十一.小さな世界

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十一.小さな世界

   十一.小さな世界 「あんな、オレっちとしちゃァ、ここでぐだぐだやってんのが一番意味のねェことだと思うんだよな。だったらまあ、オレっちがとりあえず片付けるもん片付けりゃいいだろ?」  頭を掻きながら言うニカイドウは、誰がどうやって見ても、正気だった。  それが故に、周囲の面々は言葉を失った。唐突に過ぎる、自己犠牲を表す提案に、全員が何も言わなかった。 「で、どうやったらオレっちもあんな風になるんだ? その混じりっけアリアリの再生臓器抽出物はどこだ? 追加投与でなんとかなるなら早くしようぜ」 『ニカイドウ、君の提案を受けるには条件がある。我々の脅威となった場合、すぐさま君を抹殺するだけの準備がしたい。マイクロ爆弾を同時に注入させてもらう』 「オーケー」  ここで、ナガレがようやく口を開く。 「そんな簡単に人間であることを捨てるのか!?」 「いや、だってよ、埒が明かねェじゃねェか。レイジは拗ねてんし、カルミアの姉さんはキレてる。ナガレの兄さんも平常心じゃあねェだろ? そしたらまァ、オレっちの出番ってわけだ。こちとら失うモンもねェしな」 「失うもの、って、君は今までの生活を──」 「オレっちにとっちゃ兄さんらが家族みてェなもんだよ。マジに。いや、妙な顔すんなよ、マジにだよ。その家族が困ってんのに、オレっちにできることはハンドル握ってクラクションプープーしてるだけだってのが、どーにも歯痒くてよ。ならまァ、ここいらで一肌脱ごうじゃねェの」 『お前は優秀な技術者だ。お前がそこまでする必要はない』  レイジがそこで珍しく他者を、優秀だ、と呼んだ。今までにない言動に、しかし、ナガレは驚くことなく便乗して説得にかかる。 「そ、そうだよ。あんな化け物になって、誰がこれからを築くんだ! 君はまだ若いんだぞ!」 「……ありがたい提案だけど、あんたの手助けを求めた覚えはないよ」  カルミアでさえ、ニカイドウの言葉を撤回させようとしている。 「オレっち、もうハタチだぜ? ま、数え年でだけどよ。だから、てめェのこたァてめェで決められる。それがこの国、っつーかまあ国としちゃ終わりかけなんだけどよ、そいつの決まりだろ」  ニカイドウは両手を広げてそう述べると「違うか?」という風に小首を傾げた。  ハセクラが一言、例のシリンジを彼に、と発すると、女性の機械音声が応じた。 『承りました』  しゅう、という音と共に、壁面の一つが一メートルほど開き、四輪付きの小さくシンプルな箱形のロボットが現れた。その上には、銀のバットと、赤い液体に満たされたシリンジが載っている。  ニカイドウは立ち上がるとそれを拾い上げるためか、歩み寄っていく。足取りは、まるで近所で、買う野菜でも選ぶかのように、ゆったりとしていた。ここで軽口の一つでも叩くか、振り返って「嘘に決まってんだろ」とでも言うかすれば、とレイジはここで動かなかっただろう。しかし、ニカイドウはシリンジを受け入れるためにフード付きパーカーの前ジッパーを開け始めている。  レイジは、ついに、跳ね上がるようにニカイドウの足元に駆け寄った。 『誰が頼んだ』  見下ろしながらニカイドウは無表情で答える。 「誰も、だな」 『ならもう一度言う。お前がここでそんなことをする必要はない』 「ガーデンによう」ニカイドウはここで声を張った。「女子供がいるじゃねェか。それも、世の道理も酸いも甘いも噛み分けたどころか、辛酸しか舐めてきてねェ連中がよ。そいつらが、このまんま、放っとかれたらどんだけ面白くねェ人生で終わっちまうか、考えたんだよなァ」  ニカイドウは両手をやおら広げて、軽く首を横に傾ける。 「第二世代のgarbageが物心ついた時、見た初めてのもんは薄汚れた顔した母親の苦労する姿。最後に目にするのは気色悪い怪物の笑顔だ。こんなん、報われねえだろ。オレっちが動けば、レイジは嫌な思いをしねえし、ナガレの兄さんもカルミアの姉さんとくっつく。ほしたらガーデンだって明るい未来が待ってるかもしれねえ。家族が喜ぶ未来がよ」  ここでニカイドウが指を鳴らした。小気味の良い音に、全員がハッとする。 「っつーわけで、オレっちはこいつを投与する。戦力になるかはわからねえが、まァ、頑張るさ」 『ふむ……そう言えば先ほど、“追加投与”と言ったね? もしかすると、ニカイドウ、君は──』  ハセクラに対してニカイドウが諦めのついたような表情を向けるのを、レイジは見逃さなかった。そして、彼は気付いてしまう。 『……ニカイドウ、お前、確か先天的に腎臓が弱かったな』 「それが?」 『直ちに命には関わらないが、再生臓器抽出物で障害を和らげていた』 「まァ、そうだな」  ナガレもついに思考がそこに辿り着いてしまったようだった。 「そのクスリの濃度は、さほど高いものではなかった」 「らしいなァ」  最後に、カルミアが低く、声を上げる。 「あんた、はなっから近い将来に自分がネームレスに転化するって思ってんだね?」  ニカイドウはようやく、諦めに近い表情を隠さなくなった。 「ヤケッパチになってるわけじゃあねェ。単純に、遅かれ早かれな問題に答えを出そうってだけだ。それに、もしもオレっちが暴走したら、殺してくれるんだろ? 無自覚に人死に出し続ける可能性を潰せるだけマシってもんだ」 『ニカイドウ』  レイジは、名前を呼ぶだけ呼んで、言葉を続けられなかった。本物の自己犠牲をそこに見た。身を捧げて他者を助けようという精神を機械の肌にも感じた。名も知らぬ人間たちのために、ただほんの少しでも関わりがあるというだけでも、身を投げ打つ覚悟。  彼は、自らを初めて恥じた。今までにない感情だった。世の理は全て一言「我が身可愛さ」で片付くと考えていたからだ。レイジはエマを救うことで、己を満たし、それだけでいいと考えていた。それも、我が身可愛さ故の行動理念だ。  だが、眼前の若者は、それを覆す行動に出ている。いつか、自分が加害者になった時、たちまち死に至らしめられることを受け入れての行動に。 『ニカイドウ、すまない。自棄になっていたのは俺の方だ』 「構わねェ。それで、爆弾ってな、どこに埋め込むんだ?」 「それを訊く必要はないよ」ナガレが隣に座っていたカルミアの手を握り、頷く。「そうだろ、リュウコ」 「ああ。ハセクラ。あんた、きちんとネームレスに対抗する手段を用意してるんだろうね。そうでもなければ、あれだけの特級品のクスリを集める必要がない。あたしを騙していた分で命を繋いでいただけとは考えにくい」  カルミアも、ナガレの手を取り、言った。 「それに、レイヴンの男たちの体を用意させたのは、ネームレスの由来を解析するためだけじゃあなかったはずだ。抗血清の話、あたしはまだ嘘だとは決めてないんだよ」 『ここまでの施設を用意した人間だ。そうでもないと話は進まないぞ』 「そうだよ、あなたはここで指を咥えて傍観を決め込んでいた、そういうわけじゃあないんだろう?」  ニカイドウがそこで、頭の後ろに手を組んだ。 「あーあー、オレっちがカッコつけたのがバカみてェに一致団結しちまって。まァ不本意ながら? 他にアテがあるならそっちで、な」  ハセクラが電子音声で喉を鳴らした。 『いいだろう、まずはレイジくんとコルチカムの治療を開始する。然るのちに、君たちに我々の希望を託そう』  ハセクラの指示により、アームを搭載した自走式箱形ロボットが二人の体を別室へと運ぶ。そして、モニタを見ながらハセクラは素早く処置を示し、面々を振り返った。 『ニカイドウ、君は肝が据わっているね。非常に面白い人間だ』 「お褒めに預かり恐悦至極。んで? こっからオレっちたちは何をすりゃいいんだ?」 『今から射出式のシリンジ弾と、それ用の銃を渡そう。シリンジの中身は、ネームレスへの転化を抑え、あるいはその再生能力を一時的に鈍化させるものだ。装弾数は五発。有効射程は五十メートル程度。レイジくんなら扱えるだろう』  壁面のモニタが左右に開き、例の自走式箱形ロボットが現れた。レイジが箱の上に跳び乗ると、上には、シンプルな銃器二丁と、シリンジ弾が十発。それ以外には、灰色のゴムグリップがついた拳大の球体が四つ。そして、特級品の再生臓器抽出物が二本。 『ボールの方は音響手榴弾だ。彼らネームレスは一定以上の周波数の音域を耳にすると、一時的に鼓膜に相当する部位が麻痺するようだ。スイッチを三回押すと五秒後に不可聴音を発する。有効に使ってくれ』  レイジは、その武器がいかに急ごしらえであったかを、その銃器の表面に残った処理の甘い部分から察した。音響手榴弾の方など、明らかに半球の継ぎ目に“バリ”が見て取れたのだ。ナガレが同じ部分を気にしたらしく、声を上げる。  「暴発や弾詰まりは起きないんだろうね?」 『その場合はシリンジ弾を相手に突き立てて使ってくれるとありがたい。心臓なら全身に、そうでなければ、刺さった部位付近の修復能を低下させられる』  は! とカルミアが一笑に付す。 「スマートにできないのが、本当に愉快だよ」 『ハセクラ、体の治療にはどれだけかかる』 『コルチカムの方は意識を取り戻すまでの時間が読めない。レイジくん、君の方は今から人格データを移し替えることができたなら、すぐにでも戦えるはずだ。しかし、君は私にそれを任せられるかい?』 「僕が、やろう。こうなったのは僕が原因の一つでもある」  ナガレの申し出に、果たして、レイジは首を横に振った。 『人格データの移行に際して、記憶素子のプロテクトを解除することがお前にできるなら、ハセクラ、お前に身を委ねよう』  でも、とナガレがレイジといくらか揉めた後、ついにニカイドウが口を挟むことで決着した。 「記憶がぶっ飛ぶのがここまでで抑えられるなら、ナガレの兄さん、それが一番じゃあねェのかな」  レイジがハセクラの近くに歩み寄ると、床面の一部が正方形にせり上がり、ハセクラの目の高さまでソラの体が持ち上げられた。そして、尾の先端に備えられた端子と、モニタの隙間から伸びた端子が結合する。  ハセクラは、何の合図もなしに、データの吸い出しを開始した。  虚無に、レイジの精神は落ちた。大きな水の溜まりの中に落ちたように、どぶん、という鈍く柔らかい感触が彼の精神の表面を覆う。それは生温くも心地の良いもので、まるで羊水の中にいるかのような穏やかな心持ちにさせるものだった。  情報の濁流が視界を覆う。No.02の文字列が随所で踊り、それらが消し去られていく。  ──レイジくん、意識はまだあるね。  ハセクラの声に、レイジは、ああ、と簡単に返した。  ──今から君の中にある記憶改竄用のアポトーシスプログラムを解除する。今までに君にそぐわないとされる異分子、すなわち“私たち”に取って不都合な記憶を削除していた物だ。解除によって君が得るものは、苦痛だけかもしれない。それでもいいんだね。  レイジは、再び、ああ、と言った。  ──分かった。それでは衝撃に備えてくれ。  衝撃? と問うた瞬間、文字列は上下左右で映像を結び、今までに経験してきた全てが露わになった。それらの一部は、確かにレイジの精神を強く揺さぶるものだった。時系列が新たなものから古いものへと、それらは続いた。  始めはガーデンの子どもたちとの会話だ。 『お兄さんはなんで大人の男なのにここにいるの?』  少女の純粋な問いに、レイジは言葉を窮した。 『何故なのだろうな』 『ふうん……アタシと遊ぶ? あのね、コルチカムお姉ちゃんからぬいぐるみもらったの。一つ貸してあげる』 『……ああ、ありがとう』  ガーデンの女の一人が子どもをやんわりと遠ざけてから、今日は風呂が沸いているから入れ、と言う。レイジは、それに頷いた。  彼女たちとの記憶は、冷たいものでもあったが、同時に人間らしい暮らしをしていることを知る、暖かいものでもあった。  質素に過ぎる食事、冷え冷えとした地下暮らし、固い寝床、しかし、柔らかな笑顔、声。  レイジの中に、穏やかさが戻る。   転換。   次に得た記憶は、渋谷新宿近辺での記憶だった。 『これから俺たちは帰投する。あと十五分もすればこの地点を通る。仕掛けるならその頃だろう。準備はいいな。ワイヤーを張って足止めをすればいい。あとはシリンジを渡すだけだ。うまくやれよ』  この声。それは誰が聴いてもレイジのものだった。映像の中で、さらに言葉は続く。 『可能なら致命傷を与えろ。シリンジを取り出す流れを作れば、あとはそちらのプランに任せる。だが、あくまで自然な状況でな』  これは、ホームでホムラたちの前で見せられた映像と同じ状況のものだった。しかし、一つ、視点が違った。この映像では、視点がレイジのものだった。そして、そこにいたのは、ガーデンの女だった。名は、スバルと言ったはずだ。 『物資の横流しに、アンタが介していたとは、クリーナー:レイジ。話を聞いた時は驚いた。まさか使いが特A級のアンタとは』  女はそう言って、踵を返した。 『ガーデンには情報を流しておく。まあ、あとはこっちに任せておきな』  そう言って胸に当てられた拳の小ささを、レイジは、はっきりと思い出した。   転換。   次は、エマの再生臓器摘出にアイザワと立ち会っている場面だ。 『今回は再生臓器の九割を摘出するよ、レイジくん。これで若返りも数日は抑えられるだろう』 『一検疫官がここまで手を出しているのは何の権限があってのことだ』 『わたしはね、レイジくん、検疫官だよ。再生臓器抽出物の使用にも立ち会っている。だから、その抽出物の素となる女性の手術に立ち会うのも当然のことだと思うのだが』  アイザワがそう言って、レイジの肩に手を回した。 『わたしたちは兄弟みたいなものじゃないか! 固いことは言いっこなしだよ、レイジくん。どうせ忘れるんだろうしね』  そう言って、アイザワの手がレイジの額に近づく。そして、指先が触れた。 『ほら、もう君はわたしがここにいることに疑問を抱かない。考えない。それで、レイジくん、話の続きなんだけど、コーヒーもどきを淹れるのが上手い友人がいるってことは素晴らしいことだね。栽培までしているんだって? 麻薬よろしく室内に温室でも?』  アイザワの笑顔は、いつもと同じように、演技がかっていた。  転換。 『今から君が俺だ。……レイジ、と自らを名付けたな。怒り、そうか。君は怒りを原初記憶として得たんだな。おそらく君がこの記憶を保持することは許されないと思う。だが、一言謝らせてくれ。すまない』  見たことのない男の顔がこちらを見ている。おそらく、レイジのオリジナル人格の持ち主だ。名前は知らない。だが、これがエマの本来求めていた人間だったはずだ。 『こんなことをするのは、エマも赦すことはないだろう。彼女を護ってやってくれ。どうか、俺の代わりに。俺は……エマ? どうしてここに?』  最後にレイジの記憶に残されていた頃よりも“歳上”のエマが悲痛な声を上げて叫んだ。 『もうそれ以上は止めて! お父さんもあなたもおかしいよ! 私のために人間を何人も犠牲にして……。お願い、今からでも間に合うから。私なら、いいから……!』  転換。   数々の事実が、伏せられた状態から明るみに出た。  ハセクラの言っていたことは虚偽ではなかった。そして、自らをハセクラ以上に利用していた人間の姿も浮き彫りになった。  隠されていた記憶、あるいは記録から、今までに自身しか知り得ず、そして、ナガレやニカイドウたちが得ることが叶わなかったもの。最深部に秘匿されてきたもの。そうやって、これまでに語ることができなかった部分が明らかになった時点で全てが掴めた。  ──思い出すことができたかね?  ああ、とレイジは答える。  ──君を利用していたのは、『私』だ。その名前も顔も、全てが把握できたようだね。  俺は奴を止める。   ──そのつもりだよ、レイジくん。そうしてもらうために、君をこれから再起動するんだ。  俺に自由を与えるという約束は違えるなよ。  ──もちろんだ。それでは、目を覚ますといい。傷はとうに癒えている。  目覚めたレイジはすぐさま自らの手を、目の前に掲げた。焦点が合うまでの数秒が煩わしい。並行して、彼は身を起こすべく、空いた手を寝台に突いた。視点の高さ、感触、鼻に入る消毒液のような香り、そして、声。全てが本来の──少なくとも彼にとって本来の──感覚だった。 「レイジ。君は本当に、今度こそ君なんだね」 「全て、思い出した。全てだ。記憶の障壁は最高権限者によって取り払われた。そして、俺がホームでいかに利用されてきたかもな」 「コーヒーはいるかァ?」  寝台の上で前髪を掻き上げながら、レイジは首を振る。 「カフェインもいいが、栄養がいる。ハセクラ、食事を。再生にエネルギーを使いすぎた」 『型にはめただけのおにぎりでもいいかな』  構わん、とレイジは答えて、続ける。 「ナガレ、アイザワはなんと言ってお前たちの脱出を助けたんだ」 「『君たちの成すべきところを成せ』だったかな。それがどうしたんだい?」 「上手く使われたな、俺たちは。初めから『誰が』という点を疑ってかかるべきだった。俺の記憶を最も弄りやすいのは誰か。俺の帰還後に異常がないかを初めに調べるのは。俺の追放に関わっていて、なおかつその行末を決定できたのは。それだけじゃない、物資の供給、その受け渡し。適度なサポートとバックアップ、すなわちナガレとニカイドウの脱出援助だ。それら全てに関わっていたのが、誰か。この一点に焦点を当てるべきだった」  ナガレが言葉の途中で瞳孔を散大させる。レイジは立ち上がると、ナガレの補助を受けて長テーブルまで辿り着く。 「ナガレ、お前は今、否定の言葉を探しているのだろう。だが、俺の中にある記憶は、揺らぎようのない事実だ」  ニカイドウが長テーブル上に現れた、見た通り型に押し込められただけの握り飯に、不服そうな表情を浮かべつつ声を上げる。 「アイザワがキナ臭ェってのはわかんだが、あれが賢人脳会治められる器とは思えねェぞ、レイジ」 『……そうか、私のクローン実験を流用したんだな?』  レイジは顔を向けずに小さく頷く。そして、握り飯を一つ口に頬張ると、数日ぶりに口にしたアルファ米の食感を味わうことなく飲み下した。 「恐らく、賢人脳会は全て一度入れ替わりを果たしている。権限者DNAまで書き換える必要がないからだ。そこでは記憶素子技術による擬似クローン体験が行われ、実質的にホームはやつの本拠地となっている」 「本当にどっちがゴミだめだかわかんないね」  握り飯に伸ばされた手の主を見やれば、いつの間にかカルミアが多層マスクを外している。 『おや、君が私の用意した食事に手をつけるとは』 「大一番にカロリー不足で力が入んないのもシャクだからね。ここは食べておこうってだけだ」  彼女が長期保存用にしろ、温かい米を口にしたのはいつぶりなのだろう、とレイジは不意に思う。それも、隣にずっと探していた男を伴って。自分も同様に愛した者を横に置けたなら、と彼は考える。しかし、この戦いが終わっても、彼には帰る場所などないのだ。 「これからの俺たちの行動を整理する、いいな」 「ああ」ナガレが真剣な面持ちで応える。 「おうとも」ニカイドウが梅干しの種を頬に移しながら言う。 「さっさとね」カルミアが身を乗り出して話を続けるように言葉を発する。  ハセクラは、一拍置いて、こう言った。 『非常に助かる。頼んだよ、レイジくん』  コルチカムはハセクラの拠点に置いてきた。覚醒の時はまだ遠いと思えたからだ。  装甲車両の電池とガソリンは満タン、二日は充分に走ってくれることだろう。 「見えてきたぞ」  ニカイドウが渋谷駅跡に通ずる道へとハンドルを切ると、爆炎が駅ビル跡から噴き出しているのが見てとれた。 「いいな、シリンジ弾を使う時は効果的に、だ」 「分かってるよ。アンタこそ、ここぞって時に『体が鈍ってました』では許さないよ」 「車両で近づけるのはここまでだ。リュウコ、レイジ、準備はいいね?」 「ちょっと待った、コウタロウ」 「なん──」  助手席に座るナガレの唇に、カルミアのそれが押し当てられる。それを目の端に捉えたニカイドウが、あー、と喉の奥から小さく声を上げながら、ゆるりと目線を外へと移す。 「リュウコ、その、えっと」 「景気付けだよ。ここから先は、帰ってきてからだ」  レイジはその場面に直面して、なんの言葉も発しなかったが、しかし、胸に一つ宿るものがあった。  この二人だけは絶対に守り抜く、という心だ。 「行くぞ、時間はあまり残されていない」  カルミアが多層マスクを、レイジがホーム製の防毒マスクを装着すると、駅ビルの屋上で咆哮を上げるネームレスの一体が、こちらを睨め付けているのが認められた。 「増援が来てんぞ、てめえらァァァッ! ハチ公前で待ち合わせだクソどもォォッ!」 「あちらから出てきてくれるなら望んでもないことだな」 「行くよッ! レイジ!」  車両から飛び出したレイジは、無反動銃と視覚の拡張現実をリンクさせ、敵対存在を赤くマークした。 「出せ、ニカイドウ。きっかり十分後にまたここで」 「おう! 死ぬんじゃあねェぞ!」  そして、跳ね飛ぶようにレイジとカルミアは駆け出す。  無反動銃のバッテリは充分。相手が、普通の人間であれば、だが。 「行けカルミア!」  レイジは進行路に着地したネームレスの顔面目掛けて散弾とした熱線を浴びせる。 「ぐあああぁっ!! いってええ!!」 「来い、化け物ども! こっちだ!」  時間稼ぎでいい。まずはカルミアの装備取得とガーデンの状況把握が可及的速やかに行われなければならない。よって、まだシリンジ弾を消費することはしない。  熱線をネームレスの脚に当てては、次なる敵に照準を合わせる。トリガーを引くのはやや長めに。アサルトライフルモードでの点射だ。複数回の集中被弾で相手の修復を遅らせる狙いがあった。 「かあああ! うざってえ! 野郎だ! レイジって野郎だ! なんだよ、ゴリラみてえなやつかと思ってたら全然強そうじゃあねえぞ!」  ネームレスが、修復を待つ間に、叫び声で仲間とコンタクトを取る。 「そっちだ! そっち行ったぞ、オイ!」  待っていろよ、アイザワ。お前を殺して、俺も、死ぬ。
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