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※
サヤはテュランを見捨てた。それは紛れもない事実であり、否定する気も誤魔化すつもりも無かった。
十年程前のこと。人外と人間の境界は、今よりも曖昧だった。当時、超能力を持つサヤは人間ではなく、人外という括りの中に居た。
アルジェントの一般的な家庭に、サヤは生まれた。しかし、幼い頃にテレポートという超能力を持つことがわかると、両親は彼女を研究所に預けた。預けた、と言えば聞こえは良いが、結局は捨てられたのだ。
そして、彼と出会った。
「……サヤ、だっけ? やっぱり、生き延びてたのか」
「と……ト、ラちゃん」
「アハッ、その呼び方も懐かしいな」
懐かしいと、テュランが嗤った。子供の頃は、テュランという名前の発音が難しくて、ワータイガーということもあって『トラちゃん』と呼んでいた。
背筋に冷たいものが流れるよう。
「あれから何年経った? アンタ、すっげぇ美人になったな。わかんなかったぜ」
全てを見透かすような、金色の双眸がサヤを見る。思わず、視線を逸らしてしまう。彼の腕から逃れることも出来ず、正気を保つだけで精一杯だった。
サヤは、あの施設から逃げ出したかった。僅かに残っていた家族との記憶が恋しくて、実験という名の仕打ちに耐えられなくて。
そして、コンクリート色の世界しか知らない子猫に、外の景色を教えてあげたくて。
「ご……ごめ、んなさい」
息を詰まらせながら、それだけを何とか口にした。あの日からずっと、心の中だけで星の数程繰り返した言葉だった。
「……それは、何に対しての謝罪?」
サヤの腕を掴むテュランの手に、僅かに力が籠る。まさか、彼の声が頭上から落ちてくる日が来るとは思わなかった。
もう、二度と会えないと思っていたのに。
「ここまで痛めつけてくれたコト? それとも、あの日のコト?」
心臓が跳ねる。視線は徐々に足元へと下がり、ボロボロになった石畳を見つめるしかなくて。
「別に、アンタに謝って貰うコトなんて、何にも無いと思うんだケド。自分さえ助かればいい、足手纏いは切り捨てる。人間なら、そう考えるのが普通だと思うぜ?」
テュランが言う。口調も声色も穏やかで、サヤを責める様子は無い。しかし、それこそが彼女の心を追い詰めるのだ。
最初に逃げようと言ったのは、サヤの方だった。当時、テレポートを自在に使いこなすことすら出来ないくせに、幼稚な自尊心で逃げ切れると馬鹿みたいに思いこんで。テュランと共に、あの施設から脱出することが出来ると信じていた。
結果は、悲惨だった。二人を閉じ込めていた部屋から脱出するまでは良かった。だが、その後に待ち受けていた道のりは想像以上に入り組んでおり。二人の脱走に気がついた大人達が警報を鳴らして、防犯シャッターを次々と下ろしていった。
そして、最後のシャッターが閉まりかけた時。転んで、立ち上がれなくなったテュランを見捨てて、サヤは一人で逃げ切ったのだ。
「私、は……」
テュランを忘れた日など、一日も無かった。何て愚かなことをしたのかと、自己嫌悪を繰り返した。出来ることならあの日に戻って、馬鹿なことを考えた自分を斬り捨ててしまいたい。
否、それよりも――
「私は……きみと共に、罪を償いたい」
勇気を奮い立たせて、サヤはテュランの目を見上げた。罪? と、テュランが問い返す。
「きみは、沢山の人間を殺し、多くのものを破壊した。それがきみの犯した罪。でも、きみをこんな風に歪めてしまったのは私だもの」
記憶の中の彼は、今とは正反対だった。臆病で、非力で。それでも優しくて、思いやりのある子だった。
こんなことを平気でするような子ではなかった。
全ては、自分が悪いのだ。
「もう、きみを見捨てたりしない」
掴まれた腕を、振り払おうとは思わない。サヤはそのまま、刀から手を離した。静かな空気の中に、刃が石畳に打ち付けられる音が派手に響く。
びくりと肩を跳ねさせたテュランに、昔の面影を重ねる。
「きみの罪を、私も共に背負う。きみだけに押し付けたりしないから、だから……トラちゃん。私と一緒に来て欲しい」
彼の死刑は、きっと免れない。ならば、自分も彼の隣で同じ罰を受けるから。助けられなくても、護れなくても。それが彼に出来るサヤの償いだった。
自分勝手であることはわかっている。
「……本当に」
それでも、彼なら絶対に理解してくれる。
「本当に……俺の罪を、一緒に背負ってくれるのか?」
サヤが力強く頷く。テュランの声が震えている。そういえば、幼い頃の彼の声はいつも震えていた。涙で潤み、真っ赤に腫れた目蓋を撫でてやったことを覚えている。
今の彼も、同じように泣くのだろうか。改めてサヤが、テュランの顔を見上げる。
そして、自分の考えが甘かったことに、今更になって気がついた。
「くだらねぇな」
「え……ッ――!!」
腹に叩き込まれる、強烈な一撃。受け身も取れないまま、サヤは無様に地面へと倒れ込んだ。
痛みに咳き込みながら、胎児のように身体を丸める。鉄錆臭い唾を吐きながら、サヤは何とか上体を起こそうとした。漸く思い知ったのだ。
此処に居るのは、気弱な子猫などではなかった。
「一体誰がそんなコトを頼んだ? 俺が許されたがっているだなんて、いつ言った?」
ぞくりと、底冷えするような声はもう震えてなんかいない。頭上から降ってくるそれに顔を上げることも出来ず、再び襲いかかる蹴りに耐えるしかなかった。
「う、げ……げほっ、と、らちゃ……」
「俺が昔みたいなビビリだと思ってたのか? 手を差し伸べれば、素直に縋るとでも? 人間って本当にご都合主義というか、お気楽っていうか……反吐が出るんだよ!!」
ブーツの硬い爪先が鳩尾に食い込んだ。息が詰まって、口の中に鉄錆の味が広がる。声を出そうにも、咳き込むばかりで上手く喋ることが出来ない。
「許されようだなんて微塵も願わない。これを正義だと主張するつもりはない。これは俺の、俺という存在の為だけの復讐なんだ。そうだ、おねえちゃん。俺が今までに人間にされたコト、全部教えてやろうか?」
サヤの長い髪を、テュランが鷲掴んだ。剣を離した手が、不自然に甘ったるく頬を撫でる。
「う、うぅ……」
「痛いよな、こうやって髪掴まれるのって。皮が剥げそうで……何処見てんだ、おねえちゃん。ちゃんと俺のコトを見ろよ。アンタが見捨てた、よわっちい子猫の姿をさあ!!」
頬を殴られる。幸いだったのは、拳では無く平手打ちだったことくらいだが。それでも口の中は切れて、口角からは血が零れた。
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