三次元の嫁と、二次元の僕

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「最近、綺麗になったんじゃない?」 僕は恭香(きょうか)にそうした声をかける。 「え、そうかな///」 画面のなかで恭香は微笑み、頬をわずかに赤らめた。 「確か明日は誕生日だろ?」 「それは永久(とわ)くんもでしょ」 そう言って恭香はおちょくるようにニヤつき、それはそうだ、と僕は納得する。なぜなら僕らが出会い、付き合うきっかけとなった最初の会話の話題こそ、同じ誕生日ということだったのだから。 「恭香はええと、23歳になるんだっけ?」 「うん!これでまたちょっとでも永久くんに近づけたね」 「そうだね…」 僕は空返事な声を出す。 明日になったらいくつになるか、僕は自分の年齢を正確には覚えていない。 おそらく数えて百六十七ぐらい、だったと思う。 「二人で誕生日会をやろうよ」 「うん、楽しみだね」 恭香は画面の中で微笑み、僕もそれに応える。 僕は歳をとらない。 老いるのは画面の向こうに佇む恭香だけ。 恭香は画面の中にのみ生きている存在。 一世紀ほど昔ならば彼女のような存在のことを「二次元の嫁」と、そのように呼称していたのだという事はリアルの書物にて知っていたけれど今は違う。 現代では彼女のような存在のことを「三次元」と呼称しているから。 それは従来の2次元に対し、時空間としての1次元を添付したからに他ならない。つまり、画面の中に映る平たい彼女は歳をとる。 そのように作られているからだ。 そして僕は歳をとらない。 そのような世界になったからだ。 量子物理学の発展はこれまでの世界を否定するが如くのパラダイムシフトを生み出し、もっとも影響が強かったのはこれまでにない”次元の観測”であった。 従来の認識では緯度、傾度、高さによる三次元、そこにアインシュタインによる時間の概念が加わり4次元時空間となっていた。 その後量子物理によるミクロ世界への干渉精度が高まるにつれ、新たなる次元が次々に観測されると現在では、観測された次元は6次元にまで増えていた。 ただしそれはイコールで”認められた”事には成らなかった。 簡略的に示せば当時の第二次古典物理会から「ややこしい」とした意表の声が上がり、幾度となく討論の場が設けられたものの事態の収束はつかず、結果的には現代物理側が折れると第二次古典物理会が提唱するように、次元は4つと制定された。 だが現状において次元は既に5つ+1次空間が観測されている。 ではどうしたか? 対処法は実に単純だった。 ”緯度”と”傾度”、つまり平面と奥行きの概念をひとつにまとめてしまおう!という強行手段に打って出たのだ。 当初は批判の声も当然あらゆるところから上がり、それでも人とは慣れるもの。 次第に誰もが平面と奥行きをひとまとめにして「1次元」と呼ぶように。 (新たに見つかった2つの次元に関しては、これもまたひとつにまとめられ「余剰次元」と呼ばれるようになっていた)。 昔の見方で言えば、とても逆説的だとでも言うだろう。 なんたって観測された次元は増えたのに、呼称する全体の次元数は減ったのだから。 このような進展に従い、時間の概念もまた従来の常識とは大きく異なる様相を捉えることに成功すると、その功績はすぐさま実用化され目に見える形で僕らにその恩恵をもたらした。 どういうことか? それを一言で表せばこうなる。 「人間は歳を取らなくなった」
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