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一 奇縁 – fate –
九月と言えど、この黒松をもいなす潮吹き荒れる玄洋の土地は目に染みるような熱風を巻き起こしていた。セミはまだまだ現役であり、トンボの遊覧飛行は我々、人間様を嘲るように目の端を横切る。
さて、もじゃもじゃの黒髪から汗が滴り落ちても、おれは涼しい顔を保ち、声を張り上げて得意の銅貨移動を繰り返していた。さりとて暑い。
いつまで経っても陽が高く、地熱がむわむわと靴底の中を蒸し上げる。ふと、横濱南京街の蒸し饅頭を思い出した。あのじゅうじゅうと肉が詰まった蒸し饅頭はおそらくこんな気持ちなのではなかろうか。足元が蒸されればおのずとその熱は体内に充満する。
背広の上着を脱ぐ。しかし、袖をまくるわけにはいかない。このシャツの袖だって大事な商売道具だ。これがあるのとないのとでは成功度が変わる。
銅貨をつまみあげて優雅に帽子の中へ入れる。ぼけっと帽子の中を見やる浅黒の男たちに、おれは朗らかに笑う。板を打ち付けた台の上で帽子をひっくり返し、銅貨がカツンと音を鳴らした。帽子の中は見えない。客は帽子をじっと見つめている。
おれは帽子をゆっくりと持ち上げた。すると、銅貨は跡形もなく消えている。すると、漣が打つようにどよめきが湧いた。「にいちゃん、すげぇな」「もう一回やって!」などなど黄色い歓声が雨あられと降り注ぐ。気難しそうな親父でさえ目をまあるくかっ開いて、このタネを暴こうと頭をひねっている。不思議そうな顔つきが愉快でたまらず、なんとも良い心地だ。
「もっとすごいものをお見せしよう。誰か、お札を持ってる方はいますかな?」
「これならどうだ」
喝采を浴びて調子づいたおれの目の前で、黒光りする制帽と木綿のシャツの出で立ちをした童顔な少年が言った。泣く子も黙る冷酷無情な声だった。
その声と共に差し向けられたのは、一枚の白い絵葉書である。
なんと。この少年もおれと同じ絵葉書を持っていたとは。フーディーニ大先生を知るとは恐れ入る。堅物そうな坊ちゃんだが、意外と粋狂な。
おれは面食らいつつ絵葉書を受け取った。
「さぁ、刮目せよ!」
なんとも厳かに言い放ち、おれは木台の上に大きさが異なる三枚の紙を広げた。その中に絵葉書を置く。紙を折りたたんでいくこと数回。何重にも折りたたんでしまい、絵葉書は見えなくなった。そうして上から手を重ね、指をピーンと伸ばした状態を保ちながらひたすらなでる。
「さて、この中におわします奇術師の紳士。私のまじないで消えてしまいます。うにゃうにゃうにゃ、あぁ、偉大なる全知全能の神々よ、我が身に力を与えたまえ。さもなくばこの絵葉書をきれいさっぱり消滅させるのだぁっ、いざ!」
もちろん、当てずっぽうのまじないだ。極めつけに「えぇぇい!」と奇声をあげてみる。千里に轟かすこの声と強い喉も商売道具だ。
田んぼで親父の仕事の手伝いをしながら歌を歌っていたのが功を奏した。つまらん仕事の中でささやかに楽しもうと健気に行なっていた日課だが、そう言えばこの明朗快活な声だけは浅草のマドンナや芸人らに一目置かれていた。思い出したくもないが、あのゴボウを模した狸親父、矢菱でさえ誉めそやしてくれたものだ。
そんな思いを馳せながら、おれは紙を開いた。
偉大なる神もとい奇術師大先生の姿はどこにもない。きれいさっぱり。
すると、驚きが大波となってたちまち黒松を震わせた。それは膨大な渦となり、その中心にいるおれと学生だけが静かだ。しかし双方には温度差があった。おれは得意満面にしていたし、対して彼は生真面目かつ生真面目にタネを見破ろうとするかのごとく鋭い眼力で封筒を睨んでいる。その鬼気迫る双眸から逃れるべく、おれは封筒を颯爽と木台からかすめ取った。
「これが異端なる魔法。今世紀最大の異端なる魔法である! 私には、神の力が備わっているのです!」
陽光にさらすように封筒を高く掲げ、声高に言えばやんやの喝采。いい舞台だ。最高に上機嫌である。客も楽しい、おれも楽しい。ならば良し。
その勢いのまま、ささっと帽子を観客に突き出した。
「ささっ」
すると、子どもたちは途端に蜘蛛の子を散らして逃げていった。これに大人たちが苦笑を浮かべて、仕方なさそうに銅貨を投げつけてくる。
おぉ、旦那、見る目がある。そこの旦那も気前がいいな。いや、さすが宿場町。なかなかに景気がいい。おれと同年くらいの若旦那も軽くお札を投げ入れてくれる。
だが、帽子からあふれるほどの銭は儲からなかった。まぁ、それでも良い。もらいすぎは禁物なのだ。いまは。
「ありがとうございます! ありがとうございます! 玄洋の魔術師、一色天介です。以後、お見知り置きを。お宿の宴会にお呼びくだされば、いつでも駆けつける所存であります」
まぁ、お代にもよるのだが。なんて下衆い考えをしていると、大人たちもその場を離れていった。順調とは言い難い。うーん。まだまだ作戦を練る必要があるな。あと少しで落ちてくれそうなのに。
淡い期待は黒海に沈みゆく礫のようにぶくぶくと沈んでいった。
そんな時。
「おい」
冷酷無情な声がした。
「おや」
おれは紳士らしく素っ頓狂に驚いた。そして、喉を整えて帽子を差し向ける。
「あぁ、そうだ。君からはまだ一銭ももらっていなかったね。あの場ではお札を出すのが都会的な振る舞いというものだよ」
「ペテン師にくれてやる金などない。恥を知れ」
それは凛と端正な面持ちで、氷点下にも及ぶだろう冷ややかさ。笑顔でかたどったおれの横っ面に叩きつけるように彼は言った。
それはまごうことなき、まっすぐな事実である。事実を追及されては、ペテンに生きると誓い、愛は尽き果て、慈悲のへったくれもないおれでさえ身のすくむ思いに駆られた。背筋にひやりと一筋の汗がつたう。
***
絵葉書を返してやっても、木台を片付けても、彼はただただそこに突っ立っていた。いかにもその姿は、かの源義経に付き従う武蔵坊弁慶のように思えた。いや、彼の容姿は麗しい義経か。おれの想像の中では、彼と義経どっこいどっこいである。
ともかく。
こうもガンガンに見張られちゃ、忍びなくなる。まっすぐな曇りない眼差しは闇を切り裂く威力があり、おれは悪人にすらなれやしないのだと悟った。
ただでさえお天道さまの膝元。カンカンとガンガンが交互におれを苦しめるので、この混濁した空気を変えるべく勇気を持って愛想を振りまいた。
「えーっと、君。腹減ったろ? うどん、食いに行こうか」
脈絡のない誘いである。彼はただひたすらにじっと、おれを観察していた。
〝饂飩屋やまと〟の、素うどんは太った麺にからむ甘いつゆが素朴な奥行きのある味わいで、またここのかしわ飯がべらぼうに美味いので、いくら嫌いな地元とは言っても特筆すべき良点だと言える。
店の横で商売をしているので、店主から睨まれないように毎日朝、昼、晩はこの〝やまと〟でうどんを食している。これが意外と食べ飽きない。まぁ、腹が膨れればそれでいい。
暖簾をくぐると、店主の「らっしゃい!」という威勢のいい声が飛んだ。しかし、すかさず店主の目は輝きを失った。そんな目に負けず、おれは背後に従えた坊ちゃんを中に入れる。
「うどん二つ、あとかしわ飯も。君は?」
「腹は空いとらん」
「じゃあ、かしわはひとつね」
店主に注文すると、入口から手前の席に座る。坊ちゃんも姿勢よく座り、おれたちはいよいよまっすぐに向かい合った。
彼は制帽を取り、脇に置いた。すると、艶やかにまっすぐな黒髪が少し蒸れており、すぐさま彼は前髪を整えた。その身なり顔立ちから、なんだか昔ながらの武家みたいな、そんな背景がうかがえる。
品定めしていると、冷酷無情な彼が話しかけた。
「あんた、生まれはここなのか」
おれは頬杖をついて調子よく答える。
「あぁ。生まれも育ちも筑前国。生の松原が故郷。しかしまぁ、しがない農家の長男坊でね。いまは奇術師として一世風靡を企んでるのさ。それもまた夢でしかないがね」
「ふうん……ともかく、俺が言いたいのは一つだけ。さっさと廃業しろ。凡人は凡人らしく、祖にならって健全な生活をすべきだ」
「はっ、健全ねぇ……親父の背中を見て同じ道を歩むのなんざ、よっぽどつまらん人生だと思うね」
そうして、おれは高らかに言った。
「この世は目覚しい文明社会。日に流行りがコロコロ変わる時代に、昔かたぎのお家を守って平凡な暮らしとは情けない。男児たるもの、常に向上心を持ち新たな道を切り開くべし。そんな具合に神からの思召しがあってだな」
「神はともかく、そうしたところで、あんたは楽にはならん」
大口を叩けばすかさず毒を投げつけてくる。彼のまっすぐな目に、おれはあからさまに難色を示した。口を閉ざすと、彼はなおも責め立てた。
「人の道は生まれた瞬間に決まるものだ。それを勝手にねじ曲げるのは、どこぞの馬鹿がやることで、そういうやつらはとにかく貧乏だ。夢に食われたくなければ、さっさと諦めろ。あんたには才能がない」
「……まぁ、学生さんにはわからんよ」
人生の先輩らしく上から物を言ってみる。この世の酸いも甘いもひととおりは経験したので、味のある口調を象ることは造作もない。
「だってよ、つまり人間は卑劣だ。無知はもっと愚かだね。これを逆手に美味しい商売をしていけば、楽しいじゃないの。贅沢もできるかもしれんね。そうは思わんのかい、君は」
「思わん。嘘にまみれて生きたいとは思わん。あんたが歩むべき道筋はそこじゃない。素直に〝奇術だ〟と言えばまだ救いがあったはずだ。それをわざわざ偽る必要がどこにある?」
坊ちゃんの詰問は妖刀村正も裸足で逃げ出すほどの切れ味だった。おれが眉間の溝を深めるのも無理はない。
「君は、あれのタネがわかったのかい?」
負け惜しみが過ぎるが、おれはなおも食い下がる。
すると、彼は涼やかな目で胸ポケットから、あの絵葉書を取り出した。おれは背広の内側に仕舞っていた封筒を彼に差し出した。
大小異なる三枚の封筒がおれたちの間に広がる。彼は、その中心に絵葉書を置いた。外側から紙を折りたたんでいくこと数回。何重にも折りたたんでしまい、絵葉書は見えなくなった。そうして上から手を重ね、指をピーンと伸ばした状態を保ちながらひたすらなでる。
そして、閉じた紙をゆっくり開いていくと……絵葉書はなくなっている。
ここまで、おれの技そのままだ。すかさず紙の封筒をひったくると、おれは開いた紙を裏返した。なんてことはない。この仕掛け、つまりは裏表どちらにも観音開きになる封筒である。表側に絵葉書を仕込んで折りたたんでいき、開くときにさりげなく裏返せばいいだけのこと。
一度見ただけで技を盗まれるとは思わず、おれは当て付けのように絵葉書を彼に向けて飛ばした。しかし、冷静な態度を心がけた。だいたい、こんなよちよち歩きの学生風情がひとりで吠えたところでたかが知れているではないか。そう言い聞かせる。
「……そういや、坊ちゃん。その絵葉書、よく持ってたな。男児なら健全に女の絵葉書でもこっそり本に忍ばせて夜な夜な妄りに舐めてしかるべきだろうに」
「失礼極まりない発言には目を瞑るとして、俺のことを気安く〝坊ちゃん〟って呼ぶな」
「じゃあ、なんて呼べば?」
「俺は後藤祥馬。〝坊ちゃん〟以外ならなんでもいい」
「ふうん。んじゃあ、後藤くんよ。あの絵葉書はどこで手に入れたんだい?」
すると、後藤少年は目を細めた。慇懃無礼な態度が癇に障るが、ここで声を荒ららげると、やまとの親父までもが加わってきそうなので反論はよしておこう。おい、そこのうどん親父。聞き耳立てているのはわかっているんだぞ。
「実は先日、唐人町で怪しげな露天商から買った。赤ら顔の天狗にも酔っぱらい狸のようにも思えたが、怪人には違いない。あんまり怪しいから脅してやったら、これをピラッと一枚。泣きつかれては、さすがに商売道具を取り上げられんかったが」
後藤の言い草から、ただならぬ正義感の威圧が目に浮かんだ。何せ、凛々しく麗しい義経からの言及だ。おおかたその怪人もいまのおれと等しく冷酷無情な物言いをされ、実直な眼で正義の鉄槌を下されたのだろう。そんじょそこらの悪徳業者では太刀打ちできん。見知らぬその露天商に深く激しく同情する。
明日は我が身とはよく言うが、もしかするとこの坊ちゃんは、邪智暴虐な有象無象を滅さんとする正義の権化または神の化身なのかもしれない。いや、こんな冷酷無情な天使がいてなるものか。しっかりしろ、一色天介。おまえの目の前にいるそいつは、おれの世界を土足で踏み荒らす下手人だ。
「君のそれはなんなんだ? 正義の押し売りじゃないか? この要らん世話焼きの正義漢め」
「そんな大層なものは持ち合わせていない。俺はただ、守りたいだけだ。特異な能力を」
その彼の声は一層、熱がこもっていた。
特異な能力とは、なんぞや。訝しく見ていると、彼はようやく少年らしく生意気に眉根を寄せて言う。
「魔法なんて代物じゃないが、俺は特異な能力を持っている。もちろん、本物の」
「へぇぇ。それはまた。一体どんな力をお持ちで?」
「人間の死期。あるいはその人間の未来だ」
彼は恥ずかしげもなく、至って冷静にかつ簡潔に答弁した。その言葉があまりにも涼やかで、当然のごとく爽やかに耳元を流れていくので、脳内でそれと変換するのに時間を要してしまう。
やがて、おれは喉をひっくり返すように、ただただ短絡的に阿呆みたいな叫びをあげた。
「しきぃ?」
なんと、この正義漢は天使などではなく死神らしい。
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