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二月の半ば。暖冬だと言うのにここ二、三日寒さが厳しくて、病院の駐車場に一晩置いていた車の窓には薄く雪の結晶のような氷が張っていた。
昨年の晩秋。倒れた父は末期の肺がんで、さらに追い打ちをかけるように間質性肺炎における急性憎悪のため、抗ガン治療はできないと告げられていた。もとより医療従事者である父は、ほぼ正確に自分の病状を把握していたし、肺がんであることを承知して検査も治療も避けていた節があった。
これから死ぬ人間を悪く言うつもりもないが、でかいことを言う割には堪え性が無く痛みに弱い。死と隣り合わせながら闘病をして前を向くよりもギリギリまで粘ってさっさと死んでしまおう――くらいに思っていたのだろう。まあ、実際に抗がん剤での闘病は人それぞれではあるが、辛いと聞く。つらい思いをしてベッドに縛られて生きながらえる。父にとって闘病はそんなイメージだろうか。
倒れた時には目論見通り、とっくに手遅れ。……なんてね、そんな簡単にそして楽には死なせてはくれなかった。
断固拒否した延命治療は結局行われて、一命をとりとめてからが彼にとっての地獄だった。「痛い痛い」と泣き言は言う。母にわがままを言って困らせる。かと思えば若い看護師にまなじりを下げる。
とはいえ、ふた月。
父にもっと生きる気力があれば、もう少し元気になってもう少し長生きできるだろうと若い医師は思っただろうに。そう思って治療したのだろうが。
もう駄目だろうと思うほどに父はボケていた。痛み止めの麻薬が彼の正気をどんどん遠ざける。
眠っている時間が長くなる。
昼食を持って来ても食べない。薬も飲まない。母が声を掛けても無視を決め込んでいるようで、かと言って別に回復を望んでもいないから、私も飲むように強要しない。
若い可愛い看護師が
「お薬飲めるかな?」と猫なで声で聞くと、
「ん~、無理や」と甘えた声で返事をした。それが父の最期の言葉。それからずっと寝ている。起きても言葉は発しない。
父親の尊厳?――そんなもの、端っから無い。無いが、こうなると人というのは本当に何のために生きているのだろうと情けなくなる。こういう姿を見られたくなかったのだろうなあ。
プライドだけは高かったからね。
「情けねえの」
そう何度耳打ちしてやりたかったことか。
痣を作るほどに殴られたりしたわけじゃないが、沸点の低い父にはいつも叱られていた記憶ばかりで、幼い頃は父と母を殺す夢をよく見たものだ。
階段から落とされたことや、書き終えた宿題の図画を破られたことや、星飛雄馬の父親並みに食卓をひっくり返されたことや、友達と遊んでいるのに割り入って怒鳴られてなぜか連れ帰されたこと。嫌な思い出はいくらでもある。思い出はとにかく、すぐに怒鳴る父が恥ずかしかった。だれかれ構わず噛みつく性格も嫌いだった。いつもよその父親が羨ましかった。
それでも一つ二つくらいは遊んでもらった記憶くらいはある。大人になってからはむしろ良い関係だったと思う。
別に許したわけじゃない。はじめっから憎んでもいなかったが尊敬もしていないだけだ。好きでもなければ愛していたこともない。ただ命をつないでくれたことに感謝はしている。
パパのおかげであたしの息子たちも存在しているのだから。
「そろそろ逝くんじゃない?」
そう思って弟と父の病室で一晩過ごした。
明け方お腹が空いたからコンビニで弁当を買った。何も食べなくなった父の横で温めた弁当を食べるために。
いい天気だ。
もう連れて行ってもいいのに。死ぬには良い日じゃない?
その朝から二日後、そっとしてやりゃいいのに、わざわざ痰吸入をされて苦しがったあと、急に心拍数が下がって容体が急変した。
「パパ、頑張って!」
あんなに愚痴をこぼしていたくせに母はお決まりのセリフを吐く。
「お義父さん!お義父さん!」弟の嫁が必死で呼ぶ。
「じっちゃん、じっちゃん、聞いてるか」孫がスマホの向こうから声を掛ける。
あぁあ、さっさと死なせてやりゃいいのに。
死に行くというのはこんなにもしんどいものなんだなと、苦悶の表情で耐えない父をただ父の脚をさすりながら思う。
「無理しないでさっさと逝っていいよ。さよなら。パパ」心の中で話しかける。聴覚は最後まで生きているのだと言う。私は最後まで声を掛けてやらなかった。
どうせ狂った頭では聞こえた声がなんなのか理解もできていないだろうから。理解できていたとしても、「さっさと逝きな」とはこの場ではいえないし。
あんたが気に入っていた可愛い看護師さんがとどめを刺してくれたよ。良かったじゃんね。
こうしてようやく死が父を連れて行った。
さて、これからが大変なんだ。人はね、独りで生まれないし独りで死ねないんだよ。死んだ後も大変なんだよ、わかってる?
晴れていて良かったよ。パパ。
そんな冬の日の思い出。父の死んだ日のこと。
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