十二.名無しの

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十二.名無しの

   十二.名無しの  レイジが高周波ナイフを振るう。ナガレたちがホームから持ち出してきたものだ。  高速で振動する黒い刃はネームレスの強固な爪を裂く。その端から、ネームレスは不揃いになった爪を全て剥ぐ。すると、負傷と認識した再生臓器抽出物の再生因子が爪を急速再生させていく。異形は、異様なまでに自身の体を理解していた。異常な体になっても、まるで昔からそうであったかのように振る舞っている。  レイジは宙に身を翻し、鎖骨の辺りに胴回し蹴りを落とす。もちろんそれで骨が砕ければ御の字ではあったが、強化されたネームレスの肉体にはそんなものが通用するとは思っていなかった。だからこそ、蹴りは軽く、そして、衝撃の瞬間にのみ力を込め、そこを足場とした。  全身のバネを使って、ネームレスの後ろへとそのまま跳び上がり、後頸部へと高周波ナイフを袈裟に落とし込む。 「がっ!?」  噴き出す血を浴びながらもレイジは止まらない。ナイフを相手の右肩から左脇腹まで滑らせると、即座に体を回転させ、その勢いで肋骨と背骨の辺りをナイフで貫く。目標は心臓だ。再生臓器抽出物は血流に乗って作用する。ならばその供給源である心臓を一時的にでも無力化させる他ない。レイジは刃を二度抉るように捻ると、抜き去り、伸びきった髪の毛を掴んでから頸部を横薙ぎに払う。  ネームレスは体と頭が別離した後、両の腕を虚空に伸ばしたが、果たして、沈黙した。 「どうやらハセクラの情報は正確だったようだな」  ハセクラはレイヴンの人間だった死体を強制的に転化させ、その活動停止までに陥る状況を実験したのだという。曰く、素体が人間であるが故に、脳髄と肉体が離れれば行動は停止する、と。  しかし、再生臓器抽出物は再生を停止しない。泡立つように細胞が膨れ上がり、切断部位同士が互いのあるべき部位を探している。体内に既に広がっていた因子の作用だ。ここに頭部が接合されてしまえば、ほどなく再生、蘇生されてしまうだろう。  そのために、レイジは髪の毛を手放さず、頭部にもナイフを当てがい、他のネームレスの猛攻を避けながら、脳を水平に切断した。 「ゴリラじゃねえがやるぞ、コイツ! 一斉にかかれ! そうすりゃ止められる!」  包囲していたネームレスが声を上げて応じると、四体のネームレスが一度に飛びかかってきた。しかし、それを予期していなかったわけではない。 「ソラ、やれ」  懐に隠れていたソラが跳び出し、空中の一体にスタン・テイルを浴びせる。 「〜〜〜〜!!」  声もなく身を固めたネームレスの方へと駆け込み、脚の間からスライディングの要領で包囲の外へ。ソラはその間に、硬直したネームレスの体を踏み台に、空中へと身を躍らせる。  レイジを一瞬見失ったネームレスの背後から、レイジは今一度、心臓目掛けて高周波ナイフを突き立てると、瞬時に同じように首を刈ろうとする。しかし、今度は敵もそれを防ぐために左右の腕で刃の進行を遅らせた。あと四センチで首まで到達する刃から、首は逃れる。  飛びかかってこなかったネームレスの一人が真後ろに駆けてくる音を聞く。 「おらああああ!!」  握り損ないの正拳をすんでのところで避けたレイジは、そのまま地面へと前回り受け身をとって即座に立ち上がる。 「ほら、お仲間の頭だ。大事に扱え」  まだ手にしていた頭の上半分を眼前のネームレスに山なりに放ると、視線が一瞬そちらへと逸れる。レイジは即時、高周波ナイフと無反動銃を持ち替えると、無防備な顔面目掛けて熱線を三発ずつ当てていく。 「て、っめええ!!」  両手で顔を覆うネームレスたちは、焼けた顔を修復させる時間を稼ごうと散り散りになった。 「どうした、お前ら。こんな実力でよくここまで生き残ってこられたな」  自らの乱れ始めた呼吸を隠すように、一息にレイジは言い放つ。やはり、一日二日でも動かしていなかった体は疲労を蓄積していたようだ。しかし、それを悟らせるわけにはいかない。酸素が充分に頭に巡っていない感覚があった。先の食事からもカロリーが摂取し切れていない。興奮状態を作れば、肉体は消化によって栄養を供給する機能が低下する。代わりに異化されていく筋肉群が悲鳴を上げそうだ。  だが、ここで踏み留まらなければ、ガーデンの女たちを逃すだけの時間がなくなる。時間にしてあと四百秒もあれば、あるいは。  こんなところで果てるわけにはいかない、口の中で、レイジは呟いた。 「治ったやつからかかれ! 野郎一人にいいようにさせんじゃねえぞ!」  ネームレスが駅ビル跡の前の広場に六体。これが人間相手なら、なんとかなったかもしれないな、とレイジは考える。相手は銃器を用いるには手指が太すぎる。遠距離からの攻撃はできない。すなわち近接格闘を仕掛けてくるしかないということだ。だが、その一撃一撃が重い。  間違っても受けに回ってはならない。それを念頭に、レイジは立ち回る。 「さあ、来いよ。名無しの化け物」 「言われなくても殺してやるよ、クリーナーが!」  腕力で勝る敵に生半な攻撃は許されない。四肢か、服の端でも掴まれてしまえばそのまま蹂躙されてしまうことだろう。レイジは慎重を期して駅ビル跡とは別の商業施設跡へと駆け込むことにした。体格の勝る相手との戦いは、地の利を活かしてなんとかするしかない。  途中、ソラが二度、スタン・テイルで迎撃を行い、なんとか建造物へと到達することができた。腐食され、強奪された商品たちの陳列棚を引き倒しながら、レイジは突き進む。  建造物前で大音声が轟く。 「上から三人行け! 俺らは一階から行く! 殺したやつはガーデンの女を最初に食わせてやるぞ!」  怖気が走る。ネームレスは一体、どの意味で女を食おうと言うのか。いずれにせよ、気分の良いものではない。  レイジは停止したエスカレータを駆け上がり、柱を背に、呼吸を整えた。足音が近付いてくる。暗闇の中でネームレスがどれだけ物を視認できるかは知らされていない。しかし、ここで重要なのは、レイジの所持する暗視装置が明らかに有利である、ということだった。  拡張現実視野に加えて、暗視装置、そして、彼には音響手榴弾がある。これを使わない手はない。手中で音響手榴弾のスイッチの位置を確認し、レイジは時を待った。 「いたか!?」 「いねえよバカが! いたらすぐ叫んでるだろうがよ!」 「上にもいねえ! いるならこの階だ! 探せ!」 「だから探してんだよ、命令すんなクソったれが!」  レイジはできるだけネームレスが集まるのを待つと、姿を現した。スイッチは、三回押下してあった。  崩れた顔面のネームレスが驚きの表情と取れる変化を見せる。 「探しているのは、もしかすると俺か」 「見ィつけたァ!!」  獰猛な声で吼えたネームレスの中心部に、ボールを下投げで放るレイジ。 「爆だ──」  がきん、という音だけがレイジの耳に届いた。しかし、それは彼の可聴音域での話であり、ネームレスたちにとってはそうではなかったらしい。 「ぎあっ!! 耳が! 頭が割れる!」  音はしばらく続いているようだ。レイジは柱を遮蔽物として、混乱するネームレスの側面に回る。発砲。狙い澄ましたスナイプモードの無反動銃で心臓を焼き付かせることができた。発せられた光の位置でネームレスたちはレイジの方向を見るが、彼は既にそこにはいない。身を屈めたまま走り続けるレイジには、ネームレスたちが慌てふためき見当外れの場所へと殺到していく様子が見えた。  そして、一人孤立しかけていた敵の背後に回り、高周波ナイフで首を刈り、頭部をさらに踏みつけて割る。  ニカイドウたちが到着するまで残り百十四秒。できることならばあと一体だけでも倒しておきたいところだ。だが、ネームレスの一体がこちらに気付いてしまい、手近な棚をこちらに向けて投擲した。  レイジは即座に身を伏せたが、大まかな位置は割れてしまった。その間に、ネームレスたちがなんとかコミュニケーションを取るべく喚き続けている。 「あっちにいんぞ!」 「聞こえねえよ! もっと大声で話せ!」 「なんだって!? 全然聞こえねえんだよクソ!」  撤退するなら今しかない。レイジはもう一度、無反動銃を放つと、初めに心臓を撃ち抜いたネームレスの頭部を焼いた。 「あそこだ! もっと投げろ! 粉塵上げて視界を潰せ!」  馬鹿なことをするものだ、とレイジは思う。拡張現実に足場の状況は全て反映されており、これで退路まで安全に動けるのだから。  ニカイドウたちが現れるまで、三十秒余りの猶予が生まれた。その間にカルミアも、目的の装備品と人物の髪を掴み、引きずりながら現れた。返り血まみれのカルミアは、その人物、すなわちレイジに対してアイザワからの指示を授けていた女の頬を叩いた。 「いたっ、痛いです! 何をするんですか!」 「お前は姉妹を裏切った。楽に死ねるとは思うんじゃないよ、スバル」  マスクをしていない女、スバルは日光を浴びて生活していないこととは別に、青ざめた表情を浮かべた。自身がホームからの潜伏者であることが看破されてしまったことに、ようやく気付いたのだ。レイジの隠されていた記憶の顔とも一致する女の顔は、恐怖に染まっていた。 「あ、あれはよかれと思って、ガーデンのためになるならってことで受け入れた情報で」  この期に及んでスバルは、ガーデンのため、と口走る。あくまでもシラを切り通すつもりだ。 「その口を耳まで裂いておくのと、上下で唇を留めるのと、どっちがいい?」  カルミアが凄むと、スバルは観念したのか口を閉ざした。 「他のガーデンの女子供はどうした、カルミア」 「半数以上が死んでたよ……。見るも無残な、っていうのはああいうことを言うんだろうね……。でも、なんとか残りは電車で逃した。まだ動く車両を確保してあったんでね。あとは、なんとかなるはずだ」  レイジの姿をはっきりと認めると、スバルは再び声を上げた。 「あっ、姐様! その男だって、レイジだって私に情報を流していたじゃないですか! そっちを信用するんですか!」  カルミアは掴んだ髪ごと有毒雨の叩く荒れた路面に女の頭を押し付けた。 「いいかい、お嬢ちゃん。あんたにはこれからイエスかノーしか発言権を与えない。それ以外の言葉を許可なく発すれば、指を先端から逆に折り曲げていく、いいね。……返事!」 「は、はい……」  ニカイドウの運転する装甲車両が到着すると、カルミアとレイジは身柄を拘束した女を後部に投げ込み、ドアを閉めた。ナガレが謝りながらもその手足をテープで留めると、カルミアとレイジは仕上げにかかった。 「そろそろ来るはずだよ、ヤタガラスのヤツがね」 「レイヴンの親玉だな」 「ああ、ヤツもきっと転化してる。そいつを無力化しておく必要がある。でなければ、ガーデンの妹たちは近く追い詰められる」  二人は、腰のシリンジ弾と射出装置を確認した。そして、時を待つ。 「後のことも考えたら一発で終わらせたいところだが、そうもいかなさそうだな」  ずん、ずん、とこれまでに聞いた、どのネームレスのものとも似つかない、大きく低い足音が響く。駅ビル付近の崩壊した建造物の向こうに、小山のような姿が見えた。それは、ゆっくりと、こちらへと向かってくる。 「例の巨大な怪物が転化し損ないの人間だってんなら、あいつは一体全体、なんだってんだろうね」 「さあな。成功例ってやつじゃないのか」 「ガーデンンンンン、魔女オオオオオオ、見つけたぞオオオオオ」 「あの知能低そうなので成功例? 笑っちゃうね」 「やっとオオオオ、殺してやれるぞオオオオ」 「会話ができるだけマシだ」 「クリーナーとオオオ、手エエエエを組んだってエエエなアアアアア」 「会話が? できるのかい? あれと?」  小山のようなネームレスは、三本の足を使いながら、瓦礫を乗り越えてくる。見た目は、ほんの少し赤みがかっていたが、夜闇の中で醜く黒く、そして、伝承のヤタガラスのように、翼を生やしていた。それも、四対だ。身の丈は、八メートルほどといったところか。   先にレイジが戦っていた建造物内から満身創痍のネームレスたちが現れたが、ヤタガラスの到着を見て、歓喜の声を上げる。そして、近寄りながら叫びあった。 「ボス! やっと来たのかよ! 遅えぜ!」 「やっちまってくれ、ボス!」  ヤタガラスの体表面は、前回の巨大なネームレスとは異なり、目に覆われてはいない。だが、一対の眼球ではなく、八つ、それらが頭と思しき場所に付いていた。カラスのように、あるいは中世東欧のペストマスクのように先端が尖った口元から白い呼気が漏れる。 「何人ンンン殺されたアアアアアア」 「確実に、四人は……」 「聞こえねエエエエエなアアアアアア!? 何人だってエエエエエ!?」 「す、すんません、ボス。でもあいつら変な武器使ってきやがって!」  カルミアがレイジの肩を軽く叩く。 「足から落とすよ。動きさえ止めちまえば、あんなの物の数に入らないデカブツだ」  レイジも同意見だった。まずは機動力を削ぐ。それからシリンジ弾を用いて中枢を叩けば、それで話はつく。 「それでもオオオオてめえらはレイヴンのオオオオオ人間かアアアアアア!?」 「ヒイッ!」  ヤタガラスが口から触手を素早く伸ばし、手近なネームレスを捕らえ、そして、捕食した。 「これだからアアアア使えねえエエエエエ!! 俺の中で一緒にイイイイ殺してくぞオオオオ!!」  レイヴンのネームレスたちは蜘蛛の子を散らすように現場を離れていく。しかし、そのうち二体は同じように捕食されてしまうのだった。レイジは産まれて初めて戦慄した。ガーデン再潜入時に見た、人肉を喰らうネームレスの様子を見た時でさえ覚えなかった感覚だ。それが、今、ここで芽生えた。記憶を取り戻した結果だろうか。彼は確信した。 「こいつだけは本当にここで仕留めないといけない」  「同感だね」  ニカイドウが装甲車両から声を上げる。 「今この足を奪われるわけにゃいかねえ! もういっぺんオレっちらは離れるがいいか!?」  レイジは装甲車両のボンネットを拳で叩き、離れているように、と目配せをした。 「さアアアアアアてガーデンの魔女オオオオオ? やるかおいイイイイイ!」 「行くよ、レイジ!」 「まずは足を潰して首を落とす、それでいいな」 「そこは変わんないよ! さあ、行きな、ニカイドウ! コウタロウ!」  ナガレが背後で叫ぶ。 「絶対生きて合流するんだよ、リュウコ!」 「当たり前だよ、まだ続きが残ってる!」  二人は、駆けた。  ヤタガラスの動きは全体的には鈍い。八つの瞳が独立してレイジとカルミアを見ては、ゆったりと歩を進めていく。  翼を広げ、そして、巨体を動かして前方へと大きく動かした。すると、凄まじい風が巻き起こり、有毒雨の礫が二人を襲う。巻き込まれて飛来した小さな瓦礫片がレイジの胸を強かに打つが、ホーム製のプレートキャリアは貫通を許さなかった。  レイジは右へ、カルミアは左へと回り込む。  眼球が絶えずこちらを見ている。ヤタガラスはどうやら、脳を外部から摂取したことで、視覚情報を多く得ることができるようだ。並列して情報処理を行えるということは、それでけ戦略の幅が広がることに繋がるのであろうとレイジは思考した。 「奥の脚から潰す! レイジ、外すんじゃないよ!」  シリンジ射出装置を手にすると、作りの甘さからか、かちゃ、という音がした。一抹の不安を覚えながらも、レイジはグリップをしっかりと握り込む。  有効射程は五十メートルとハセクラは言っていたが、それよりも近いに越したことはない。拡張現実によると、目標本体までは五十メートルを切っている。しかし、奥の脚まではまだ少し遠い。レイジは太腿に全力を込めて、足裏を押し、地面を蹴った。駆ける、駆ける、駆ける。  頭上から触手が、いや、舌がこちらへと俊敏に伸びてくるが、全てを高周波ナイフで退けた。たちまちそれらが修復されることで新たな一手が何度でも繰り出される。右へ跳ぶ。そして街灯であったはずの鉄柱に舌を当てさせることに成功した。  これで数メートルは稼げる。と、思った矢先だった。レイジの背に舌が触れた。しかも、その勢いは巻き取るためではなく、殴打を目的としたものだ。レイジが鉄柱に舌を当てさせたのではなく、相手がそこを起点に、遠心力で舌をぶつけるために鉄柱を利用したのだ。  口から空気が漏れる。 「レイジ!」  大したことはない、と言いたかったが、レイジの肺から思いがけず押し出された呼気の量は多く、一瞬立ち止まってしまう。そこから即座に、彼の四肢に舌が複数絡みつく。 「お前エエエエが殺したアアアア仲間の怨みをオオオ晴らすウウウウウ」  口を開けたまま器用に発音するヤタガラスの口内に、レイジは見た。それは剥き出しの上半身と、巨体に同化した腰から下だ。声の発生源はそこだったのだ。しかも、そこには同じように融解しかけた人間の体がいくつも見えた。中心にあったヤタガラス本体と視線が交錯する。ヤタガラスの本体は、にたりと笑った。 「化け物め……!」  レイジは小さく声を上げるが、すぐさまそれを噛み締めることとなった。舌が上下左右に独立して動き、凄まじい力で体から四肢を引き離そうとしていく。 「レイジ! クソッ!」  カルミアはすぐさまレイジの援護に回ろうとしたが、レイジはこう叫んだ。 「早く脚を破壊しろ! そうでもしなければこいつは動きを止めない!」  逡巡を見せたカルミアだったが、彼女はすぐに視線の先を後部の脚へと向け、駆け続けた。  レイジは全力を振り絞って体を固めたが、舌は、彼の四肢が力を入れづらい方向へと器用に動き、加えて地面や壁面に叩きつけさえした。 「かっ……はっ!」  脳が揺さぶられ、脱力した瞬間に、右肩の関節が抜けた。ぼこん、という音と共に、激痛がレイジの神経を走る。 「そっちにばっかりかまけてると愛想尽かしちまいそうだよ、っと!」  雨音の中で小さく射出音を聞く。続けて三度だ。 「レイジ、あと十秒踏ん張んな!」 「アアアアアア!? いでえエエエエエ!?」  高周波ナイフでカルミアが切りつけているのだろう。斬撃音が数えられないほど連続する。レイジは舌の弛むのを感じた。しかし、すぐに脱出できるほどではない。  「もう少し!」 「なんだアアアア!? 回復しねえぞオオオオ!!」  そこでようやくヤタガラスは首を振り、自らの後脚に起こっている事態を知る。 「これでッ、終いだ!」  今度こそ、レイジを縛っていた舌が解ける。ずしん、と後傾したヤタガラスの口元まで二メートルというところで、レイジは宙に放り出された。角度は悪くない、壁面に両足で接することができれば体勢を整えられる。 「全くよオオオオオ!! てめえら本当にイイイイイ骨も残さねえエエエエ!!」  建造物の窓枠が残っている場所に、レイジはなんとか着地し、重力に任せて地面へと向かう。その間もカルミアは行動を止めない。今この機会を逃せば仕留めることができなくなるだろう。それは彼女にも分かっているようだった。 「有象! 無象がアアアア! 俺の支配にイイイイイ逆らいやがってエエエエ!」  レイジは地面に降り立つ瞬間、右肩を左手で庇いながら、受け身を取る。いくら再生臓器抽出物が手元にあっても、脱臼は自然には治らない。だからこそ、彼は着地の衝撃を利用して、あえて右肩が下になるよう体を倒した。  ぼぐ、と右腕がはまり、右手に自由が戻る。  思わず声が漏れたが、それよりもシリンジ射出装置を手放していなかったことを確認する方が重要だった。肩の腱がぎしぎしと痛んだが、果たして、それはいまだ手元にあった。しかし、力が込められすぎたのか、造りが甘かったのか、あるいは着地の衝撃か、射出準備の整っていたシリンジ弾一本と、射出口がひび割れてしまっていた。  遊底を引き、次弾を装填しようにも、がたつくばかりで装置は満足に動かなかった。 「ハセクラの慎重な仕事が功を奏したな」  舌打ちと共に、弾倉を抜き取ると、無事だったシリンジ弾を一本手に取る。 「カルミア、次は向かって右の脚を攻める!」  射出装置の破損をヤタガラスに悟られぬよう、手信号で状態を伝えると、カルミアが頷いて応えた。 「了解!」  ヤタガラスの行動が俊敏さを見せる。今までの動きは慣らしだったのか、首を常に動かし、その嘴に相当する部分で直接二人を狙い始めた。そして、残された二本の脚と翼で、周囲を踏み鳴らし、瓦礫を巻き上げて攻撃してくるようになる。  倒壊を免れていた建造物の一部が弾けるようにして礫となり、二人へと降り注ぐ。  二人が同じ建造物の中に飛び退き、道路を見れば、水溜りを叩いた礫が水柱を上げる。その水飛沫の勢いが威力を物語っていた。直撃すれば先のように衝撃を受けるだけではすまないだろう。  遠巻きに様子を見ているネームレスたちが歓声を上げる。 「さっすがボスだぜ! やっちまえ!」 「これなら東京どころか壁の外でも敵無しだ!」  だがしかし、冷静な者もいた。 「馬鹿野郎、お前まで食われちまうぞ!」 「さっき、回復が起きないって言ってなかったか……!? 連中、クスリを無効化する物を持ってんじゃないのか!?」  ひとまず、レイジたちの算段通り、シリンジ弾の使用は“効果的”だったようだ。だが、誤算はこの目前の敵、ヤタガラスだ。この巨大ネームレスを討ち果たせるか。それが見えてこない。 「レイジ、近づく方法!」 「音響手榴弾を使って混乱させることができればあるいは。お前はまだ持っているか」 「一個だけね! もう片方はガーデンの中で使っちまった!」 「俺もだ。だが、ここで二つ使うことはできない。いつ必要になるかが分からない」 「先を見据えてってやつかい。それは分かるんだけどね、今を生き延びなければ後なんかないんだよ!」  レイジがポケットにしまっていた音響手榴弾を、カルミアが奪おうとする。しかし、レイジはそれを留めた。 「閃光手榴弾はないか。それがあればなんとかできる算段が立っている」 「そんなものあるわけが──いや、あんた、無反動銃を使って発光させることはできないのかい? そうすれば……」  レイジはここで躊躇った。それを実現させるには、バッテリを大量に消耗する。そして、無反動銃を失う可能性を鑑みると、かなりの危険を伴ってしまう。しかし、他に有効な手立てはない。 「わかった、少しだけ時間をくれ。バッテリと配線をいじる」 「具体的には?」 「四十秒。いけるか」  マジで言ってんのかい、とカルミアは一言呟いたが、すぐさま向かいの建造物へと飛び出していった。 「アホのカラスちゃん、こっちだよ! それとも鳥頭はもうアタシの顔を忘れたかい!?」 「やっとオオオオ出てきたなあアアアアアア!?」  レイジは背に轟音を受けながら、マルチツールキットをプレートキャリアから抜き取る。先程の瓦礫の破片で一部の工具が変形してしまっていたが、作業に関係あるものは幸いにして無事だった。  即座に作業に取り掛かるレイジ。モードを高出力のスナイプモードにして、射出口へと繋がるコードをショートさせられるように繋ぎ直し、その上でバッテリの陽極と陰極を逆に再配線した。あとはタイマーだ。それか、衝撃で電流が流れるように細工をしなければならない。  周囲を見渡し、道具を探すも、そこにあるのは衣服の端切れと瓦礫、紐状の布、ワイヤばかり。カルミアに用意するよう言った四十秒はもうすぐにきてしまう。  頭脳を総動員して、レイジは気付く。 「カルミア! 今からこいつを渡す! 合図でトリガーを引け!」 「遅いよグズ!」 「今の言葉はナガレには伝えないでおいてやる! こっちに来い!」 「オオオオオオオ!!」  道路に躍り出た途端、鼓膜を揺さぶる大音響が放たれた。  本能が身を竦ませるようなその咆哮の中、しかし、レイジたちは動きを止めない。カルミアは半ば組み立て直しかけの無反動銃を受け取ると、銃口をヤタガラスの八つの眼球の中心向けた。 「合図は!」 「ハイ、チーズでいいだろう」 「ふざけんのも大概にしな!」 「食われてエエエエ俺の中にイイイイイイ! 融けろオオオオオオオ!」  跳躍したヤタガラスの頭部が二人の頭上へと降ってくる。 「今だ!」  瞬間、レイジはカルミアから身を離し、顔を背けた。  かっ、と閃光が周囲に包まれる。無反動銃が爆発を起こしたのだ。 「目、目エエエエエ!!」 「馬鹿、レイジ! 誰が爆発させろなんて言った! 死ぬほど驚いたぞ!」 「ミラーコート処理されたお前のマントじゃないとできないことだ、許せ」  仰け反ったカルミアを尻目に、レイジは音響手榴弾を起動し、ヤタガラスの頭部へと向けて流れるようなアンダースローで投げつける。  がきん、と音がして、ヤタガラスは視覚と聴覚を失った。 「み、耳イイイイイイ!! なんだこれはアアアアアア!?」 「ここからだ、カルミア。ヤツはこれから口を開く。本体がそこにある」 「は! そういうことかい! なら今度はあんたが足蹴にされるけど、許せよ!」  カルミアが右手にシリンジ射出装置を、そして左手に高周波ナイフを構えて時を待った。 「クソがアアアアアア! どこにいやがるウウウウウ!」  ぐぱぁ、と湿っぽい音を立ててヤタガラスが大口を開けた。  それまでの間に、カルミアはナイフを山と内包したマントを脱ぎ去り、レイジを挟んで助走距離を取っていた。そして、彼女は駆け出す。 「カルミア、できれば左肩を踏んでくれるか」 「今言うな馬鹿が!」  腰を落とし膝と肩を突っ張り出したレイジを踏み台に、カルミアが宙に舞った。レイジが最後に体を伸長させた勢いも伴って、彼女は三メートル以上跳ねた。  高さは、充分。 「貴様アアアア魔女オオオオオ!」 「鳥目にはさっきの光は辛かったかい!?」 「このまま消化してやるウウウウウ!」  カルミアがヤタガラスの口腔内へと消え、嘴は閉ざされた。レイジは荒れ狂うヤタガラスの足元から避難するとしばらく二人の争いが続いた。  そして、一分、または二分、それ以上か、時間が経ってから、ヤタガラスは動きを止め、うなだれるようにその身を横たえた。 「カルミア、無事か」  血液を吐き出したヤタガラスの口から、体液まみれのカルミアが這い出る。 「無事に、見えるなら、レイジ、あんたは目が、腐ってるよ」  嘴の隙間から、ずたずたに引き裂かれたヤタガラス本体の姿が覗くことができた。そして、視界の端に、逃げ帰っていくネームレスたちの姿。 「これで、なんとか、はあ、なんとか、ここいらの安全は、確保できた、ね……」 「いや、まだだ」  最も肝要なのは、死ぬまできちんと殺すことだ。 胸を貫かれようと、脳を焼かれようと、それが生半であれば、大概の人間にとっては、厄介な禍根を生む種にしかならない。そうやって芽吹いた復讐心にはいかなる除草剤も効かない。根から絶つには手間がかかる。なら、やはり大原則は、はなから、死ぬまできちんと殺すこと、となる。  いつか、考えたように、冷徹にレイジは思考する。 「巨体の方にも循環器系があるはずだ。俺がそいつを破壊しておく」  レイジはシリンジ弾と高周波ナイフを手に、両脚の間辺りを斬り裂き、体内へと侵入していった。  カルミアがため息を吐いて言う。 「ご勝手に。あたしは、疲れたよ」
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