お味噌のお宿

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 ふと気づくと、智彦はりっぱな座敷で布団に寝かされていました。いつの間にか浴衣を着ています。  昔のお城やお寺のような広い座敷でした。床の間には鳥の絵の掛け軸が掛かり、絞りの椿が一輪飾られており、いかにも由緒ありげな屋敷です。 「お目覚めですか」  声がして智彦が振り向くと、襖がするすると開いて若い女が入ってきました。着物をまとった美しい女です。 「うちの宿のものが大変失礼をいたしました。お詫びに今夜はご馳走を差し上げます。ゆっくりなさってくださいね」  女はそう言うと、近寄ってきて冷たく絞った手ぬぐいで智彦の汗を拭いてくれました。 「美味しいお味噌をたっぷり使ったお料理が、このお宿の名物なのですよ」  智彦はもちろん妻子のことを考えましたが、女の優しげな様子と美味しいお味噌という言葉にひかれ、つい頷いてしまいました。  女はたいそう喜んで、さっそく小人を数人呼び寄せると、食事の支度をするように申し付けました。それまでの間、智彦は小人たちに案内されるままに広い風呂でさっぱりし、マッサージを受けながら待ちました。  やがて支度ができて、広間に通された智彦は思わず感嘆のため息をもらしました。  目の前には様々な趣向を凝らした味噌の料理が所狭しと並んでいました。そして、色々な珍味や向付けの小鉢が載ったお膳の前に智彦が座ると、となりにぴったりと女がついて酒を注いだり料理を取り分けたりと、あれこれ給仕してくれるのでした。  あっさりとした白味噌のお汁があったかと思えば、赤い味噌を塗って焼いた餅に茄子の田楽や青柳とわけぎのぬたもあります。味噌を使った焼き菓子も籠に盛られています。料理はどれもこれも美味しくて、智彦は夢中で食べました。 「うまいうまい、こんなに美味しい味噌は初めてだ」 「あら、嬉しいこと」  女はぐつぐつ煮える猪肉の鍋に味噌を溶き足しながら嬉しそうに笑いました。  味噌の入った器を置くためにかがんだ女の腰のあたりがむっちりとしているのを見て、智彦は思わずごくりと喉を鳴らしました。  ちらりと後ろを振り返ると、障子の隙間から、次の間に布団が延べられているのが見えました。いかにも艶めかしい雰囲気で、薄赤い色の行灯がぼうっと灯っています。 「こ、これは……」 「お味噌のお宿へようこそ。幾晩でもお泊りください。ごゆっくりなさってくださいね」  女は智彦にしなだれかかりました。智彦は鼻息を荒くして味噌鍋を掻き込みました。  こうして、女とすっかりいい仲になった智彦はそのままずるずると宿に逗留していました。  最初のうちは妻子のことが気にかかり、今日こそは帰ろう帰ろうと思っていましたが、あまりにも女が美しく優しく、また毎日美味しい味噌汁などを出してくれるのでなかなか思い切ることができませんでした。  そうしているうちにふた月ほどが経ちました。  月日を過ごすうちに味噌の料理にも慣れ、女ともますます離れがたくなってはいましたが、さすがにこのままではいけません。 「俺は一度家に帰ろうと思う」  智彦がそう切り出すと、女は悲しそうな顔をしました。 「どうか帰らないでくださいまし。いつまでもここで私と一緒に暮らしましょう」 「そうしたいのは山々だが、俺は妻も子もある身だ。今ではお前のことを愛しく思っているが、妻と別れてお前と一緒になるにしても、一度は帰ってきちんと話をつけなければなるまいよ」  女はそれを聞くと泣き出しました。そして、小人に命じて竹の皮の包みを持って来させました。 「これはこのお宿のお味噌です。お別れしても時々はこのお味噌を食べて私のことを思い出してください」 「そんなに大げさに泣くものではない。これから家に帰って、また明日にでもすぐに戻ってくるというのに」 「いいえ、一度戻ってしまえばそうそうすぐにはこちらに来ることもできないでしょう」  女があまり悲しそうに泣くので、智彦は味噌の包みを受け取ってなだめました。 「わかったわかった、ではこの包みを持っていくから安心しなさい。きっとすぐに戻ってくるよ」  智彦は後ろ髪を引かれる思いでしたが、小人に案内させて自宅に向けて出発しました。  どれほど歩いたでしょうか。歩くうちにあたりはすっかり暗くなりました。 「おい、家はまだか」  智彦は案内役の小人に声をかけましたが、今の今まで目の前を歩いていたはずの小人の姿が急に見えなくなりました。 「おや、どこへ行ったのだ。ここはどこだ」  智彦が驚いてあたりを見回すと、そこはいつぞやの路地の奥の広場でした。いつの間にか智彦は家を出てきたときのままのスーツ姿に戻っています。 「どうしたことだろう」  うろたえながら何気なくポケットに手をやると、これもあの日のまま、財布とスマホが入っていました。 「おやっ」  スマホを見た智彦は驚きました。日付の表示が、味噌を買いに出た日のままだったのです。時刻は二十一時半過ぎでした。 「これはどうしたことだ。俺はあのお味噌のお宿で二ヶ月も暮らしたというのに、まるで二時間ほどしか経っていないようじゃないか」  智彦は狐につままれたような心持ちで首を傾げました。あのお味噌のお宿は、あの女との日々は全部夢だったのでしょうか。しかし、智彦のもう片方の手には、確かに女にもらった味噌の包みが握られているのでした。 「一体どういうことなのだろう。俺はここで気を失っていたというのだろうか」  訳がわかりませんでしたが、とにかく智彦は味噌の包みを抱えて家に向かって歩き出しました。    味噌を買いに出ただけなのに二時間も帰ってこなかったのでは、きっと妻も心配しているでしょう。 「ただいま」  智彦にとっては久しぶりの我が家です。早く妻と子供の顔が見たいと智彦は急いでドアを開けました。智彦が出て行ったときのまま、鍵はかかっていませんでした。  家の中は電気はついていますが、しんとしています。 「もう寝てるのか? 遅くなって悪かった。でもな……あっ」  智彦が言いながらリビングに入ると、目の前に妻が倒れていました。  妻は手を後ろで縛られ、部屋着のワンピースを捲り上げられて白い腹をむき出しにしていました。カエルのように足をぱっくり開き、パンツが足首までずり下ろされていました。股の間からは血が流れ、床に敷いたジョイントマットに染みて赤黒く固まりかけていました。妻の顔は殴られたように腫れ上がり、鼻血がこびりついていました。そして首には紐で締められたような跡がくっきりとついていました。 「おい! どうしたんだ! 何があった!」  智彦は叫びながら妻の体を揺り動かしました。しかし妻は白目をむいてとうに死んでいるようでした。智彦は声にならない叫びをあげながら尻餅をつきました。そしてハッとしました。 「良太……良太は!」  子供の姿は見えません。智彦は腰が抜けてしまい、四つん這いでよろよろと風呂場へ向かいました。 「ああっ」  風呂をのぞいた智彦はまた叫び声をあげました。浴槽には十五センチほどの水が張られ、そこに良太がTシャツを着たまま、うつ伏せで浸かっていました。  智彦はおそるおそる良太の体を抱えあげましたが、こちらもすでにこと切れていました。 「ああ、なんということだ」  良太をリビングに運んだ智彦は、妻と子供の遺体を前にして泣き崩れました。 「俺が、鍵をかけずに出たせいなのか」  智彦は少しの間だけだからと、鍵をかけずに家を出ました。その隙に何者かが家に入り込み、妻を殴って縛り上げ、子供を風呂に沈めて殺し、妻を陵辱して絞め殺したのでしょう。 「ああ、俺がすぐに帰っていれば。あのとき味噌の香りにつられて寄り道などしなければよかった。あんな味噌汁を飲まなければよかったのだ……」  智彦は味噌の包みを握りしめたまま、いつまでもおいおいと泣いていました。
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