十七.夜明け

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十七.夜明け

  十七.夜明け  「エマ、エマ、起きてくれ」  エマはあの戦闘の音でも目覚めていなかった。レイジは白いワンピースを纏った体を揺さぶって起こそうとする。彼女は目覚めると、レイジの血に濡れた手に対して驚き、何も言わずに身を捩って寝台上を逃げた。 「誰、ですか……!」 「今説明している暇はないんだ。すまない、早くこちらへ。君をここから逃がさないといけない」 「エマの嬢ちゃん、オレっちたちは悪もんじゃあねェ。いや、まあ状況的に 相当やべェ人間であるこた確かなんだが」  ニカイドウの言葉を聞いてから、エマは寝台からそう離れていないところに肉片がばら撒かれていることに気付いた。そして、それらが、うぞうぞと互いを探しているかのように蠢いていることまで見てしまった。 「何が起きているの……?」 「君の体に再生臓器と呼ばれるものが新生したことは覚えているか」  首肯。 「それを取り出す手術を定期的に受けなければならないことは」  再び、首肯。 「でも、それが大衆の中でクスリとして利用される材料となっていたことは、どうだ」  エマは警戒しつつも、何を言っているのか分からない、という顔をした。 「これから経緯を説明する。頼む、着いてきてくれないか」  ビオトープの中で、小鳥のさえずりが聞こえる。それよりもずっと小さくだが、外部からの悲鳴も混じった。ドームの外には爆煙が上がっている。医療区での暴動も始まったらしい。商業区の方でも、この状況が変わらなければ、その内、略奪や暴動が始まるだろう。現在無事なのは、ナガレたちが今もいるのであろう、工業区のみだ。  居住区で、身の丈十数メートルもの巨大な人型のネームレスが立ち上がった。ずおん、ずおん、と足音を立てながら、破壊活動を始める巨大ネームレス。その姿は、もはや素体が人間であったことを忘れさせた。  あれは、ホームの死体安置所から現れたアイザワのバックアップ個体、最後の一つだとニカイドウは説明していた。 「……」  レイジの真剣な表情に、エマが頷いて、よろめきながら寝台から降りた。逼迫した状況を察するだけの能力が残されていたことに、レイジは安堵する。このままであればホームも東京のようになるだろう。違いは有毒雨の降っていないことだけだ。それを防ぐ手立てを練りながら、移動をするしかない。 「行くぞ、エマ」 「は、はい……あの、大丈夫なんですか?」 「俺のことは、心配、ない──?」  一瞬だけレイジの視界が暗転する。次の瞬間には、眼前に白いワンピースが迫っていた。 「全然大丈夫じゃないみたい。休まないと……!」  レイジを抱きとめると、エマは声を上げた。 「その時間が、ないんだ。聞いてくれ。大切なことなんだ、俺はそのために生きてきた、君の──」  レイジはその瞬間、口走りそうになる。ただ一言、君のために、と。  そして、すぐにそれを飲み込もうとした。彼の胸中に渦巻いた苦しみ、悲しみ、芽生え始めた感情が、全てなくなってしまえばいいとさえ思った。だが、それは本来の彼の心にあった想いではない。そう、分かっている。創り出された記憶だ。それが自分を戸惑わせる。  しかし、どうだ。目の前の少女は、可憐で愛するに足る目鼻立ち、声、健気さを持っているではないか。今この瞬間に生まれた気持ちが嘘ならば、自分はこれから先もきっと自らの気持ちを信じることができなくなる。 「どうしたんですか? やっぱり休まないと」 「俺は、俺は、君の……」  ニカイドウはその様子を痛ましい目で見守っていた。遠来する巨大ネームレスと他の人類の叫びさえ、二人の見つめ合うのを邪魔はできなかった。 「君の、なに?」  記憶に刷り込まれたエマの笑顔を幼くして、少しだけ困惑の色に染めた彼女の顔が、そこにある。ずっと望んできたものが、そこにある。どうして彼女はこんな目に遭わなければならない。どうしたら彼女を救うことができるかを、何故自分は知らない。  くそ、とレイジは呟いて、頭を振った。  無力さから来る「身を離さねば」という気持ちと、愛しさから来る「もう少しだけこの小さな体に抱かれていたい」という気持ちが、彼の判断を鈍らせた。 「レーイージ、クーン」 「危ない!」  とっさに突き飛ばれたレイジは気付けなかった。  アイザワが上半身だけを修復させていたことに。  そして、高周波ナイフが投擲されたことに。  何よりも、エマがそれからレイジを救おうとしたことに。 「あああああっ!!」 「エマッ!!」 「嬢ちゃん!!」  そのナイフはエマの腹部に突き立ち、高周波の振動で、ずぶずぶと脚の方へとゆっくり落ちていく。彼女の肉を引き裂きながら。 「貴様」  即座にナイフの柄を掴むと、その足で右肩から左胸にかけてまで修復を済ませたアイザワに駆け寄る。 「貴様、何をしているか分かっているのか」 「ククク、rage.rage.ククク、ハハハ」  レイジはそこでアイザワの人間体に終止符を打つ。  断末魔の叫び声は、不快に彼の鼓膜を振動させた。 「レイジ、おいレイジ!」ニカイドウが何かに気付いて声を発した。「これ、これ、見ろよ……!」  振り返れば、目を閉じたエマの体から蒸気が立ち、既に修復が完了しているところだった。 「特級品の根源、すっさまじい効力じゃあねェか……」 「ニカイドウ、彼女はこれでまた少し若返る。ここで目覚めを待つ時間もない。二人で支えて移動するぞ」  それから下階に降りるエレベータの中で、果たして、エマは覚醒した。少しだけ、また若返り、ほんの少しだけ記憶を混濁させて、彼女は目を覚ましたのだった。  冷えた三十四階に到達する頃には、彼女はしゃんと立って歩いていた。裸足での歩行は辛かろうとレイジは背負ってやろうとしたが、彼もまた、満身創痍なのだった。  そこから、これまでの顛末を掻い摘んでエマに説明した。エマの集中力は低く、話は何度か前後したが、要点だけは伝わったようだった。重要なのは、彼女があの場に留まってしまえば、修復の材料として永遠に使い続けられるということだ。それが伝われば、他のことはある程度、どうでもよかった。もはや、レイジがいかに彼女を守ろうとしたか、愛そうとしたか、自らの身を削ったか、そんなことは、どうでもよいことだった。  エレベータで三十階まで降りると、二十数名いた職員の四分の一ほどがネームレスと化し、残りはデスクや椅子で作った簡易バリケードの中で喚き続けるのみだった。エマが鋭く息を飲むと、それに対してネームレスの一体がこちらに気付いた。レイジは失血しているが故に起こる目眩の中で、ゆるりと高周波ナイフを抜く。脱力した体から繰り出された四連斬は、ネームレスを二秒で行動不能にした。 「レイジ、おめェ、なんか神がかってねェか……」 「神などいない。少なくとも、俺たちのような姿で殺しをする神など、どこにもいない」  ネームレスは残り四体。レイジは地上階へのエレベータを呼び出すようにニカイドウに指示すると、エマには部屋の隅へ隠れているように言った。  血が、足りない。とにかく血液量が足りておらず、酸素が頭を巡らなかった。赤血球の量に限らず、体液全般が不足しており、とにかく喉が渇いた。 「統括区の職員、何か食べる物を用意しろ。死にたくなければ急げ」  知性の低そうなネームレス四体ならば、なんとかなるという確信があった。だが、それは万全の状態に限りの話だ。職員に再度呼びかけるも、動きはない。安全圏から出ることを恐れて、誰もが動かない。痺れを切らして、ニカイドウが大音声で呼びかけた。 「給湯室やら食堂やらがあんだろ! その場所を指差しゃあいいんだよ!」  そこでようやく、先ほど賢人脳会の保存室まで案内をした女性職員が控えめに壁面の一つにある出入り口を指で示した。 「よしきた、姉さんには後でチューしてやっからな!」  ニカイドウはレイジの肩に手を置いて、行ってくる、と伝えるとその出入り口に駆け出した。その時、ネームレスのほとんどがそちらへと意識を向けたが、レイジはそれを好機とした。よそ見をしたネームレスの首に高周波ナイフが突き立つ。やや斜めに斬り落とされた頭部を探して、体がわたわたと動き続けるが、レイジはその両腕を切断した。 「よし、来い。こっち、だ」  ネームレスは奇声を上げながら両腕を振り回し、襲いかかってくる。レイジの立ち回りはそこからは防戦一方だった。単純な鬼ごっこと言ってもいいかもしれない。それから一分と経たずに、ニカイドウが両腕いっぱいに飲食物を抱えて姿を見せた。 「レイジ!」  ニカイドウが最初に投げて寄越したのは経口補水液だ。レイジはそれを霞む目で見据え、なんとか掴み取ると、キャップを斬り捨てて口に液を流し込んだ。緊急用の備蓄だったのか、中身はぬるい。だが、一気に胃の中に水分が満たされ、口腔内の渇きもいくらか癒えた。 「ニカイドウ、次はタンパク源をくれ」 「あいよ!」  緑黄色野菜のスムージーにプロテインパウダーが溶かされた物の入ったボトルだ。女性職員が健康に気遣って摂っていたものかもしれない。由来はどうあれ、食糧が固形物のみでなかったことは助かった。液状の方が、吸収効率が段違いに高いからだ。味の方も、甘味料入りで悪くない。  レイジの体内で急速に血液が生成され、次第に五感や思考が冴え渡っていく。 「ニカイドウ、糖類が要る」 「シュークリームと蒸しパンがあんぞ!」 「どっちでもいいから寄越せ」  レイジの神経は昂っていなかった。冷静だ。消化にも問題がない。エネルギー吸収にも代謝にも適した状態だった。ネームレスは、ものの五分程度で沈黙した。その間にエレベータは到着していたが、レイジは統括区職員を見捨てることはしなかった。 「レイジ、腹ァ膨れたか?」 「肉が食べられればもう満足だ。それで」レイジは職員たちを振り返ると、「お前たちはそうして自分の身を守るだけか」と言って行動を促した。  職員たちが互いの顔を見合わせて、バツが悪そうに俯いた。  エマを呼ぶと、彼女は眼前の光景に顔を強ばらせていおり、エレベータに入るなり、壁際でしゃがみこんだ。 「俺たちは行く。この状況を生んだのは、俺のような人間であり、お前たちのような人間だ。いいな、忘れるな」  エレベータが閉まる前に、レイジは言い放った。 「逃げ道はもうないぞ」  統括区の塔の根本にはフロートバイクが四台停まっていた。それぞれに搭乗していたのは、ナガレ、カルミア、スバル、そして、見覚えのある巨体の持ち主が一人。  たしか、あれはいつだったか一緒に作戦行動をした巨漢のクリーナーだ。 「お前、何故こんなところに」  ナガレが間に割って入ろうとしつつ、口を開く。 「彼はここでの惨状を目の当たりにして、避難誘導をしていたんだ。そこで追放されたはずの僕を見つけて、捕まえに来たんだよ。でも、事情を話したら、協力を──」 「レイジ。お前、俺が首を飛ばされた時の主犯格だったそうだな」  ナガレの体を押しのけつつ、巨漢が言う。 「……ああ」  今はそんな話をしている場合ではないのだが、巨漢にとっては重要なことなのだろう。ナガレもそれを止めようとはしない。 「あの時のことは間違いなく俺が原因だった。記憶を改竄され、操られていたとは言え、すまないことをした」  巨漢はそれを聞くと、跨っていたフロートバイクから脚を下ろし、レイジに近寄る。そして、その太い腕でレイジの腹を一度殴った。  「がっ!」 「よし、レイジ、覚悟しろ」  巨漢の言葉に、ナガレも慌てて間に入った。 「ちょ、ちょっと待ってくれよ、話が違う! 君はレイジに協力してくれるはずじゃあ!」  巨漢が手で言葉を制した。そして、その手で人差し指を立てると、レイジの顔を差した。 「今ので許してやる。お前には蘇生してもらった礼がある。おかげでなんとか家族とも再会できた。覚悟ってのは、これからお前が死ぬかもしれないことをする覚悟ってやつだ。できてんだろうな」 「げほっ……。当たり前だ、俺は、ずっとそのつもりでやってきた」 「ならいい。怪物は居住区から商業区へと向かっている。これからどうするつもりだ?」  レイジは考えがない、という嘘を吐いた。今からホーム中のクリーナー全員の火力を集中させたところで、それが叶う頃には敵はさらに強大な肉体と力を手にしていることだろう、と。それに、クリーナーがレイジたちに協力するとは思えない。自らの安全を確保するので今はまだ精一杯のはずだ。 「あの……」  控えめに、エマが口を開く。 「私は死んだ方がいいんでしょうか?」   カルミアが唖然として「何言ってんだいこの娘は」と言った。 「その怪物が私の体で若返り続けて、傷を治し続けて、それで皆を傷付けるなら、私は、死んだ方がいいんじゃないでしょうか……?」  レイジは思考の外に置いてきたはずの最悪の考えを、エマが提案したことに驚愕した。確かに、エマの体の中にしかない再生臓器が切除、ストックされているとしても、それは無限に増殖するわけではない。彼女の体の中でしか増殖しない再生臓器細胞から因子を抽出し続けるには、エマの存命が絶対条件だ。彼女がいることで、ネームレスたちは増殖し続け、多くの人間が転化する可能性が増大する。  レイジは首を横に振り、言った。 「そんなことはさせない。他の手段が必ずある。諦めるな、エマ」  そこで、スバルが諸手を合わせて拝むように言う。 「お願いしますお願いします、レイジ様、それを早く思いついてください、アイザワ検疫官がもうあんなに巨大な怪物になってるんです、ホント、ホント!」  カルミアがスバルの頭を拳で殴りつけると、しかし、同じようなことを口に出した。 「時間がない。近くで見てきたが、あいつは無差別に人間もネームレスも飲み込んでいる。あのままじゃ誰も止められなくなるよ。手段を考えないと」 「レイジ、それでも、もしかしたら最終手段としては彼女を……」 「コウタロウ、それ以上は言ったらダメだよ」  ナガレが口をつぐんだ。 「レイジ」巨漢が言う。「とにかく俺は他のクリーナー連中に通信して協力を仰ぐ。実弾兵器はあまりないから制動力はないが、体力を削るくらいはできるはずだ。それと、住民の誘導もな。あとはお前に賭けるぞ」  レイジが、意外そうな顔をした。 「俺をまだ信じられるのか」 「信じるしかねえんだよ。こんなご時世にゃ、信じるもんが必要だからな。それで、仕事が終わったらよ、レイジ」 「なんだ」  巨漢は口元を歪ませて、一杯付き合えよ、と言って、フロートバイクを駆り、居住区へと消えた。 「あのよ、オレっちに二つだけ案があんのよ」 「本当かい、ニカイドウ!?」  指を二本立てたニカイドウに、ナガレが歩み寄る。 「一つ目のプランな。ホームをこのまま崩壊させて、巨大アイザワを生き埋めにする」  ジオフロントは箱根山の下に掘削されて作られたスペースだ。もしもそれが可能ならば、確かに無力化はできるかもしれない。しかし、懸念事項がある。レイジはそれを言葉にした。 「ヤツがそれで死ぬかは別問題だ。それに、ここは核シェルター並とは言わずとも、強固な造りをしている。生半な量の爆薬では破壊などできない」 「だよなあ。だから二つ目のプラン。これもまた現実的じゃあねェし、かなりやべェ提案だから言いたかねェんだが……」 「聞かせな、ニカイドウ。あたしたちがどうすればいいのか」 「まずはあいつの中枢を見つけるだろ、そんで──」  ニカイドウの提案は、悪魔の発想と言うことさえできるものだった。払う代償が大きすぎた。レイジは、そこで激怒しニカイドウの襟を両手で掴み、詰め寄った。 「ふざけるなよ、ニカイドウ! そんなことをしたらどうなると思う! そんなことをしたら、エマは結局……」 「それでもよ!」ニカイドウは負けじと声を張った。「それしかねェんだよ! そうしないとヤツは止まらねェ! これ以上の犠牲を出すなら、それしかねェ! 頭では分かんだろ!」  ナガレは動揺し、言葉を発せなかった。  スバルだけが、我が身可愛さに、それを名案だと言ったが、カルミアの睨めつける視線に口を閉ざした。 「他に手があるはずだ、他に……何か……」  レイジが思案する間に、誰かがフロートバイクをいじり始めた。それは誰あろう、エマだった。  「あの、これどうやったら動くんですか?」 「エマ、お前、まさか」 「私、行きます。それしか方法がないなら、私、やります」  決然とした態度で、エマはそう言い放った。そして、レイジはいつの間にかニカイドウを放し、そちらへと歩み寄っていく。エマの手を取り、彼は言う。 「他に方法を見つける。だからお前は」 「私のために起こった出来事なら、私のためにこれ以上は苦しむ人が出るのは止めたいんです。だから、行かせてください」  ニカイドウがレイジの肩に手を置く。 「レイジ……」  ナガレも、カルミアも、同じようにレイジの名を呼んだ。それは、決意を求めているのだ。ニカイドウの案を決行するか否か。それが彼らの求めるものだった。  そして、レイジはエマを抱擁した。この時ばかりは、我慢ができなかった。もはや耐えきれず、張り裂けそうな胸の内を、行動で示した。 「……ありがとう。そして、すまない」  それ以上の言葉は要らなかった。そして、エマは、レイジの背中をぽん、ぽん、と二度叩いて、こう言った。 「貴方、懐かしい匂いがする気がする」  瞬間、レイジは目を見開いた。表情を歪めることもなく、彼は、落涙した。それは、誰にも止められなかった。そう、レイジ本人にさえ。  彼は呆けたように、自身の涙の熱さを知った。涙の通った後を撫でる風がいかに冷たいか、知った。 「落ち着くなあ……」  レイジはもう何も言えず、ただ強く彼女を抱き締めるしかなかった。  時間帯は朝の通勤ラッシュの頃を迎えていたが、それとは無関係に、いや、それ以上に道は人に溢れかえっていた。フロートバイクで居住区から商業区へと向かう道路は、逃げ惑う人々の群れに覆い尽くされている。  ホームの総人口をレイジは知らなかったが、ここまで多くの人間が道に溢れかえる時間帯に道を行くことはほとんどなかったため、半ば驚きつつ、スロットルを回した。押し合う人々の群れは転んだ人間を踏みしだき、子どもは親とはぐれ泣き叫ぶ。中には転化を始める者もいて、半狂乱の人間たちはそれを絶叫で示した。凄まじい光景だった。  その中で、レイジたちはなんとか進行を続ける。 「エマ、しっかり掴まっていてくれ」 「はい」  フロートバイクにレイジとエマが搭乗し、その横にはナガレとニカイドウ、カルミアとスバルがそれぞれに乗って並走していた。 「レイジ! アイザワは商業区で養分を摂るつもりだ! そこで決着を付けよう!」  ナガレの言葉に、カルミアが反応する。 「人間って意味かい? それともちゃんとした食事?」 「もうあの人にとって有機物は全部食事なんじゃないですか!?」  ニカイドウは先の一件から言葉を発さなかった。発した言葉を悔いているのか、それとも何かを考えているのか、レイジには読めなかった。 「クリーナーたちが応戦を始めてる! でもダメだ、足止めにもなってない!」  巨大な人型ネームレスは、俊敏とは言い難かったが、その強固な外皮に包まれた体を武器として、周囲を破壊して回っている。そこに無反動銃の光線は効果が薄いようだった。  実弾兵器はホームには乏しいが、迫撃砲まで持ち出したクリーナーたちは、巨大ネームレスの顔目掛けて榴弾を放っている。しかし、それでさえも、疎ましそうに手を払う巨大ネームレスの進攻を止められない。 「エマ、寒くないか」 「大丈夫です」 「そうか」  穏やかな声色で、レイジは何度もエマに声をかけた。その内容は、全て似たようなもので、体調などを気遣ったものだった。 「レイジ、さっきもそれ言ってたよ」  ナガレが言うと、レイジは話題を探して視線をわずかに左右に動かす。 「オリオン座。オリオン座を知っているか」 「秋に見える星座でしたよね?」 「そう、それだ。見たことはあるか」 「昔……きっと、ずっと昔に……。あれ?」  レイジは後ろにしがみつくエマの顔を見ることができない。しかし、声色から察することだけはできた。 「どうしたんだろう、涙が。なんで……私泣いて……?」  レイジは、何も言わなかった。  巨大ネームレスは居住区を抜け、商業区へと到達していた。巨体に衝突された商業区のセンターが音を立てて崩れていく。 「クリーナーたちもかなり数が減ってしまったみたいだね……」  応戦している無反動銃の熱線の数が少なくなっている。遠方からスナイプモードで狙撃しているクリーナーの方に、出来立ての瓦礫を手当たり次第投げつけるアイザワ。クリーナーが壊滅的に倒されているのは明らかだろう。  レイジが、センター前のスロープへとハンドルを切る。カルミアがその行動の意味を問うた。 「ヤツの中枢へ突入するには高さが要る」  巨漢からの通信で、アイザワは人間と同じく脳に当たる部位と心臓に当たる部位が強く守られていることを聞いていた。狙うなら、その内の後者だ。高さにして十メートルは稼いでおきたかった。  フロートバイクでエスカレータを上がり、三階へと一行は辿り着いた。進行方向には、瓦解した壁面と衣類店が見える。レイジは、その中に女性ものの服を見て、一瞬だけエマに似合うかを想像した。そして、すぐにそれを振り払う。そんなことを考えてしまえば、決意が鈍る。必要でない考えなど捨ててしまう他なかった。  崩れたセンターの割れ目から、巨大ネームレスが顔を現し、双眸でレイジたちを捉えた。その体高は二十メートルを超えている。 「レイジくん、こんなところにいたんだね」  全員がフロートバイクを停車させ、レイジの言葉を待った。 「アイザワ、もうこれが本当の終わりだ」 「わたしの人間体がどうなってしまったか、わたしはもう知らないのだが、ここに君がいるということは、そういうことなのだろうね」 「バックアップはいつ取ったものだか知らないが、ここにお前がいるということは、無惨にもお前は死んだということだ」  ホーム中に響き渡る声で、巨大ネームレスは笑った。 「いや、まさに。エマがそこにいるということはわたしはしくじったらしい。いやあ、この体には参ったものだよ。お腹が空いて仕方がないんだ」  エマがレイジの服の背を固く握った。 「サイズ感は身の丈に合ったものにしないとだね、レイジくん」 「ああ、気にするな。これからお前を骨壺に合うサイズまで刻んでやる」 「わたしを止めるかい? レイジくん。今なら君にも力を与えてやろうじゃないか」 「くどい。お前が人間の体の時も同じことを言われたぞ」  レイジは、ブレーキを引きながらエンジンを吹かした。 「じゃあ同じやりとりはやめておこう。それじゃあね、レイジくんッ!」  巨大ネームレスが大上段に右腕を振り上げた。 「散開しろ!」  レイジの声で三台のフロートバイクがそれぞれに走り出した。振り下ろされる腕の軌道は単純だったが、いかんせんその効果範囲が広い。商業施設の半分がその一撃で破壊された。幸いにして全員が無事だったが、ナガレとニカイドウの乗ったフロートバイクが破片に当たって煙を噴く。 「ナガレ! ニカイドウ!」 「僕らのことはいい! 行け、レイジ!」 「レイジ! ……勝てよ!!」  その間に、振り下ろされた腕にカルミアとスバルの搭乗したフロートバイクが飛び移る。 「レイジ、あたしらが穴開けてやるから後に続け!」 「私もですかあ!?」 「やるよ、スバル!」  途中でフロートバイクを飛び降りたカルミアとスバルが巨大ネームレスの胸に取り付く。カルミアが全てのダートナイフを射出し、それらを足場とした。高周波ナイフとシリンジ弾を突き立てて、二人が斬り込んでいく。 「痛いなあ、カルミア! 何をするんだ!」  巨大ネームレスが左腕で胸を払おうする。それに対して、背後から、きん、という音がした。途端、巨大ネームレスの表情が曇り、動きが鈍る。ニカイドウが靴に仕込んだ妨害電波発生装置を起動したのだ。言論統制対策の高音域を発する装置が、こんな場面で役立つとは。 「高音が苦手なんだろ!」 「よくやった、ニカイドウ!」  カルミアが斬撃を繰り返しながら叫ぶ。 「まったくもって面白いことをしてくれる!」  巨大ネームレスは、しかし人間体の頃のように行動を停止させはしなかった。カルミアとスバルは左腕に薙がれ、弾き飛ばされる。レイジは二人の身を案じる言葉を発しながら、フロートバイクで、上昇し始めた右手に飛び移り、腕を登った。 「あたしはなんとか生きてる! 行け!」 「レイジ!」 「レイジ! やっちまえ!」 「レイジさん!」  全員の声がその背を後押しする。レイジは、これから成すことを想い、唇を固く結んだ。 「やるぞ、エマ」  そう声をかけるが、エマは、後ろで小さく頷くに留まった。  フロートバイクごと、胸に作られた大きな傷痕に突入したレイジは、エマにしがみつくよう言い、その体内へと高周波ナイフで道を作っていく。硬化した皮膚の内側は、分厚い筋肉と、硬い骨によって構成されていたが、ナイフの出力を上げればなんとか潜り込むことができた。 「何をするつもりだい、レイジくん!」  巨大ネームレスの声がくぐもって聞こえる。レイジはそこから、一心不乱に突き進んだ。足先に、巨大ネームレスが傷口から挿入してきた爪先が触れるが、彼を止めることはできない。大胸筋、肋軟骨、肺を裂く。  そして、暗い体内で、レイジは暗視装置を起動し、ついに敵の弱点部位へと到達した。すなわち、心臓だ。  血なまぐさい敵の体内で、レイジは口に流れ込んできた血液を吐いてから、声をかける。 「エマ、お別れだ」 「……はい」 「もっと生きたかっただろう。もっと世界を見たかっただろう」 「……」  その言葉に、レイジは余計な言葉を付け加えそうになる。しかし、彼女にとっての恋人は自分ではない。オリジナルは他にいる。だから、レイジは埋め込まれた感情を全て殺し、行動に及んだ。  ──レイジは、エマの胸へとナイフを立てた。  そして、心臓ごと再生臓器を全て切除し、巨大ネームレスの心臓へと傷を付け、内部に混入させた。そして、止めにシリンジ弾を突き立てる。 「何をしている! レイジィィ!」  巨大ネームレスがついに傷口の中に手を深く突っ込み、レイジとエマの肉体を掴むと、勢いよく引きずり出した。握り潰されそうな圧の中で、レイジは皮肉気に笑みを浮かべて口を開いた。 「お前の中に再生臓器を直接移植した。ネームレス転化抑制因子もな。お前は終わりだ。循環が早く、再生も成長も早いということは、細胞の若返りも早くなる。一時間もしない内にお前は脳が若化し、一日と保たずにただの肉塊へと成り下がる」 「な、んだと?」 「お前が望んだ破滅だ! ゆっくりと味わえ!」  レイジの体は解放され、エマと共にセンターの二階へと落下した。空中で、意識を失ったエマを、レイジは抱きとめる。そして、自らを下にして、背から落ちた。 「くっ! 今から再生臓器を摘出すれば……!」  巨大ネームレス、いや、アイザワは狼狽して両手で胸を強く引き裂き、心臓部位を爪で掻き毟る。だが、それがまずかった。アイザワは心臓から大量に出血し、そして、シリンジ弾の効果が薄れた創傷部位が塞がってしまう。それも、不本意な形でだ。 「違う、わたしはこんなところで、死ぬわけには……げぶっ!」  口から大きく吐き出された赤黒い血液は、商業施設の一階を満たす。アイザワが倒れ込み、残った商業施設をさらに崩壊させる。痙攣のように全身が、びくり、びくり、と動いていたが、次第にそれも止まった。  ナガレたちがレイジの元へと駆け寄るが、何も言うことはない。レイジは、愛していると刷り込まれた女性の体を、強く抱き締め、声をかけ続ける。  「エマ、終わったぞ」 「は、い……」 「よく頑張ったな」 「は……い……」 「空を見ろ。今は明るいが、きっとあそこにはオリオン座がある」 「……」 「今は見えなくても、そこにはあるんだ。エマ。エマ……」 「……」  レイジの腕の中で、エマは呼吸を止め、力無く、目を閉じた。  戦闘から二日が経ち、多くの人間が統括区に押し寄せ、処理を要求する最中、二人は開発室にいた。 「怪我の具合はどう?」 「気にしないでいいよ。それより、これから忙しくなるね。管理者が一掃されて、誰も彼もが自分のことで手一杯になってる。ネームレスの転化も収まってない。これからも驚異は増え続ける」 「うん、そうだね。で、これからの身の振り方なんだけど、工業区が生きてたから食糧配給はなんとかなる。だけど、その内、工業区が値段の釣り上げや出し渋りを始める可能性がある。まずは僕が流通をコントロールする必要があると思うんだ。衣食住が揃ってないと、思考が鈍るからね」 「あたしの腕力とコウタロウの頭が物を言うね。ここでのやり方をあたしも覚えないといけないけど、人間の道理ってもんはあたしが教えないといけない」 「君は、僕と一緒に残ってくれるのかい?」 「当たり前だろ?」 「ガーデンのことは……?」 「コルがいる。最初は苦戦するだろうけど、あいつがいるからね。きっと手助けをしてくれるはずさ」 「……そうだね」 「さあ、手始めにどいつをシメれば工業区をまとめられる? あたしの怪我が治ったらすぐに取り掛かりたいんでね」 「優しく話し合いから入ろうね……リュウコ……」  そう言って、二人はコーヒーもどきの注がれたカップを口元に寄せた。空いた手は、互いに結ばれていた。  医療区にはパーカーを羽織った若者が一人、注射器を片手に固まっていた。そばには女性が一人見守っている。 「オレっちの血が必要……オレっちの血が必要……採らないとネームレスの転化抑制因子が解析できねえ……分かってる、分かってるんだが……」 「あの、ニカイドウくん」 「はいい! びっくりしたああああ! マジちょっとびっくりするから勘弁しろよスバルの姉さん!」 「採血なら私が……。これでも一応そういう訓練も受けているので」 「マジで」 「クリーナーって不測の事態にある程度は対応できるよう訓練プログラムが記憶素子に記録されてて、あとは実地でなんとかおぼえる、みたいなことしてたんですよ」 「マジで! 頼む! オレっちには 自分で針打ち込むとか無理なんだよ!」 「じゃあちょっとチクッとしますよー……えいっ」 「いってえええええ!!」 「あ、言い忘れてましたけど、私、実地はこれが初めてで」 「先に言うべきとこ! それ先に言うべきとこだろおいいい!!」  その後、採血は無事に済み、転化抑制因子の分析、解析が始まった。これから、増え続けるネームレスがどうなるかは、彼らにかかっている。  医療区のビオトープの中には、一輪の花が添えられた石が積み重ねられていた。そこに名前を示すものはない。ただ、簡素な墓がそこにあった。  それを用意した者は、もうホームにはいない。あの騒乱の中にあって、本当の功労者は、もはやその場を去っている。彼はその身分と名前を捨てて、全てを振り切って姿を消した。  本当の名無し、ネームレスとなった彼の行方を探すことは、誰もしなかった。それが、彼の望んだことだったからだ。  ──どこかの、建造物の中で。 「そうか、私の娘は……」 「ああ」 「よく知らせてくれたね。これで、彼を目覚めさせない心算が固まったよ」 「いいのか」 「彼女がいない世界には、彼はもう生きる意味がない。そして、私も」 「……そうか」 「最後の願いだ。いや、もう懇願する。私を殺してくれないか」 「……」  実弾銃が鉛弾を吐き出した。そして、それからずっと、そこには静寂のみが残された。
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