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あるところに男がおりました。
男の名は智彦、歳は三十三、職業は会社員、妻と二歳になる息子と、昨年建てたばかりの小さな一軒家で暮らす平凡な男でありました。
さて、智彦の好物は味噌汁でした。子供の頃からほとんど毎日欠かさず飲んでいます。
味噌汁といえば朝食の定番ですが、智彦は朝が弱く、いつも出勤時間のギリギリに起きてコーヒーを一杯飲んだだけで家を出てしまいます。ですから、智彦の家では毎日の夕飯に味噌汁を飲むことにしていました。
妻も心得たもので、味噌こそ智彦の気に入りのメーカーのものをずっと使っていましたが、具は毎日色々と変えますし、だしも顆粒だしなどは使わずに、煮干しや昆布、かつお節を色々に使ってとるようにしていました。
智彦の職場は幸い残業のさほど多くないところでしたから、妻が作ってくれる味噌汁を飲むのを楽しみに、毎日できるだけ七時には家に帰るようにしていました。
ある晩のことです。
智彦はいつものように駅からの家路を急いでいました。その日は昼に出先で慌ただしくざるそばを食べただけでしたので、たいそうお腹が減っていました。
「ああ、早く帰ってうまい味噌汁が飲みたいものだ」
智彦は妻の味噌汁を思い浮かべました。
「俺は幸せだなあ」
智彦はしみじみと思いました。
「確かに子供はうるさいし妻はブスだ。しかし、仕事を終えて自分の家で家族そろって味噌汁を飲むというのは何物にも代えがたいひと時だ。全く、これが幸せというものではないか」
平凡な暮らしに小さな幸せを感じつつ、智彦はうきうきと我が家へ帰りました。
「ただいま」
智彦が玄関で靴を脱いでいると、奥から妻が顔を出しました。
「おかえりなさい」
リビングの方からは子供のぐずる声が聞こえました。妻はいつもよりも疲れた様子でした。
「どうしたの」
智彦が聞くと、妻はげっそりした顔で答えました。
「りょうちゃん、風邪気味でしょう。今日は鼻が詰まってて、朝からずっと機嫌が悪いの。お昼寝もしないし、ぐずってばかりで大変だったのよ」
「そうか、そりゃかわいそうだな」
智彦がリビングに行くと、息子の良太が新幹線のおもちゃを握りしめたまま、ぐずぐずと泣きべそをかいていました。
周りを見回しますと、確かに一日中子供にぐずられては家事もできなかったのでしょう、取り込んだ洗濯物がソファーの上に投げ出されたままで、床にもおもちゃやティッシュが散らばって雑然としていました。
「あ、ごめんね! こんな感じだったから、晩ご飯まだ作ってないのよ」
「いいよ、じゃあ風呂でも入って待ってようかな」
「それより、悪いんだけどスーパーに行ってきてくれない? 今日買いものに行くつもりだったんだけど、全然出かけられなかったの」
「えっ、今から?」
智彦が不満げに言うと、妻は一瞬眉根を寄せました。智彦はしまった、と思いました。
「会社帰りにスーパーに寄ってもらえるようにLINEしようと思ったんだけど、ちょうどりょうちゃんがぐずりだしたからできなかったのよ」
「わかった、わかったよ。何を買ってくればいい?」
「お味噌切らしちゃったの。いつものやつ買ってきて」
「味噌かあ」
味噌がなくては大好物の味噌汁が飲めません。智彦はしぶしぶ財布をポケットに入れると立ち上がりました。
「じゃあ行ってくるよ」
「うん、ありがとう」
智彦が玄関で靴を履いていると、一旦泣き止んでいた良太がまたううう、と声をあげました。
「りょーちゃんどうしたの? あっ、うんち出たのね。じゃあオムツ変えようか」
「いーやーだー!」
智彦は玄関でため息をつきました。全く、子供というのは手がかかるものです。そっと外に出て鍵をかけようとした時、智彦は鍵を持っていないことに気づきました。さっき帰った時に、鍵を通勤バッグのポケットにひょいと入れ、そのまま室内に置いてきてしまったのでした。
靴紐をほどいてまた家に上がるのも面倒です。智彦はドアを開け、妻に玄関まで鍵を持ってきてもらおうと思いました。
「おーい……」
「ぎゃー!イヤー!」
「りょーちゃんオムツ……やだっ、もれてるじゃない! ズボンもお尻もベトベトでしょ! お風呂で洗わなきゃ」
「りょーたん、おふろイヤー!」
「だめだめ、お風呂でお尻洗わなきゃ、だめっ! だめっ!」
「いやだー!」
とても「鍵をとって」などとはいえない様子でしたので、智彦は諦めて鍵を開けたまま買い物に行くことにしました。買い物といっても、スーパーは大人の足なら歩いて五分ほどで行けるところにあります。味噌だけ買ってすぐに帰れるでしょう。
妻と子供の大騒ぎを聞きながら、智彦はまたそっとドアを閉めました。
スーパーに向かって智彦が歩いていますと、不意にいいにおいが漂ってきました。味噌汁のにおいです。
「むむ、これはよそのうちの味噌汁のにおいかな。どこからくるのだろう。それにしてもうまそうなにおいだな」
味噌汁好きの智彦は、鼻をくんくんさせてにおいの元を探しました。
「こっちのほうだな」
智彦の家とスーパーのちょうど中間ぐらいのところに、今まで入ったことのない路地がありました。その奥から、確かに味噌汁のいいにおいが漂ってくるのでした。
「どれどれ、どんなうちの味噌汁だろう、ちょっと見てみたいものだ」
味噌を買いに行くぐらい、ほんの十分ほどあれば行けるでしょう。智彦は少し寄り道をしてみることにしました。においにつられて路地を奥へ奥へと進みますと、急に目の前が開けました。路地の突き当たりが広場になっていたのです。
「ややっ、これは」
智彦は驚きました。
目の前には大きな鍋があり、下のかまどで薪が焚かれ、ぼうぼうと燃えています。大鍋からは湯気がホカホカとあがっています。
鍋の中にはぐらぐら煮えたたない程度の絶妙な温度で味噌汁が温められていました。
粒の荒い智彦好みのこうじ味噌です。具は色々なキノコと、ニラか行者ニンニクのような山菜がぎっしり入っています。
なんともいえないいい香りが智彦の鼻をくすぐります。
「なんとうまそうな味噌汁だ」
思わず智彦が唾をごくりと飲み込むと、いつの間に現れたのか、小さな老人が鍋の脇にいて手に持ったおたまでお椀に味噌汁をすくうと智彦に差し出しました。
「えっ、いただいてもいいんですか」
智彦が聞くと、老人は無言で頷きました。
小さい小さい老人でした。背丈は一七〇センチの智彦の太ももまでしかありません。地味な色の着物をはしょって、脛をにゅっと出しています。そして、菅笠だか三度笠だか知りませんが、キノコのような大きな笠を目深にかぶっていて顔は全く見えないのでした。
普通ならまず怪しむところですが、何と言っても大好物の味噌汁です。智彦は差し出されるままにお椀と箸を受け取ると、味噌汁を一口飲んでみました。
「う、うまい……!」
今までに飲んだことがないような美味しい味噌汁でした。具も、食べ応えのある肉厚のキノコや香りのいい山菜が一体となり、えも言われぬ美味しさでした。
うまいうまい、と智彦は夢中になって味噌汁を食べました。椀が空になると老人がおかわりを入れてくれるので、あっという間に三杯も平らげました。
「ああ、美味しかった」
智彦は満腹して息をつくと、ハッと買い物のことを思い出しました。
「おじいさん、ごちそうさまでした。私は用がありますので、これで失礼します」
智彦がそう言ってそそくさと立ち去ろうとした時、今度はどこからともなく音楽が聞こえてきました。
流れてきたのは祭囃子のような軽快な音楽でした。トントンと太鼓が打ち鳴らされ、シャンシャンと鈴の音もします。そこにピーヒョロピーヒョロと軽やかな笛の音が加わりました。
「おや、なんだこの音楽は」
智彦が訝しんでいると、大鍋の陰から次々と小さい人が出てきました。
みんな先ほどの老人と同じように背が小さく、キノコのような笠をかぶっていました。着物の裾をうんとからげて、白い褌を締めた尻が丸出しになっています。
「なんだなんだ」
智彦が目を白黒させて驚いているうちに、キノコ笠の小人たちは列になって歌いながら踊り出しました。
「〽︎美味しいお味噌を アーア、チョイチョイ
たんと溶いたら ハーア、ヨイヨイ
美味しい味噌汁 召ーし上がーれ
ハーア、チョイナチョイナ
美味しいお味噌が アーア、チョイチョイ
たんとあるのは ハーア、ヨイヨイ
お味噌のお宿よ いらーっしゃーい
ハーア、チョイナチョイナ」
軽快な音楽に乗って、腰をかがめて尻を振ったり左右のかかとを交互に地面にトンと打ち付けたり、手を頭の上でひらひらとさせたりする滑稽な踊りです。
あまりに調子が良くて楽しい踊りなので、智彦もだんだん面白くなってきました。
「愉快愉快、こりゃおもしろい」
智彦が大喜びで手を打っていると、小人たちは音楽に合わせながら智彦の前に集まって来ました。そして四つん這いになった小人の列の上に別の小人たちが乗り、またその上に小人たちが乗り、組体操のピラミッドのようにどんどんと高く積み重なっていきました。
「すごい、すごいぞ」
どんどん重なって、今や小人のピラミッドは頂上が見えないほど高くなりました。智彦の視界は小人たちの折り重なった笠でいっぱいでした。音楽に合わせて一列ごと、右に左にと交互に笠が揺れます。見ているうちにだんだん智彦は気が遠くなってきました。
そして、音楽が最高潮に盛り上がり、鈴や太鼓が一気に打ち鳴らされ、笛の甲高い音がピーッと鳴り切ると同時に、一気に小人のピラミッドは崩れ落ちて来ました。
「ひゃあ」
智彦の上に次々と小人たちが落ちて来て視界が真っ暗になり、それっきり訳が分からなくなりました。
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