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小6の夏休み、父はずっと家にいた。長期休暇を取ったと聞いていた。
父の在宅と入れ替わるように、母が働きに出た。
父は身の回りのほとんどのことを自分でやれる人だった。自衛隊で仕込まれたそうだ。
自衛隊仕込みの「家事」の多くを、私はこの休み中に受け継いだ。洗濯板の使い方、ボタン付け、ズボンやスカートの裾かがり、米の洗い方…。
デニムを手洗いするし、無骨な木綿糸でボタンを縫い付けてシフォンのブラウスを台無しにするし、家族は3人きりなのに一升飯炊くし、だし巻きに卵1パック丸々使うしと、いつもの母なら怒り心頭レベルだ。だが母は、大きなため息をついても文句を言ったりはしなかった。
本当はどやしつけたかったけど我慢したと、ずいぶん時間がたってから聞かされた。長期休暇は実は自宅療養だったことも同時に知った。
当時の私は母の思いなど全く知らずに、父から楽しく教わった。だし巻き卵については、行程や自分の上達ぶりを自由研究のネタにしたほどだ。
ある日の昼下がり、友達とのプール遊びから帰宅すると、父が流しで仁王立ちになっていた。白のTシャツに首にタオルをかけ、カーキ色の短パンを穿いて。
私は水着が入ったバッグをダイニングテーブルに置いてかけよった。
シンクには水が張られ氷と西瓜が浮いている。その横で父はうちにある中で一番大きな包丁を持っていた。
「お父さん何しょうるん?」
「ん? 包丁研ぎょうるんじゃが」
シュッシュッとするどい音をたてて、薄墨色の液体が刃からにじみ出るかのように砥石の下の布にしみていく。そのたびに刃の輝きが増しているように見えた。その変化を、自分の手でも味わってみたいと思った。
「私にもやらして」
父の返事は予想外だった。
「女の子はやっちゃいけん。見たいなら見てもええ、でも女の子はやっちゃいけん」
一瞬何を言われたか受けとめられなかった。
父の口癖は「これからは男女関係なしに何でもできるようにならんといけん」で、炊事洗濯のほか電球の取替や家具の組立も機会があれば私にやらせてるのに。
いけんと言われてすぐにあきらめたか、食い下がってから根負けしたか、なかったことにして水着を洗濯したか、記憶がない。とにかく包丁研ぎを教わることはなかった。
夏休みが終わるのと同じころ、父は職場復帰した。が、中学に入ったあたりから入退院を繰り返すようになり、やがて旅立った。高校入学後の大型連休のことだ。
高校卒業と同時に、私は進学で実家を離れた。そのまま就職して今にいたる。仕事柄定期的な帰省は難しいので、かわりに母とは電話やメールでできるだけ頻繁に連絡をとりあっている。
ほんのさっき電話がかかってきたばかりだ。
「何かしょうるん?」
久々の休日にあわせて届いた宅配の段ボール箱を開けたところだった。
「これからちょっと手がかかることするけ、あとでかけなおすわ」
携帯を切ってタブレットを立ちあげる。
動画サイトを検索する。三徳包丁の研ぎ方を見つけた。
砥石は最初に水に浸さなくてはならないようだ。大きめのバットを使えばいいだろう。それから使い古しのタオルを探す。タオルも濡らしたほうがいいのかな。
あの夏休みに聞いたするどい擦過音が頭の中でよみがえる。父の立ち姿を思い出し、同じ姿勢をイメージする。
「なんでお父さんは『女の子はやっちゃいけん』って言ったんじゃろ」
もう尋ねることができない疑問を思い浮かべながら砥石に刃をあてると、記憶しているのとは違う音がした。
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