ハイビスカス

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 来客仕様で特別に綺麗に作られたガラス張りの部屋を出て、エレベーターに乗る。スマートフォンで弊社が開発したニュースアプリを開くと、オフィス近所の公園にタヌキが出没したというニュースが表示されている。その下の欄には、これまたオフィス近所のニュースがあった。こちらは銀行強盗のニュースらしい。スマートフォンの現在の居場所を監視していると思われるニュース選びに、自分がさっきまで他人の過去を勝手にのぞき見していたことを忘れて、少し気味の悪さを感じた。  エレベーターを降りてパーテーションで区切られた自席に戻ると、机の上に三通の封筒が置かれていた。少し角が折れ曲がった茶色の定形外郵便には、赤字で折曲厳禁と書かれている。白くて小さい封筒はパンパンになっていて、三つ折りになった履歴書が入っていることを伺わせた。あと一つは……花柄だ。ハワイのお土産にしか見えない真っ赤なハイビスカス柄の封筒を手に取る。裏返すと、これまた真っ赤なハートマークのシールで閉じられていた。この手の非常識な履歴書自体はそう珍しいものではない。どんなに期待できなさそうであっても、届いた書類は一通り確認するのが仕事だ。仕方なくハイビスカス柄の封筒を一番最初に開封することにした。  佐伯みなみ、二十九歳、無職。大阪府出身。私とほとんど同じ年齢で、性別も同じ女性。出身地まで同じである。なのに、無職。二十歳で大学を中退した後、アルバイトを転々としているらしい。何を考えて人生を送ってきたらこうなるんだろう。失礼かもしれないけれど、率直に言って不思議だ。写真欄には、不自然なくらい真っ黒なポニーテールと、少しえらのはった輪郭が特徴的な証明写真が貼られている。他のチームメンバーならば二枚目以降は見ないでシュレッダーに投げ入れるであろうこの手書きの履歴書に、そっと手をかざす。瞬時に、意識が切り替わった。  眩しく光るオレンジ色の夕日に向かって、手を引かれながら歩いている。少しだけへこんでいるマンホールの蓋で転ばないように気を付けながら、横断歩道へと足をのばすと、反対側から、腰をほぼ90度に曲げたおばあさんが手押し車を押して歩いてくるのが目視できた。すれ違い様に横を見る。幾重にもしわになった小さな顔が、じっと地面を見つめていた。このおばあさんと会うことはもう二度とないだろう。そう思うとなぜか目を逸らすことができなかった。首をゆっくりと後ろに回して、おばあさんの背中を目で追う。その瞬間、右手を強くひっぱられた。  すぐに前を向き、顔を上げる。斜め四十五度に上げた右手の先には、赤いYシャツを着た男性の大きな体があった。瞬時に、背中にずっしりとした重みを感じる。ランドセルだ。ランドセルを背負っている。どうやら私は、小学生時代の佐伯さんに憑依したらしい。手を引いている男性はおそらくお父さんだろう。もう一度足元を見ると、小さな運動靴には「さえきみなみ」と書かれている。佐伯さんのお父さんが書いたと思われるその字は、「さ」の字が活字のように二画で書かれていた。  横断歩道を渡り終えた先は、商店街へと繋がっていた。しっかりとつないだ手の奥、佐伯さんのお父さんが頭に巻いているタオルが振り子のように一定のリズムで揺れ動いているさらに向こうで、ガラガラという音がする。音の鳴る方向をじっと見つめていると、足にローラーが付いた看板が、店の奥から運び出されてきた。店主と思われるおじさんがケーブルをコンセントに差し込む。すると、少し黄ばんだ電球で四角く囲われた看板に灯がともった。電光掲示板を囲む無数の電球たちが派手な色で点滅をはじめ、電球本体の古さを覆い隠す。ほんの数秒経つころには、電光掲示板に描かれた『リーチ麻雀』の赤文字までもが点滅をして、緑色に変わった。  少し懐かしさを感じる演出を一通り眺め終わったところで、視線を前に戻すことにする。すると今度は、前方から自転車を押す若いカップルが歩いてくるのが目に入った。短髪で泥だらけのユニフォームを着ている男の子は、おそらく野球部だろう。自転車のかごにまだ少し新しい野球ボールが入っている。そうすると、女の子の方はマネージャーだろうか。もしかしたら、全然違う文化部の彼女と待ち合わせて帰るところかもしれない。距離が近くなるのを待って、聞き耳を立ててみたけれど、全然部活とは関係のない、昨日見たテレビ番組の話が聞こえただけだった。大きな声で笑いながら話す少年の日に焼けて黒くなった顔と筋肉質な身体を、子供の視線の高さから見ると、普段よりも一際大きく見えた。  手を右側に引かれて向きを変える。佐伯さんのお父さんが薬局の入り口に立って、お菓子を眺めていた。スーパーマーケットやコンビニで買うよりも明らかに安いチョコレート菓子を三つ手に取り、周囲を見渡している。  「パパ、こっち。」 あいていた左手でかごを指さしながら言う。普段は憑依中、絶対に喋らないように注意しているのだけれど、思わず声が出てしまった。不自然な口調になっていたらどうしよう。子供の頃の佐伯さんは、お父さんのことを「パパ」と呼んでいただろうか。  「みなみ、ありがとう。」 派手な格好に似合わない、優しい声だった。お父さんがかごを取ってきたタイミングで、再びその左手を握る。薬局の店内は二、三人の客がいただけで、閑散としていた。妙に明るいBGMに、何とも言えない哀愁を感じる。  「シャンプーと石鹸も買わないとあかんな。」 私に話しかけているのか独り言なのかわからない口調で、佐伯さんのお父さんがつぶやく。右手で詰め替え式のシャンプーを二つ手に取って、肘のあたりにかけているかごに入れた。その瞬間、少し身体が揺れたことが、反対側の手を通して伝わってきた。黙って、上を見る。子供を持つ大人の男性にしてはガサツで、乱暴そうに見えた。顔には刀傷のようなものがある。もしかしたらカタギの人ではないのかもしれない。  入り口近くのレジの前で、手を放すと、外から入ってくる冷たい風が、お父さんの手からもらった熱を一瞬で奪い去った。黒に近い灰色をした小さな財布から小銭を取り出している姿を見つめる。今まで気づかなかったけれど、赤いYシャツには、生地よりももっと赤い、真っ赤なハイビスカスが描かれていた。  すっと力が抜けるような感覚がした。無機質な広い机の上には茶色の大きな封筒と、白い小さな封筒が置かれている。静かに、手に取った佐伯さんの履歴書をめくる。一般的なコピー用紙よりも少し高級なB5用紙の二枚目、志望動機欄には、「父が病気になり、介護費用が必要なため、正社員での就職を希望しています。特に、残業が少なくワークライフバランスの取れそうな貴社で、精一杯頑張りたいと思います。」と記載されていた。自己PR欄にはいつも笑顔で誰とでも仲良くなれると記載されている。一つ一つ丁寧に書かれている文字には、「さ」と「き」に明らかな特徴がある。なぜ大学を中退し、なぜ十年間も定職についていなかったのかは結局分からない。でも、苦労しながら佐伯さんを育ててくれたお父さんのために真面目に働こうという強い意志が見て取れた。佐伯さんの真剣な想いが十二分に伝わった。  でも、それでも、この履歴書を合格にすることはできない。正社員になりたい理由は分かったが、弊社で働きたい理由が「残業が少ないから」では面接で不合格になるのがオチだ。二十九歳にもなってアピールポイントが笑顔というのもいただけない。今時、学生でももっと実用的なアプローチをしてくるだろう。  小林課長が、書類選考でダメな奴を通すと面接をする社員の一時間が奪われると言っていたことを思い出す。二枚組の履歴書を赤い封筒に戻し、机の上にそっと置いた。
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