13人が本棚に入れています
本棚に追加
気づくのが遅かった。そして同時に、自分達がどれだけテュランという存在を侮っていたかを思い知らされてしまった。
怪我人や病人は多くの物資と人手を必要とする。ハルス病院は規模や技術、どれを取ってもアルジェント最大の病院である。他の区域にも医療施設はある。しかし仮に、人質になっている患者を全て取り返せたとしても、とてもじゃないが受け入れられる筈がない。物資も人手も、すぐに枯渇するに決まっている。
驚くべきは、テュランがそこまで考えていたということだ。一般的に、人外の知能は左程高くはないとされている。あらかじめアーサーも彼の記録には目を通してあったのだが、特筆すべき事項は無かった筈。
だが今の彼は、まるで別人である。
『アハッ、わかった? そーいうコト。物資を無駄に消費するガキを一人片付けてやったんだから、感謝しろよ』
「ふざけるな! お前の目的は何だ、何の為にどうしてこんなことをする!?」
目の前に彼が居たら、確実にその首を圧し折っていただろう。激情が身を焦がし、どうにかなりそうになる。だが、冷静さを失うわけにはいかない。
テュランは精神的に脆い。付け入る隙はある筈だ。
『…………』
返ってくるのは、無言。アーサーは構わず畳み掛ける。
「片っ端から人間を殺し、闇雲に街を破壊しても何の解決にもならない。それくらいわかるだろう、テュラン。罪のない人を、これ以上傷付けるな――」
『くだらねぇな』
突如、背筋を冷たい何かが伝う。首筋がナイフに切り付けられているような、冷たい嫌悪。それ以外の感情を全て削ぎ落としたかのような声色に、アーサーは悟った。
この人外の青年を、完全に見誤っていたことを。
『馬鹿馬鹿しい……テメェらは本当に、どいつもこいつもバカばっかりだ!!』
テュランの激昂と共に、何かが倒れるような音が聴こえた。それが何か、もうアーサーにはわからない。
『誰かの為に、何の為に……何だ、それ。人間は他者を簡単に裏切るくせに、我が身可愛さに平気で弱者を見捨てるくせに、よくも白々しい……都合が良い時だけ、知らん顔で綺麗事言ってんじゃねえよ!』
「――ッ!?」
声無き悲鳴を上げ、サヤが肩を小さく震わせた。自身を抱き締める手は白く、顔は血の気がない。明らかに様子がおかしい。
だが、そんな彼女を気遣う余裕はアーサーにもなかった。
『そんなに知りたいのなら、教えてやる。俺の目的は、この世の人間全てに思い知らせることだ。子供だろうと病人だろうと関係ない。身を引き裂かれるような痛みを、心が歪む程の悲しみを知らずにのうのうと生きる、オマエ達人間に!! 正義などというくだらない大義名分を掲げるバカどもに、本当の絶望がどういうものかを教えてやる。絶対に……絶対に、逃がしたりしないからな』
一瞬の爆音。それを最後に、通話が途切れた。ツーツー、と無機質な電子音が部屋に響く。
「……勝手な行動をしてしまい、申し訳ありません閣下」
端末を操作して、受話器を元に戻す。アーサーは自身の非礼に頭を下げる。完全に失態である。
テュランの弱みを突けなかった。それどころか、激怒させて人質の立場を危うくさせてしまった。可能ならば、今すぐこめかみに銃口を当てて引き金を引きたいくらいだ。
「いや、良い。お前の言い分はもっともだった。サヤ……大丈夫か?」
「え……あ、はい。大丈夫です」
ローランに呼ばれると、サヤは小さく頷いた。顔色は青いまま、宙を彷徨う視線が何だか頼りない。しかしその両手は、筋が浮き出る程に堅く握り締めている。
「仕方がない……国内にある火器類の四分の一を人外達にくれてやろう。今はテュランを刺激しないよう、隙を見せるまで待つしかない。アーサー、奴等に奪われた区域に隣接する第四区、第十二区に戦力を二分させる。これ以上領地を奪われるわけにはいかない」
「わかりました、そのように手配します」
アーサーは胸に手を添え、頭を下げる。今は主の言う通りに動くしかない。
「それからサヤ、ハルス病院以外の医療施設に連絡を取ってくれ。身柄の引き換えに応じた患者の受け入れ準備を、各医療施設同士で連絡を取り合い混乱が無いようにと」
「…………」
「サヤ、聞いているのか?」
「は……はい!」
申し訳ありません! サヤが勢い良く頭を下げる。黒髪が遅れてはらはらと散らばった。
流石にローランも彼女の異変が気になるのか、眉間に皴を寄せる。
「どうしたんだサヤ、具合でも悪いのか?」
「そんな、ことは……」
言い淀むサヤ。ゆっくりと目を閉じ、息を吐いて。そうして再び瞼を上げた時、彼女の瞳は強固な意志の炎を灯していた。
「閣下、私がテュランを始末します」
「何だと?」
「強力なリーダーを失えば、集団の規律は必ず乱れます。そうなれば奴等は最早、人間の敵ではなりません」
テュランの狂気。それが、人外達を惹きつける魅力になっていることは確かだろう。彼さえ捕えることが出来れば、事態は大きくこちらに傾く筈。
しかし、今の彼は得体が知れない。
「お願いします。これ以上あの者を自由にさせては、更なる犠牲者が出るでしょう。閣下の憂いを晴らすべく、私が必ず……テュランを、この命と刺し違えてでも、私が……必ず彼を止めます」
「ま、待ちなさいサヤ!」
「サヤ!!」
ローランの許しを得ないまま、サヤは一礼するとそのまま足早に部屋を出て行ってしまった。唖然とする主人に慌てて非礼を詫びると、アーサーも部屋から出て彼女を追う。廊下の角に消える姿を見失わないように、急いで駆け寄る。
大理石の通路に、踵の低いパンプスがコツコツと足音を響かせている。
「待て、サヤ! どうしたんだ、一体……今日のきみは、何だか変だぞ」
アーサーが声を掛けても、サヤは振り返ることも足を止めることもしなかった。拳を堅く握ったまま、唇が小さく動き続けている。思い詰めた表情で、唇からは何事かぼそぼそと言葉が零れ続けていた。
「トラちゃん……どうして、どうしてこんなことに……」
「サヤ……?」
彼が隣に居ることにすら、気がついていないらしく。豹変した彼女のことを、アーサーはただ見守ることしか来なかった。
最初のコメントを投稿しよう!