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ワケありオメガの密やかな恋
――まずい。
そう思った瞬間、体がグラリと傾いた。
ゾクゾクとした悪寒が背筋を駆け巡ったかと思ったら、次いで下腹部から覚えのある熱がせり上がってきて、全身を火照らせる。
自分の体から、花のような芳香……フェロモンがブワッと吹き上がって、後孔からトロリと蜜が溢れてくるのがわかった。
足がガクガクして、もう立ってなんかいられない。
俺はその場にガクリと膝をついて蹲った。
「どうした?」「ヒートか?」そんな声が周囲から聞こえてくる。
このままではアルファに襲われてしまうかもしれない。だけどこうなってしまってはもう、家に逃げ帰ることもできない。
垂れ流されるオメガのフェロモンに、数人のアルファが近寄ってきた。
――まずい!
最悪の想像が、熱に蕩けた頭を過ったそのとき。
「タイチ!」
遠くから向井が駆け付けて来るのが見えた。
「ヒートか?」
「そう、みたい……二週間前に終わったばかりだから、まだ来ないだろうって油断してた」
「二次性徴を迎えたばかりのオメガは、ヒートが不安定だって教えたろ?」
それはこの前聞いたけど……でもそんなこと、ついつい忘れてしまうんだ。
だって俺は、半年前にオメガになったばかりなんだから。
二十歳まで俺はたしかにベータだった。
オメガとは全く違う、一見して男とわかる体格。アルファの目なんか絶対に惹かないような平凡な顔立ち。
しかも眼鏡をかけている分余計に野暮ったく見えると言われるほど、パッとしない容貌だ。
それが半年前に急なヒートを起こしたのだ。
ベータがヒート?
信じられない気持ちで後日、バース科のある病院を受診。検査結果はオメガで間違いないというものだった。
前回のバース検査で、正しい判定がなされていなかった可能性がある。
そう言ったケースは稀にあること。
偶然にも二次成長を迎えるのが遅い体質だったため、今になってヒートに見舞われた。
俺を診断した医師は、そんなふうに語った。
そして。
『大学の構内で突然ヒートを起こしたそうですが、何事もなくて本当によかった。最悪の場合、見知らぬアルファに頸を噛まれて、無理やり番にさせられることも考えられますからね』
あのときはたまたま隣にいた向井に処置してもらったんだ。それで事なきを得たけれど、そうじゃなかったら……考えただけでゾッとする。
俺は心の底から向井に感謝して、その後は抑制剤を服用して自衛に努めよう……としたのだが、物事はそう簡単にはいかなかった。
そのため俺は、ヒートのたびに向井の世話になり続けることしかできずにいる。
「とにかく行こうか。少し我慢できる?」
「うん」と発した声は、掠れてとても小さなものだった。
下腹部の熱は思考をも侵し、雄が欲しいという以外何も考えられなくなってきたせいだ。
「むかぃ……」
我慢できずに己の股間をギュッと掴み、モジモジと膝を合わせる。こうすることで少しだけ刺激を得ることができるのを知っていたからだ。
「こら、タイチ。ここまだ外だから。みんなに見られるよ?」
「うぅんっ……やっ、みられてもいいから……」
そう、見られたって構わない。そんなことよりも今は、体に燻る熱をどうにかしたい。その一心だった。
股間を弄る手を小刻みに揺らすと、向井が困ったように笑う。
「お前のそんな姿、ほかのヤツらに見せたくないから、我慢して」
向井は通りでタクシーを拾うと、彼のマンションへ急ぐよう、運転手に伝えたのだった。
俺が覚えていたのはそこまで。
気付いたら、目の前に最近はすっかり見慣れた天井があった。
向井のマンションのものだ。
ベッドには俺一人。
あれほどあった熱と欲が、今はすっかり治っている。
向井が処置してくれたのだろう。
上半身を起こすと、腹筋に力が入ったせいか、後孔から粘ついた液体がトロリと流れ出る感触を覚えた。
確認するまでもない。向井のものだろう。
オメガと診断された後、俺はさまざまな抑制剤を試してみた。しかしどれも効果が薄く、しかも副作用も酷い。
俺に合う抑制剤は未だに見つからず、ヒートになるとアルファの精を子宮に直接受けるしか、ヒートの解消法がないという有様だ。
向井はそれを哀れんでくれて、俺がヒートになると必ず助けてくれている。
まだヒートの周期も定まらない、ただひたすら迷惑な存在である俺を……だ。
だけど、こんな状態をいつまでも続けていく気はなかった。
なぜなら向井は一流のアルファだから。
イケメンで成績優秀、品行方正、しかも大手製薬会社の跡取り息子。
どのオメガも、稀にベータまでもが彼の隣に立ちたいと躍起になっているのを前から知っていた。引く手数多、選り取り見取り。
そんな凄いやつが、なんで俺と友だちでいてくれるのか……未だによくわからないが、とにかく向井は俺を親友と見做してくれて、大学ではいつも一緒にいてくれる。
初めてのヒート後はネックガードのチョーカーをプレゼントしてくれて、今もヒートになると決まって面倒を見てくれるのだ。
優しくて頼りになる向井。俺の中にあった友情は、いつしか恋心に変わっていた。
だけどこの気持ちを向井に伝える気はない。
だって向井は一流のアルファ。彼がその気になれば今すぐにでも、好みのオメガを番にすることができるだろう。
一方の俺はパッとしない容貌で、しかもずっとベータとして生きてきて、オメガらしさの欠片もない男だ。
こんなかわいげのない俺に、向井が振り向いてくれるはずない。
それはよく理解している。
だから俺は、この恋心は捨てようと決心した。
だって俺たちは“親友”同士。俺は向井の幸せを笑って祝福しなければ……ああ、でもそんなことが本当にできるのだろうか。
だって俺は、向井がほかのオメガを番に選ぶところなんて見たくないんだ。誰も番に選ばないでと叫んでしまいたい。
だけど俺にそんなことを、とやかく言える資格がないのはわかっている。
俺はきっと泣いて彼を責めるだろう。もしかしたら俺を選ばなかったことを怒り、詰め寄るかもしれない。
そうなったら俺たちの友情は終わりだ。
醜態を晒す前に、早くこの関係をどうにかしなくては。
せめて彼の記憶の中だけでいいから、綺麗な思い出として覚えていて欲しいんだ。番になれないなら、せめて友人としてずっと側にいたいんだ。
そう考えているのに、ヒートのたびに向井に抱かれて、いつも決心が鈍ってしまう。
だからもう、こんな関係はやめようと、今日こそ言うんだ……。
「あれ、タイチ。起きたの?」
ハッとして顔を上げると、水の入ったコップを片手に向井が立っていた。
ジーンズは穿いているが、上半身は裸のまま。乱れた髪が壮絶な色気を放っていて、思わず目を伏せた。
顔が、熱い。
ヒートの最中はもっと凄いところまで見ているはずだけど、その熱が落ち着いた今はとてもじゃないけど直視できない。
「タイチ、まだヒートが治ってない?」
向井が心配そうに俺を覗き込む。
「もう少し、発散する?」
それはつまり……。
「い、いやいい! もう大丈夫だから?」
「そう? 俺に遠慮すんなよ。いつでも付き合うから」
「あ、ああ……悪い、な。でも本当に大丈夫だから」
「そうか? それは残念だな。ヒートのときのタイチは凄くかわいいのに。またあんなタイチは滅多に見えないから、また見てみたい気もするけど」
まるで誘っているような言葉。
そんなこと言われたら……期待してしまう心に蓋をして「からかってんじゃねーよ」と言って、そっぽを向いた。
とてもじゃないが、これ以上顔を向けていられない。今俺の顔はきっと真っ赤に染まっているはずだから。
「からかってるわけじゃないんだけどなぁ。それよりアフターピル」
「あ、悪い」
薬と水を受け取って、一気に流し込み、ふぅ……と大きく息を吐いた。
「安心した?」
「そりゃ……子どもができるのはまずいだろ」
俺が妊娠なんかしたら、向井が困ったことになる。
だからアフターピルは絶対に欠かせない。
向井も本当はちゃんと理解しているんだろう。この薬は向井が用意してくれたものだから。
「いつも悪いな」
「気にするな。うちの製品だからほかの薬より安心だし、無料で手に入るんだからさ。遠慮せずに飲んでよ」
抑制剤が効かない俺は、アルファの精を受ける以外に発情期を逃れる術はない。
それはつまり、避妊しないで性交すると言うことで……だから俺はピルを服用しなければならないのだが、ピルにも激しい副作用が出てしまった。
唯一、副作用が少なかったのが向井の家で販売しているアフターピルだったんだけど、この薬はとてつもなく高額だ。それを毎回無料で用意してくれる向井には感謝しかない。
「俺、そろそろ帰るよ」
「今日は泊まっていけば?万が一またヒートが来たらどうするんだよ」
「もう大丈夫だろ?」
「まだ体がオメガとしてのできあがってないんだから、何が起こるかわからないだろ?」
強い口調で言い切られ、結局向井のマンションに泊まることになってしまった。
広いベッドに向井と並んで横になる。
暗闇の中、仄かな体温と息遣い、微かなフェロモンが感じられて、酷く落ち着かない気分だ。
――そうだ、今がチャンスじゃないか?
今ならば向井に『もうやめよう』と、伝えられる気がする。
そう意を決して口を開く。けれど……肝心の声が全く出ない。
言葉が喉の奥に引っかかって、何も喋れないまま、時間だけが過ぎていく。
「……眠れないのか?」
耳元で向井の声がする。
俺の様子がおかしいことに気付いてしまったのだろうか。
心配をかけてはいけない。
「いや……いつも悪いなと思って……」
ようやく出てきた言葉は、自分が決意したこととは全く別のものだった
今日はきっともう、やめようなんて言えそうにない。
おれは内心で小さなため息を漏らした。
「いいんだって。俺とタイチの仲だろう?」
ベータだと思っていたころに育まれた友情は、向井の中ではまだ続いているらしい。
そのことが嬉しくて……少しだけ悲しかった。
でもこの思いは俺のエゴだ。
向井が俺に友情を抱いていてくれているなら、その気持ちは尊重しなければならない。
「……向井、ありがとう」
いつも俺を助けてくれて。
俺なんかを親友に選んでくれて。
「ほかならぬタイチのためだからね。だから気にしないで。安心しておやすみ」
向井が髪を撫でてくれる。その優しい手付きにウットリとしているうちに、次第に眠気に襲われた。
――あぁ、やっぱり今日も言えなかったな……。
だけど次こそは必ず言うんだ。
だから今はもう少しだけ、向井の隣にいることを許して欲しい。
お前に番ができたら、必ず祝福するから。
今この一瞬だけでいい。俺だけの向井でいてくれないか。
――向井のために、この気持ちは絶対に忘れてみせるから。
そう心の中で呟きながら、俺は向井の腕の中で眠りについたのだった。
**********
俺の腕の中で、タイチが安らかな寝息を立てている。
彼は俺のことなんて、一つも疑っていない。
「もしもベータからオメガに変えたのが俺だって知ったら、お前はどんな反応をするかな?」
世の中には便利な薬が数多く存在する。
例えば人間が本来持っている第二性を変えてしまうような、おとぎ話みたいな薬も実在するのだ。
もちろんこれは、表だって出回っている物ではない。裏の世界だけでヒッソリと流通している秘薬中の秘薬。一粒何千万円もするような、高価な薬だ。
そんな大金を払い、相手の第二性を変えてまで、自分の気に入った者を番にしたいと望む金持ちは少なくない。
その存在を知るものたちの間でそれは『神薬』と呼ばれているのは昔から知っていたが、欲しいと切望する顧客の考えが全く理解できずにいた。
けれど、タイチと出会った瞬間にその気持ちが痛いほどわかってしまった。
タイチの何が俺を惹きつけるのか、未だによくわからない。
彼は凡庸な容貌で、オメガのような儚さや美しさからかけ離れた、ベータらしいベータだった。
フェロモンなんて感じない。普通であれば友人にさえしないようなタイプの男だった。
けれど出会った瞬間に、俺の本能が「彼が欲しい」と訴えた。
タイチを望む気持ちが一気に膨れ上がったのだ。
そこからの俺の行動は早かった。
タイチに近付いて、“親友”ポジションをまんまと獲得。
そして彼が貧血体質と知ると、「開発中の鉄分サプリなんだ」と偽って、第二性を変える薬を投与し続けた。
この薬は一度に大量摂取することができない。せいぜい一ヶ月に一度程度、服用させるしかないのだ。
タイチはなんの疑いも持たず、“親友”である俺から手渡されたダミーのサプリと、それからサプリを偽った『神薬』を飲む。本当に服用したことを確認したくて、彼には毎回俺の目の前で飲んでもらっていた。
「摂取後のサンプルが取りたいから」と言ったら、快くOKしてくれたタイチ。素直に飲んでくれたのはいいが、チョロすぎて心配になったりもするが。
こんなまっすぐな性格で、俺以外の誰かに利用されたりしたら大変だからな。……もっとも、そうなる前に俺がタイチを守るから、あまり心配はないのだけれど。
そして二年後。
ついにタイチのオメガ化が完了した。
日に日に強くなっていくタイチのフェロモン。それを感じていた俺は、彼がいつヒートに見舞われてもいいように、決して側を離れなかった。
万が一を考慮して、俺のフェロモンで匂い付けをすることも忘れない。中には彼のフェロモンを感じたアルファもいたようだが、俺のフェロモンを身に纏ったタイチに手出しするような者は一人もいなかった。
そんな俺の努力が実を結んだのか、タイチは俺の前でヒートを起こして倒れてくれたのだ。
初めてのヒートはかなり強烈で、噎せ返るような大量のフェロモンを発したため、周囲のアルファが一気に色めき立ったくらいだ。アルファ用のラット抑制剤を服用していた俺ですら、危うくその場で犯したくなるほど、その香りは凄まじいものだった。
それでもなんとか正気を保ち、突然の事態に混乱するタイチを抱え上げて、俺はいそいそと自分の巣であるマンションに彼を連れ帰った。
そしてヒートに苦しむ彼を「助けてあげる」なんて言いながら、貪り尽くしたのだった。
人の性を変える素晴らしい『神薬』はまた、副作用も大きい。
タイチの場合は、オメガ用の抑制剤を全く受け付けなくなると言う副作用が出てしまった。ピルも全く駄目で、唯一アフターピルだけはなんとか口にすることができた。
本当はアフターピルなんて不要だけれど、タイチは大学卒業後にやりたいことがあるらしい。なんでも中学時代からの夢だと語っていたから、本気なんだろう。
番になって子どもができたら、その夢は叶わなくなる。
俺に囲われたら最後、一生俺のテリトリーから出さないことは目に見えているから。
その前に、タイチにはつかの間の自由をあげようと考えている。
どのみち逃がすつもりはないのだから。あと数年間は羽を伸ばすことを認めてあげよう。
俺にピッタリと寄り添って眠るタイチ。
体から放出されるフェロモンの残り香に、俺の雄がはち切れんばかりに反応し出した。
「こんな凶悪なフェロモンで俺を誘うなんて、タイチは悪い子だな」
けれど眠るタイチを起こすのは忍びない。
残った理性を必死にかき集めて、俺もまた眠ることにした。
安らかな寝息のタイチを抱きしめて、耳元に顔を寄せる。
「今はまだこのままでいい。でも覚えていて。タイチは俺の番になるんだからね」
項にキスを落とすと、タイチは擽ったそうにしながら寝ぼけた声で小さく「うん……」と答えたのだった。
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