が困る。だから、女を守るために臓器を完全に無力化する手段が知りたい』ってな」 『そう、若返りの奇跡は再生臓器を発見した人間にとっても問題だった。彼女の父親が、その人物でなければ、どれだけよかったことだろうね。ある日、彼は知った。彼女が若返ると脳の神経ネットワークがリセットされ、記憶はおろか、運動機能にさえ支障が出たんだよ。わかるかな、カルミア。昨日できたことができなくなっていく絶望を、忘れ去られていく日常を、父親が憂うことはないと、思うかい?』  声色に感情は含まれていない。しかし、彼に本物の声帯があれば、その悲哀は明らかだっただろう。 『講義の合間に質問を一ついいか、ハセクラ』 『ああ、いいだろう。良質な質問をする学生にはA評価をやるつもりだ』 『何故、そんな娘を父親は放置して東京に逃げたんだ。何故、お前はこうしている』  カルミアが事情を察したように、苛立ちからテーブルを叩き始めていた指の動きを、止めた。ハセクラは、ここで初めて言いにくそうに濁した。 『私は、失敗した』  失敗。 『私には余命が幾ばくも残されていなかった。今も彼女の臓器由来の薬品で延命をしている。だから、誰かに彼女の助命を求める必要があった。できれば私自身ができればよかったのだが……』  ハセクラが車椅子を動かし、モニタへと完全に顔を向ける。 『左上のモニタを見てくれ』  日付が表示された、どこかの実験室の映像だ。日時は七年前の三月九日、午後五時十三分。一人、五体満足のハセクラがこちらを見つめている。モニタのハセクラが口を開いた。  ──記録。今から私は、私をもう一人作り出す。クローン体の実験は失敗した。私の遺伝子を治療することは今の医学では不可能だ。この疾病は、クローンには乗り越えられない。だから私は、擬似的に私をもう一人創出することにしたのだ。  ──記憶素子技術を用いて、私は外部記憶装置に人格や記憶を移し出すことに成功した。あとはこれを他の人間に書き込み、精神のクローンを創り出す。ミームの水平伝播を行うのではなく、完全なる自己の複製を用いて、擬似的な意志の垂直伝播を行い、エマの治療に当たらせる。  ──被験者は先の有毒雨により体を冒された人間の胎児だ。彼は産まれる前に処分されてしまうことがわかっていた。それを買った。適切な刺激と適量の再生臓器抽出物によって、細胞の年齢は二十代半ばまで育ててある。彼は、私となる。  ──記憶素子の埋設は済ませた。後は彼に私の人生を追体験させ、人格と目的意識を刷り込ませるだけだ。……私は、もう長くない。この実験に賭けている。願わくば、彼が正しく私と成るよう。   記録が停止した。 『そして今度は右上だ』  ──記録。実験の途中経過としては成功だ。今、彼は記憶素子に埋め込まれた私の人生を追体験している。そこから彼を『私に導く』。あらゆる選択を、あたかも自らの選択であったかのように脳を操作する。その時の葛藤さえも、創出する。  ──彼がここからいかに成長するかは記憶の操作にかかっている。必ず成功させてみせる。エマのために、人類の未来のために。……いや、これは欺瞞だ。他ならぬ、私のために、この計画は絶対に成功させなければならない。  ──私は神になるつもりはない。ただ、正しくあろうという気もなく、自らを満足させるためだけに、新人類を創造する。この記録は戒めだ。いつか、これが誰か目に触れる時、それを観るのは人間だろうか。それとも。……いや、これ以上はよそう。  映像はそこで途絶えた。 『次が』ハセクラが言いつつ、全員の正面全体を覆うモニタに動画を投影する。『次が最後だ』  ──失敗だ。全てが間違っていた。人為的にこのようなことをしたことが過ちだったのだ。このままでは、私は抹殺される。『私』によってだ。賢人脳会は掌握されてしまった。逃げ出す他ない。もはや何もない。始めから手を出してはならない領域だったのだ。  ──『私』は……いや、彼は自身を新たに名付けた。独立してしまった。私にできることは彼を止める者を見つけ出すことだ。どうあっても彼のような存在を許容してはならない。神がいるならば、私の行いに導きを。贖罪の機会を。   ──一人の人間を、犠牲にする。心を売り渡そう。それが悪魔であれ、何であれ、そうしなければならないのだ。次は制御でき得る擬似クローンを産み出す。これで終わりにしなければならない。全てが無に帰す前に。  ハセクラはそこで電動車椅子を振り返らせた。 『私は人類を潰えさせる可能性を産んでしまった。短くて今から二、三年内に人類はある意味で滅亡の一途を辿る』 『まさかとは思うが、先の怪物たちが関係しているのか』 『あの怪物は名を未だ持たない。あれらを仮にネームレスと呼ぶ。しかし、彼らは新人類として、この地球全土を覆い尽くすだけの力を有している。人為的に作られたメタヒューマンの如き、力を』  ナガレがここで口を挟む。 「失敗というのは、その存在の事ではないのだろう? それでは映像と内容が食い違う」 『その通り。私が犯した過ちは、今なお、ホーム内部にて力を増している人物を創り出したことだ。No.01というのが私の与えた名だ』 「ナンバー、ゼロワン……まさか。ハセクラ、あなたがもう一人創り出した存在というのは……」 『そうだ』ハセクラが電子音声で淀みなく言った。『レイジくん、君だよ。No.02』  レイジはそこで言葉を失った。そして、自らの出自を思い返す。  自分は、確か東京都に産まれ、天候制御装置の暴走によりホームへと移住することができた数少ない人間の一人だ。今までに幾度となく見たエマとの夢でさえ、はっきりとした記憶として残っている。この男は何を言っている? 一体、どんな虚偽を孕んでいるのか? 『レイジくんは今こう思っているはずだ。何故そのような嘘を吐くのかと。自身には記憶がある。それは間違いなく過去であり、現実だったはずだと。だが、君にとっての記録と記憶の差異は一体なんだ? 今の体を考えてみればいい。そこに横たわっている君の体と、アニマロイドの体。ここにある君の体に宿っているのは記憶か? それとも人格を模した記録か?』  絶句したまま、レイジはアイデンティティを探り続ける。その間に、ニカイドウが言った。 「あれか? すっと、ハセクラさんよ、アンタは自分の複製を創る技術でレイジを誰かの複製として創った。それも利用するためだけに、ってか?」 『肯定だ、ニカイドウ。No.02はエマの恋人だった男から創られた、擬似クローンの二体目にして、最後の反撃の手段だった』  レイジの中に急速に虚無が発生する。機械の体でなければ胃の辺りから広がったそれは、臓腑を溶かし、肺を締め付けたことだろう。  彼はエマの記憶の中にない。そして、彼の記憶の中に本来ならばエマはいない。それどころか、彼には過去がない。もしも、彼がNo.01のように胎児から創られた存在なのであれば、名すら彼には与えられていない。彼にあったのは、人を殺し続けたという事実のみだ。それも、与えられた目的のために。  ナガレが拳をテーブルに叩きつけると、立ち上がり、叫んだ。 「腐ってる、ハセクラ、あなたは本当に……!」  即座に部屋の四隅に設置されたガンカメラから緑のレーザーサイトが彼に集中する。カルミアが動きを制しようとしたが、しかし、ナガレは止まらなかった。 「そんなことを誰が望んだんだ! 尻拭いに娘の愛した人間を使うだって!? そんなこと許されるはずがない!」 『彼だよ、ナガレ。レイジのオリジナルの人格を持つ人間が、協力し、望んで行われたことだ。彼はNo.01と渡り合うために求められる、戦闘や隠密行動の資質に乏しかった。しかし、彼の想いだけは本物だった。それを受け継がせた存在を、彼は、オリジナルは望んだ』 「嘘だ!」 『嘘ではない。彼の残した映像がある。それを今から──』  レイジが、遮った。 『よせ。いや、やめてくれ、ハセクラ』  レイジの中に怒りが満ちていた。虚無の中心が赤黒く燃え始め、彼は無意識下でソラの体の四足から爪を出していた。怒りが、“rage”が、そこに溢れていた。 『これ以上、話をすれば、ハセクラ、俺はお前を当初の目的通り殺してしまう。救いのない状態に陥る。お前から情報を抜き取ることもなく、ただただ殺してしまう』 『君は成長したんだね、レイジくん。君には基本感情の喜怒哀楽をほとんど残さずにいたというのに。一つの原動力として付与しておいた怒りの感情さえ、制御できるようになっている』  ナガレが力無く、椅子に腰を下ろした。ガンカメラからの照準が解除され、緑色の光線が途絶えた。 「どうかしている……。あなたも、レイジのオリジナルという人間も……」 『私と彼は、それだけの価値が、理由が、エマにはあると思っていたんだよ、ナガレ』  沈黙が部屋を支配した。   ニカイドウが前のめりにテーブルに上半身を預けると、大きく溜息を吐く。カルミアは脚を組み直し、どうやら、マスクの下でナガレが憤怒によって身を滅ぼさないよう見ているようだ。そして、レイジは、虚空を見つめていた。  モニタには、悠々とネームレスたちが有毒雨の中を歩いている様子が映し出されている。その様子に気付いてしまったガーデンの女たちが渋谷駅跡に駆け戻っている。  レイジにはそれが全て自らとは無関係に思えてしまった。何故なら、彼の存在意義は人為的に用意されたものだ。もしも、何かしらの感情を抱いたとて、それすらも自身由来のものではないということに気付いてしまった。 『そこで、レイジくん。君はまだ役割を演ずるつもりはあるかい。エマを救うという役割を』 『この話の流れでも首を縦に振るように創らなかったのは、もう一つの失敗だな、ハセクラ。俺は、この件から下りる』 『なら、そこにある二つの体を使っても?』  昏睡したコルチカムとレイジのことだ。 『レイジくんの体に染み付いた戦闘経験や、記憶素子に含まれた情報が、ホーム潜入に役立つ』 『俺が俺自身でない以上は、勝手にすればいい。他の人間を探すよりは話が早いだろう』  その言葉を聞いて、今度はカルミアが激昂する番だった。 「ふ、ふざけんじゃないよ! こんな胸糞の悪い話聞かされて、はいそうですね、となるほど人間堕ちちゃいない! レイジも大概にしな!」 『なら、治療はできない。コルチカムの命はせいぜいもって三十分、いや二十分だろう。最後の別れを言うといい。どうやらレイジくんも立場を放棄するようだからね』  ぐ、とカルミアが喉を詰まらせたように言葉を失う。 『コルチカムは死ぬ。ガーデンは壊滅。ネームレスは手始めに東京を制圧するだろう。そして、勢力は拡大され、ホームも占拠される。その布石はすでに放ってあるはずだ』  ニカイドウが問う。 「布石?」 『先程言ったはずだ。低級品はある意味で完成品だった、と。低級というのは、再生臓器抽出物の濃度が低い、という観点では確かに、クリーナーたちへの配給品に比べて程度が劣る。だが、薄めてあるだけで他に何も混ざっていない、という意味ではない。あれをジャンクドラッグ、と私は名付けた。garbageがネームレスに転化する因子が含まれているんだよ』 「あ? したら、ホームで普及している再生臓器抽出物は、ホームの人間をバケモンにするために?」 『少なくとも否定する材料はない。よく考えてみるといい』  ハセクラはそう言い放つと、再度、問うた。 『レイジくん。君は今こう言ったね。他の人間を探すよりは早い、と。それは、エマのことを完全には見捨てるつもりがない、ということなのだろう? どうだね、もう少し、役割を担うつもりはないかな』 『……くどいぞ』 『君に望む人生を与える、と言っても?』  レイジは一瞬だが、ベッドの横でエマがまどろむのを眺める自分を思い出した。その時、彼は果たして彼自身だったのだろうか。七年前よりも近い過去、それを見たはずだった。  エマがもしも自分のかたわらにいてくれる人生があったとしたら。幸せな空間がそこに得られるのだとしたら。それこそが彼の求める本来の在り方だった。恋焦がれるように、手に入れたかったものだった。   しかし、レイジは頭を振って幻想を振り払う。そのような人生を求めることすら、創られた思考なのだ。 『駄目かね? 君に与える全てを保証するが』 『なら俺に人生を返せるのか』 『新たに人格を新生児に書き込もう。No.03ということになる。産まれながらにしてスペックは高くなる』  ナガレとカルミアが同時に「下衆が!」と叫んだ。 『時間がないのだよ。決断が遅れれば、エマは化物の製造工場の核とされる。永遠にだ。今この瞬間にも、ホームでは計画が進んでいる。それが君たちの働きで止められる』  ナガレが歯を食いしばりながら、短く声を何度も絞り出す。  「これまでの事態を、引き起こした張本人が、そのようなことを、言える立場に、あると、本気で、思っているのか。人間を弄することに、罪悪感は、ないのか」  ハセクラはなんでもないように返した。感情など既に排除している、と。 『もう私には当初の目的しかないんだ。エマを救うのだ、という目的しか』  ナガレが握り締めた拳をにわかに解いた。そして、ちらりとレイジへと目を向けた。  レイジは彼の考えていることが分かってしまった。それが、人格書き換えの影響なのかは判然とはしないが、ハセクラはこれまでのレイジと同じ行動理念の下に動いていた。まるで、二人は同じように動いていた。手段こそ違えど、目的は同じだった。たった一人の女性のために。それを彼は憂いているのだ。  ナガレの目にあったのは、憐憫だ。それすらも、レイジは気付かざるを得なかった。  生きる理由がそれしかないのだ。たった一つの目的しか。それが、哀しみにまみれた目を作っていた。  レイジは思う。  たったそれだけの人生が、果たして、ここからどうにかなるものなのか。目的達成の末には何が得られるというのか。少なくとも、そこには幸福などと呼ばれるものがあるとは思えなかった。どうあっても。 「ふたっつ、オレっちから提案があんだけどよォ」  ニカイドウが、腕を組み、顔を仰向かせながら無関心そうに言った。 「まず一個。当面はガーデンに迫ってるネームレス、どうにかしねえか。さすがにありゃあまずいって思うんだわ」  組んだままの腕から人差し指を上げて示した先のモニタには、渋谷駅跡周辺が映し出されていた。実弾銃で応戦している女たちが、ネームレスにじわりじわりと包囲されていく。カルミアが焦燥感を露わにしつつも、決断を鈍らせる。 「でも、たった一体を倒すのにあれだけ手間取った……。到着する頃には、もう……」 「二個目」ニカイドウがもう一本指を立てて、提案を口にした。  全員がそれにすぐ反応できなかった。誰もが耳を疑ったように、言葉を発せなかった。 「あれ、オレっちなんかおかしいこと言ったか?」 『ニカイドウ、正気か』 「そ、そうだよ。こんな時にタチの悪い冗談は止めてくれ。笑えないよ」  かあー、とニカイドウが声を上げ、引っ詰めた髪の中に指を乱暴に入れた。 「オレっちをネームレスと同じく転化させろってんだよ、その方が話が早ェ」  ニカイドウの双眸が、仰いだままの顔からハセクラに向けられた。
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