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雨はいい。 全ての汚れを洗い流してくれるから。 気付いた時には自分が潔癖症だということを知っていた。 潔癖症。 強迫性障害。 綺麗好きとは違う。 部屋が散らかっていても、それが洗ってあり、外界と触れることなく、家の中のみにとどまっているものならば床が見えなくなるほどに散らかっていても気にならない。 だが。 地面が怖い。 土足で歩く場所が。 誰かが嘔吐したかもしれない。 立ち小便をしたかも。 ツバや痰を吐く姿はよく見かけるし、食べたガムが捨てられているのもよく見る。飲みかけの清涼飲料水の容器が道端に捨てられその中身が道路に流れ出している。飲食店の裏に出されたゴミ袋から何かの汁が染み出しているし、自動販売機にの隣に設置されたゴミ箱には長年放置された得体の知れない汚れがついている。 それらを踏んだかも知れない土足。 汚れを踏んだ土足が歩いた場所には靴の裏を介して汚れが感染していく。 畢竟。 土足で歩く場所は全て誰かの嘔吐物で覆われているのだ。 「あ」 小さく声が出た。 失敗した。 十分注意していたはずなのに。 なぜ駅ではせかせかと周囲を見ることもせずに他人にぶつかる危険性も考えずに歩く人物がいるのか。 ーーでも、駅だったのは不幸中の幸いだ。 ぶつかられたはずみで腕にかけていた傘が落ちた。 土足の場所に。 眉をひそめながら傘を拾いトイレへと急いだ。 人がいなければいいのだけれど。 ちらりと考え、人目があっても別に構わないとすぐに思い直す。 とにかくこの不浄を落とすことが先決だ。 洗面台の自動水栓の下に傘の柄を差し出す。 流れる水。それが汚れを洗い流してくれる。 洗面台に傘を置き流れる水の下に晒し続ける。 隣の洗面台手早く手を洗いいつも持ち歩いている除菌成分入りの洗剤を取り出して傘にかけた。 傘全体に。 奇異の目を物ともせずに傘全体に振りかけた洗剤をごしごしと泡立てる。 泡を落とし、さらに洗剤をかける。 5回ほど繰り返したところでやっと気持ちが落ち着いてきた。 7回洗って、ようやく洗う手を止めることができた。 自分の手、服、持ち物、トイレの床も水浸しだった。 ーーでも、仕方ない。 医者に行けばいいのかもしれない。 薬を飲めば。 カウンセリングを受ければ。 でもそれが何になると言うのだろう。 治ったとして、もしまた元に戻ってしまったら? 土足の汚れが、他人の嘔吐物がついたもの。自分以外のみんなが気にせず触れるそれを自分は触れない。 それを、何がしかの力を使って治して、治って他人の嘔吐物の中に手を突っ込めるようになって、だがまた症状が現れたら? 自分自身の正常に戻る時が来たら? 想像するだけで叫び出しそうになるくらい恐ろしい。 「……傘ささないんですか?」 「あ、お疲れ様です……」 誰だっただろう。 挨拶はするから顔は知っているのだが別部署で全く絡みのない相手なので名前がわからない。 そもそも同じ建屋で働いているだけで同じ会社かどうかすらわからない。 「……小雨ですから」 「風邪をひきますよ」 なぜか傘をさしかけられた。 ーーほおっておいてくれないかな。 思っても人と衝突することが怖い。同じ会社の人間だったら?気まずくなったら?例えば隣の席の同僚の友人だったら? 「……ありがとうございます」 口の中でもごもごと返した。 雨に濡れるのは好きだった。 誰も踏むことの叶わない空から落ちてくる清浄な雫。 男は何やらベラベラと話している。 なんで一緒に歩いているんだろう。ちらりと見た男の方は雨で濡れていた。自分に傘を大きくさしかけているせいで。なぜ自身が濡れてまで名前も知らない自分に傘をさしかけてくるんだ? 「……ですね」 「……え?えぇ、はい」 「よかった。オススメのイタリアンがあるんですよ。一人だと寂しいなと思ってたんです」 ーーいつの間に名前も知らない男と一緒に食事に行くことになったんだ? 流され過ぎだ。 そう思いながらも約束を反故にするための電話をかけるのが嫌で今日もまたこうして出かけてきてしまった。 何がいいのかわからないが。 物好きもいるものだと思う。 男は社内の人間ではなかった。いくつかの病院が集まっているフロアが数階下にあった。そこでメンタルクリニックを開業しているのだと言っていた。朝の出社時間帯に何度か姿を見て気になっていたのだと。気にされるような何かが自分にあるとは思えなかったが。 「最近疲れていませんか?」 唐突に聞かれた。 なぜこの男はやたらと近くを歩きたがるのだろうか。触れるほどのそばには近寄って欲しくないのだがーー。 「……ッ」 人混みで土足を履かせたまま子供を抱き上げる親は何を考えているのだろうか。 人混みで嘔吐物を撒き散らしながら歩くなんて非常識だとは思わないのだろうか。 「ーーはい?」 なんの話をしていただろうか。 いつも上の空で話を聞いている。 半分どころか十分の一も頭に入ってこない。 ただ街中をぶらぶら一緒に歩いておしゃれなカフェでお茶をして解散。時折早めの夕食になることもある。 食事代などは全部男持ちだったが、何が楽しくて自分を誘うのだろう。カフェも食事も低収入事務員の自分には1シーズン1度のご褒美。そんな値段だったが。 お金を使わせて申し訳ないなとは思うが、自分は時間を男に与えてるとも思う。自分にそこまでの価値があるのか?と自答するが、出かけてなければ読みかけの本を読み終えて次の長編に手を出せたのにとも考える。 男の考えはさっぱりわからないが。出かけてきてしまう自分の思考も理解できない。何もかも他人に強く出れない断ることのできない性格のせいだと思う。 「おいしいお茶を出すお店があるんですよ。すぐそこです」 連れて行かれた小さくピアノの生演奏が流れるカフェで潔癖症であることを言い当てられた。そして治療することを約束させられてしまった。 ーー断れない性格が呪わしい。 ふわふわと軽い素材の布。 ロングスカートの裾が風をはらんでふわりと翻る。 「ーーあ、ごめんなさい」 小さな女の子が恥ずかしそうに目を伏せていた。 ーー気にしなくて大丈夫だよ。 ーー世界はそんなに汚れていない。 ーー大丈夫、誰も君を汚すことはできない。 ーーみんな平気そうにしているでしょ? ーーどこにも嘔吐物なんてないよ。 ーー大丈夫。 「……大丈夫。スカート、長くてごめんね。怪我とかはしてない?」 スカートの裾が地面につくのが全く気にならない。 しゃがんで、スカートの裾を踏んでしまった少女と視線を合わせる。 「気にしなくて大丈夫。ちゃんと謝れるなんてお嬢ちゃんはいい子ね」 にこりと笑うと、少女ははにかんだ笑みを返してきた。 「……どうしたの?!あぁ、すいませんっ!」 先に行っていた母親らしき女性が階段を駆け上ってくる。 「大丈夫ですよ。お気になさらず」 会釈をすると女性は深く頭を下げ、少女の手を取った。 「バイバイ」 手を振ると、バイバイ。と言いながら少女も手を振り返してきた。 スカートの裾をつまんで階段をのぼる。 地下鉄の出口から軽い光が差し込んできていた。 「ーーあめ」 見上げれば、薄く薄く引き伸ばした綿のような白い雲が青い空をゆっくりと流れている。眩しい太陽。そこからパラパラと落ちてくる水滴。 「お天気雨だから大丈夫……」 ーーそれに雨は誰にも踏まれていない。 踏まれて……? 「ーーお待たせ」 「待ってない」 笑うと頭をクシャクシャと撫でられた。 「髪、ぐちゃぐちゃになっちゃうーー」 手を止めよう、乱れた髪を治そうと伸ばした手。その薬指で透明の石が太陽の光を弾いた。 そこに、雨の雫が落ちる。 「早く行こうって言いたいところだけど、濡れちゃうね」 「お天気雨だからすぐに止むし、それに少しくらい濡れても……」 ーー濡れても? ふと手を見た。 輝く透明の石。その上に最も純粋な透明の液体。 ーー濡れても、何? ある日声をかけられた。 薄明るい空に小雨の降る帰宅時間。 駅までは歩いて5分。 傘はあったが、濡れるのは構わなかった。 ーーむしろ、濡れたかった。 ……え。 ……なに?違う。なんで……? 初夏の夕立。 濡れて歩くのはむしろ好きだった。 傘をさしかけられて迷惑だと思ったあれからまだ2年も経っていない。 相談? カウンセリング? 治療? ーーメンタルクリニックの院長……。 「そっか。じゃあ行こうか。予約の時間もあるしね。……あれ?スカート。裾汚れてるよ?」 裾……。 さっき子供に踏まれた。見ると小さな足跡がついている。土足の跡。 ーー小さな、土足の跡。 忘れたわけじゃない。 ちゃんと覚えている。 自分は潔癖症だった。 隣にいるこの彼の力で克服したーー。 ーー克服? 土足の跡。 たとえ子供のものだとしても土足は土足。 どこを歩いたのかわからない。 何を踏んだのかわからない。 落ち葉を。 ポイ捨てされたスナック菓子の空き袋を。 虫の死骸を。 処理されていなかった犬のフンを。 ーー何を踏んだ? 吸い殻を。 何度咀嚼されたかわからないガムを。 飲み残しの缶から溢れ出したコーヒー。 ーー誰かの嘔吐物。 足跡。 スカートについている。 汚染された布。 嘔吐物にまみれた衣服。 「〜〜ッッッッッッッッッ!!!!!」 声にならない悲鳴が聞こえた。 どこから? 自分の口から。 嘔吐物にまみれた衣服を着込んだ女の口から。 「おい?!どうしたの?!大丈夫?何が……っ?」 伸びてきた手が手首を掴む。 ーー何を触ったかわからない手。 口にできないほどの汚物を掴んだかもしれない手。 「触らないでっ」 慌てて振りほどき、手首をこすった。 手首にドロドロとしたどす黒い汚れがこびりついている。 汚れ。 取らないと。 どうやって? ウエットティッシュ。 いつも持ち歩いているはずだ。除菌ウエットティッシュを。何を忘れても忘れてはならないもの。 カバンの中を探した。 小さな小さなバッグ。 何が入ると言うのだろう?何が入っている?自分はなんでこんなに小さなバッグを持っているんだろう。これでは何も入らないではないか。ウエットティッシュ。汚れを取るためのーーあぁ、ハンカチでもいい。拭いた後にそのハンカチは捨てればいい。汚れを指で拭おうとしてしまった。汚れがついていなかったはずの指が汚染されてしまった。視界に入ったスカートの裾。小さな足跡。小さな少女のはにかんだ笑顔。黒い汚れ。汚れの場所から滴り落ちる粘り気を含んだ汚汁。あぁ、あぁ。トイレ。トイレはどこだろう?手を洗わないと手を。バイバイ。小さな手が振られた。スカートも洗って。あぁ、ウエットティッシュはどこ?!カバンの中身を全部地面にぶちまけたのに出てこない。あぁ、地面に落ちた。土足の場所に。汚染された場所に。なんでそんなところに落としたの?除菌洗剤は?洗剤も小さな小瓶に振り分けて持っていたはずなのに。なんでないの?スカートの汚れがアメーバのように上に登ってくる。毛細管現象。嘔吐物にまみれた布がさらなる汚れを吸い取ろうとしている。 「あぁ、あぁ、あぁ」 汚れ。落とさないと。取らないと。どうにかして。なんで取れないの?爪でこすれば取れるだろうか?取れた?取れそう。もっと力を込めれば。爪を立てて思い切りよく。やめろ。ヤメルンダ。声が聞こえる。あぁでも声の意味を考えるよりも先にこの汚れを取らないと。 鋭い痛みと赤い液体。あぁ、汚れが取れた?少しだけだけど汚れが取れた?手首についた汚れ。スカートから這い上ってくる汚れ。気づけば汚れは手首から肘、肩まで広がっている。汚れ。汚れを取らないと。もっと。もっと力を込めて。爪に圧力がかかる。何かが爪の間に挟まっている。生暖かい温度。お天気雨が降っている。雨はいい。誰も踏むことのできない空から落ちてくる汚れを洗い流してくれる雫だから。 「あぁ、あぁ、あぁ」 手が止まらない。痛みを感じるが、汚れに対する嫌悪感の方がはるかに強い。 嫌悪などではない。恐怖だ。 恐怖。 自身が汚染される恐怖。 「あぁ、あぁ、あぁ」 救急車!誰か救急車を!やめろ!やめてくれ!すぐそばで声が聞こえるが、この声に耳を貸してはいけない。貸せば穢れる。耳から汚染が流れ込む。耳に誰かが嘔吐物を流し込んでくるーー。 雨。 雨は良い。 誰も嘔吐物を撒き散らすことができない。 食べ残しの飲み物が溢れていることはない。ツバや痰を誰かが吐こうとしても吐けない。誰も土足で踏み荒らすことができない。 土足に荒らされていることのない空から落ちてくる洗浄のための雫。 雨は良い。 透明な雨はもちろん良いが、この雨はさらに良い。 赤い雨。 黒にも見える赤い雨。 雨が降れば降るほど汚れは落ちていくのだ。 雨は良い。 絶え間なく雨が降れば良い。
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