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序章 軌跡 – locus –
道は己のためにあるのだと思う。だが、その道は舗装されたものとほど遠く、むしろゴツゴツと足場の悪いものでしかなく、一度踏み外せばヘドロのごときドロドロの底なし沼へ足を取られて身動きもままならない。ぬかるみから這い出したとて、どうせ草むらに隠れてしまった道を探さなくちゃならず、いつしか道なき道に迷いこむのだろう。まったく、これではいつまでたっても正しい人道に乗ることができないじゃないか。畜生め。
いや、もしくは。己がたどった軌跡を振り返ることができるだけ、まだマシなのだろうか。あーあ、なんて嫌な妄想をしているんだろう。おれらしくもない。
というのも、おそらくだがおれはいま、恐ろしく腕っ節の強い大男に殴られた。赤い痛みが脳の髄でほとばしるような感覚を覚えた最中である。
一体全体、どうしてこうなるに至ったのかは皆目わからんが、ほんのりと薄い煙のような細道のごとき軌跡を辿れば解決の糸口は見つかるのやもしれない。
***
玄界灘の波音が近く、松林が無限に続くここは生の松原と呼ばれる。
一昨年、夏の頃に元号が変わり、大正を迎えても田舎は田舎のままであり、交通の便がわずかに良くなった程度だった。どのみち、ここから帝都までは距離がある。かの平安貴族、菅原道真公も京の都から左遷されたのがこの福岡という土地である。要するにここは掃き溜めなのだ。流刑地である。そんな土地にももちろん先住民がいる。古人が流刑された場所だろうとも、ここを故郷として愛し生きる人がいる。無論、おれも幼少まではそうだった。小遣いを貯めて、こっそりと町まで出かけるまでは。
絢爛豪華とはまさにこのことだろう。町の華やかさに恐れおののき、もしくは歓喜に震えてワクワクと情緒が乱れた。いやはや都会というのは異世界そのものだ。魅惑のワンダーランドだ。金さえあればなんでもかんでも手に入り、贅の限りを尽くした高層建造物を見るだけで時間を忘れてしまえる。そんな田舎小僧が県内随一の都、博多へ来てから手に入れたのは西洋の奇術師が描かれた絵葉書だった。なけなしの小銭でたったの一枚しか買えなかった。行きだけで金を使ってしまい、身銭を切るほどに欲しくなったその絵葉書は、いまでも懐に忍ばせているほど大事なものだ。
さて、この絵葉書は写真機で撮影されたものらしい。どういう製造法なのかは知らんが、かくもこの世の印刷技術は優れたものだなと感心する。なにしろ髪の一本やら陰影の細部まで綺麗に美しく紙に印字されてあるのだから。
つるりとした顎の西洋人の男が、ガチガチの鎖に巻かれている奇妙な写真。葉書を売っていた商人に訊ねると、どうやら彼は「脱出の奇術」をしているところらしい。名はまだそう高くはないそうだが、いずれは勇名を馳せるだろうと言っていた。
奇術。その言葉の響きがなんだか楽しく、耳に心地よく残った。そうして、その商人は売り物の絵葉書を一枚、面妖な手つきで幾度となくひっくり返した。美しい女優の絵葉書だ。まけてくれるのかと思いきや「こうすると、絵が変わるのさ」と怪しげに笑い、間抜けな小僧の目の前に絵葉書を見せた。そこに女優の姿はなく、富士の山に変貌していた。
まるで夢見心地のまま、おれはなにもない田舎へ辿りついた。歩くのが面倒になり、途中で荷車を引く夜逃げ一家と一緒に村へ帰った。
このなんとも言えないしみったれた土地を嫌いになるのも遠からぬ話である。なにしろ、海は潮と磯のにおいがきつい。脂ぎった威勢ばかりの男たちでひしめくし、女は女で亭主に口やかましく物を言うものだから、慎ましやかなものはなく、元気がいいのは取り柄ではあるが、そこに品があるかと言われればそうではない。どうにも都会の品行方正なお嬢様に憧れを抱き、また西洋のおしとやかな女性が美しいものだと子どもの時分に感性が完成されてしまったことから、とにかくこの土地が嫌いになった。
実家の貯金を持ち逃げし、上京したのは元号が変わる前のこと。三年も前になるだろう。あれから小遣いを稼いでは博多へ通っていたし、中学校も卒業したこの頃には奇術の真似事をしながらも、どちらかと言えば演芸に熱を入れ上げていた。雑誌だけで知る帝都の劇場で上演される舞台。それはいつか見た絢爛豪華なあの異世界を思わせた。あの時の感動をもう一度味わいたくなったおれは、親の金を盗んで帝都へ向かった。無計画に。
家族を裏切り、故郷を捨てて新世界へ旅立つことこそ己の道だと信じて疑わなかった。弟たちや村の子どもにはウケた手妻さえあれば、どこかの劇団か一座で雇ってもらえるだろうと。「この才能が欲しい」と、富豪どもがこぞって手招くだろうと。
上京してすぐだった。浅草の道端で勝手に、小さな手妻を黙々とやってみたら声がかかった。針金のような長い体躯で、ゴボウみたいな色をしているが品のいい洋服を身につけた男である。なんとも鼻持ちならない都会紳士のごとき振る舞いで、彼は柔和に甘やかな声で言った。
「君の腕前なら、異国の地でも通じる」と。
千載一遇とはまさにこのことである。それからは、この矢菱という男の一座に導かれ、ある程度の芸を仕込まれた。また、都会の歩き方もこの男から教わった。柔らかな女を知ってしまい、それになにより紳士が行き交う往来はまさに西洋の香りがあり、ここで一旗あげようと奇術の道へ突き進んだ――
未曾有の大転落は今年の春先である。
道を誤ったとするならば、もしかすると博多で出会ったあのインチキ露天商がそもそもの発端だったように思う。ここまできたら責任転嫁も上等である。あれが、おれの人生を棒に振ったのだ。甘い誘惑に拐かされたおれは、コツコツと勤勉に働く術を奪われた。しかし、そういう人生にはなんの魅力も感じないだろうし、あの分岐点を越えてもそのあとどこかで魔が差すに決まっている。おれはそういう男だ。他人を恨んでは落ち込み、それを繰り返すこと幾許。あぁ、まったくこのお人好しな性格が恨めしい。
「騙される方が悪いのさ」という、矢菱の言葉がいまだに頭に焼き付いて離れない。あのゴボウ男め。刺し殺してやってもどうせ困る人間などいないし、むしろあの男に煮え湯を飲まされたひとたちから賞賛されるはずだろう。いまこそこの手で天誅を下すべきだと何度か思い立ったが、そのたびに親の金を持ち逃げしたことを思い出し、裏切った家族の架空な涙目を想像すると、そこまで人間落ちぶれたくはなく、結局は我が身可愛さで泣く泣くトンボ帰りした。
だが、しかし田舎はいつだって潮くさく、なにも変わりやしなかった。あの都を味わった者なら、誰だってそう思うだろう。浦島太郎だって「あぁ、しまったな」と頭を抱え、精神を蝕むほど老けこんだくらい深刻な問題なのだ。やはり、おれはこの嫌いな故郷に身を埋めたくない所存である。
潮風のせいか、髪がやけにごわごわと硬いし、曲がりくねってしまっている。まるで己の道を示すかのように。それを後ろで一本に縛っておき、帽子をかぶる。一張羅の背広で毎日毎日、松林の近くにある饂飩屋の脇に椅子を置いて座っておく。お手玉を転がしながら。最大で七つは転がせるのだが、これだけで意外と子どもにウケる。学校帰りの子どもが集まれば、今度は休憩中の大人も集まってくる。
ギャラリィが整い、おれはようやく立ち上がり、背広と揃いの埃っぽい帽子を取った。
「ヤァ、みなさん。ご機嫌麗しゅう。これよりお目にしますは、今世紀最大の異次元の魔法。玄洋の魔術師、一色天介がみなさんを魔法の世界へお連れいたします」
帝都仕込みの一礼は、観客のどよめきに波紋を広げる。脳天に感じるその波に、いつだって酔いしれるからこの商売はやめられない。
良心の呵責は持ち合わせない。断じて。
そう心に決めたはずなのに、やはりおれはお人好しが過ぎるのだ。この大馬鹿野郎。
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