五十六、ショコラ - du chocolat -

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五十六、ショコラ - du chocolat -

 開け放たれた大広間の巨大な扉を抜け、いくつかの部屋を通って神殿のような柱が立つサロンへやってくると、あたりにショコラやケーキやフルーツの甘い香りが漂い、キセを幸せな気持ちにさせた。  サロンの中央に置かれたテーブルの上に、何層にも連なる塔のような皿に小さく可愛らしい形のショコラが並べられ、その周囲を小ぶりなケーキやカットされたフルーツが囲み、なんとテーブルの四隅には、溶けたショコラが白い陶器の鍋に用意されている。陶器の鍋は、それよりも一回り大きな熱湯を張った鍋の中に置かれていて、ショコラが固まらないように工夫されているようだった。  他の招待客の多くもこのショコラのサロンを訪れ、フルーツをショコラの鍋に沈めたり、ビスケットを浸けたりしてそれぞれのショコラを楽しんでいる。  キセは目を閉じてすうっと匂いを吸い込み、それを喉の奥でしっかり味わって、と息を吐いた。 「ふわぁ、とってもいい匂いです…」 「匂いで満足しないで、好きなものを取ってこいよ」  スクネがおかしそうに言った。キセはオシアスとなってからずいぶん質素な暮らしをしていたが、実は甘いものが大好物なのを兄は知っている。 「はい!では、お兄さまの分もお持ちします。どれがよいですか?」 「俺はいい。甘ったるいのは苦手だ」 「では、何かフルーツを持って参りましょうか」  シダリーズが言うと、キセはぱあっと顔を輝かせた。 「賛成です!あ、シダリーズさま、あそこにあるのがムース・オ・ショコラではないですか?」  キセは兄の腕から離れてシダリーズの袖を引き、中央のテーブルへ向かって行った。アカンサスを模した大きなガラスのボウルに、真っ白なふわふわのクリームがのったココア色のプディングのようなものが入っている。 「そうです。これ、とってもおいしそう」  シダリーズがうっとりと目を細めた。 「あそこのイチゴものせたらとても可愛いですね」 「わあ、とってもよい考えです!やりましょう、やりましょう」  シダリーズはキセの発案に跳び上がるようにして喜んだ。 「お気に召したようで、光栄でございます」  と二人に声を掛けてきたのは、ネコのような目をにこやかに細めたアニエス・コルネールだった。  アニエスは近くの給仕からつぼみの形をしたガラスの器をひとつとスプーンを受け取り、手慣れた様子でクリームののったムースを器へ取り分け、仕上げにイチゴをのせて、シダリーズに差し出した。  王弟の娘である自分よりも先に、イノイルの王女であり王太子の婚約者でもあるキセの方に渡されることを当然のこととして予想していたシダリーズは、少し戸惑いながらキセの顔をちらりと見たが、当の本人は不快感どころか何の疑問も持っていない様子で、アニエスの手にあるムースを「思った通りかわいいです…」などと呟きながらうっとり眺めている。シダリーズはやむなくアニエスからムースを受け取り、礼を言いながら作り笑いをした。これは意図的だ。しかし、キセは何も気付いていない。 「シダリーズ殿下が(・・・・・・・・)甘いものがお好きと伺って、ご用意致しました。どうぞ、お楽しみくださいませ」  アニエスはそれだけ言うと、黒服の給仕にキセのムースを取り分けるよう短く指示を出してさっさと行ってしまった。キセのことはまるで眼中にない。  王太子の婚約者に対して、あまりに無礼な対応だ。  シダリーズは何も気にしていないキセに一言もの申そうと思ったが、キセは黒服の給仕係になにやら機嫌良く話しかけている。 「ムースの取り分け方がお上手です。きれいに取ってくださってありがとうございます」  これを聞いて、シダリーズは言葉を呑み込むことにした。代わりに、テーブルに置かれたフルーツの山からイチゴをひょいと取り、キセのムースにのせた。 「人類で初めてショコラとイチゴの組み合わせを考えた人って天才だと思いませんか?キセさま」 「まったく同感です」  キセは満面の笑みで頷いた。  ムースを食べ終えたキセがクルミのショコラに舌鼓を打っていると、テオドリックがサロンの入り口から顔を覗かせ、ちょっと顔をしかめた。 「すごい匂いだな」  この瞬間、その場にいた貴婦人たちのピンク色の視線が一斉にテオドリックに集中したが、テオドリックは素知らぬ顔でさっさとキセに近付き、その腰に手を添えて髪にキスをした。 「キセ、そろそろ帰るぞ」 「あら、もうですか?テオ殿下。わたしも一緒にいるのですけど、従妹のことは無視?」  キセの隣からシダリーズがひょいと顔を出して頬を膨らませ、更にその奥からオレンジを一切れ持ったスクネがおかしそうに口を挟んだ。 「大丈夫だ、シダリーズ姫。イノイルの王太子も無視されている」 「無視したわけじゃない」 「そうでしょうとも。かわいいキセさましか目に入らないだけですよね」 「そうだ」  しらじらとしたテオドリックの返答にシダリーズがくすくす笑うのを聞いて、キセは恥ずかしくなった。  思いが通じてからというもの、テオドリックは時折キセが戸惑うほどまっすぐに愛情を表してくる。以前であればこの愛情表現は見せかけのものだと考えただろうが、今はもう、それがテオドリックの本心であることを知ってしまっている。嬉しくて幸せで、そのくせ逃げ出したいほど恥ずかしい。身体の中を蝶々がたくさん飛び回っているような感覚だ。 「テオドリックもおひとついかがですか?とっても美味しいですよ」  キセは手に持った白い器からクルミのショコラを一粒テオドリックに差し出した。話題を変えるのにはこれが有効だと思ったのだ。  ところがテオドリックはそれを受け取らずにキセの手首を掴んで口を開け、キセの手からそのまま自分の口に運び、最後にキセの指先をぺろりと舐めた。  キセはびくりと身体をこわばらせ、次いで顔を真っ赤に染めた。テオドリックの目が淫靡に弧を描き、キセを誘惑するように唇を舐めた。 「甘い」 「…はい。あの、ショコラですから…」  キセは細い声でそう言った。テオドリックの視線ひとつで身体に火花が散り、その素肌に触れたくなる。  シダリーズは大きな目をパチクリさせながら二人を眺め、スクネを見上げて言った。 「…このお二人はいつもこうですか?」 「いつもこうだ。兄の目も憚らず」  スクネは苦虫を噛み潰したような顔でオレンジを食べた。 「お帰りの前に、殿下。あそこのホットチョコレートを一緒に取りに行ってくださいませんか?」  シダリーズがテオドリックににっこりと笑いかけ、離れたテーブルに置かれたホットチョコレートの鍋を指さした。花模様が浮き彫りされた白磁の小ぶりな鍋に、湯気の立つホットチョコレートがたっぷりと入っている。 「まだ食べられるのか、この甘ったるいのを」 「まだまだいけます。ね、キセさま」  シダリーズが言うと、キセも同じくらい笑顔で応じた。 「はい」 「ではキセには俺が給仕しよう」 「よろしいのですか?嬉しいです!」  テオドリックは顔を輝かせたキセに優しく微笑みかけ、シダリーズと共にホットチョコレートの鍋へ向かった。すかさず黒服の給仕係が陶器のカップを持って二人の貴人にホットチョコレートを取り分けようとしたが、シダリーズはそれを慇懃に拒んだ。 「ありがとう。でも、自分でしてみたいので、給仕は結構よ。たくさん取るところを見られたら恥ずかしいでしょう」  シダリーズは冗談めかしてそう言い、カップと陶のレードルだけ受け取って、給仕係を下がらせた。 「なんだ」  テオドリックは声を低くした。この人払いには意味があると、理解している。  シダリーズは少し気まずそうに眉尻を下げ、鍋からカップにホットチョコレートを注ぎながら、小さく唇を開いた。 「アニエス・コルネール嬢と、過去に何かありましたか?」 「何だ、それは」 「今まで夜遊び(・・・)をした女性たちの中にいませんでしたか?」 「ありえない。コルネールに妹がいたのも今日知ったんだぞ」  心外だ。  テオドリックはこの慎ましやかな従妹に向かって、生まれて初めてしかめっ面を見せた。 「藪から棒に何だと言うんだ」 「…アニエス・コルネール嬢が、キセさまに嫉妬しているのではないかと思ったんです」  なぜ。と訊ねるのを、テオドリックはやめた。どういうことが起きたのか、だいたい予想がつく。 「そうか」 「注意してあげてくださいね、殿下。わたしもキセさまのことが好きになったので」 「わかった。感謝する」  従兄のこの部下に言うような口ぶりがおかしくて、シダリーズはくすくす笑った。 「テオ殿下、なんだか変わりましたね」 「そうか?」 「ええ。昔は女性と見れば従妹のわたしにだって歯の浮くような言葉を使っていましたよ。ただのお礼一つでも‘ありがとう、心優しいシダリーズ’だなんて、わざわざ余計な文句を付け足して――」  シダリーズはテオドリックの低い声を真似、カップを持っていない方の手で前髪をかき分けるような動作をした。 「そんなだったか?」 「こんなでした。それに、心はどこか遠くにあるような感じでした。たくさんの女性と遊んでいても、あんまり楽しくなさそうで――」 「それ、キセには言うな」 「わかっています」  シダリーズはレードルをテオドリックに手渡し、苦笑した。 「でも、そのうち殿下の華々しい過去についてはお耳に入ると思いますよ」 「わかってる」  ふふ、とシダリーズは笑った。 「今は、本当に楽しそう。過去の女性関係を気にしたり、あんなふうに嫉妬したりする殿下は、初めて見ました。本当にキセさまが好きなのですね」  テオドリックは苦々しげに従妹を一瞥してキセのためにホットチョコレートをカップへ注ぎ入れた。  他の招待客が物珍しげにその様子を眺め、自分たちもと鍋の回りに集まり始めている。特に貴婦人たちは、麗しい王太子の御手が触れた陶器のレードルに一番先に触れたいがために、笑顔を貼り付けながら無言で押し合いをしているようだった。  シダリーズがちょっとおかしそうにテオドリックを観察していると、テオドリックはレードルを給仕係の手にあっさり戻し、ご婦人方の美しい手が汚れないよう給仕するよう命じて貴婦人たちへ微笑みかけてその場をさっさと後にした。 「ほら、そういうところも。以前の殿下ならご自分の使ったレードルを給仕係に返したりせずにあの中から好みのご婦人を選んでご自身で手渡したでしょうに」 「誘われたら応じるのが礼儀だと思っていたんだ。あの頃は」  今はキセ以外目に入らない。過去の自分が憎いわけでは決してないが、もし逆の立場だったらと思うと耐えられないほど苦痛だ。もしキセの過去に男がいたとしたら、そいつを殺したくなるに決まっている。 (いや、違った)  テオドリックは思い直した。  今この瞬間、性懲りもなくキセの口に手ずから小さなショコラを運んで食べさせているガイウス・コルネールをこそ、殺してやりたい。  このテオドリックの殺意を、キセの隣に立つスクネの試すような視線が制した。 「ふふ、キセさまも大変ですね。押しの強い殿方が近くに二人もいては」  シダリーズはくすくす笑ってテオドリックをからかった。  この時、テオドリックはサロンの隅でヴェロニク・ルコントとジョフロワ・ドーリッシュがこちらの様子を窺っていることに気付いていたが、そんなことはどうでもいい。  シダリーズはぎょっとしてしばらく大きなハシバミ色の目を(しばたた)いた。突然テオドリックがキセのために入れたホットチョコレートを自分で飲み干してしまったからだ。  テオドリックは甘ったるさに顔をしかめながら空のカップを茫然とするシダリーズに無言で押し付け、ズンズンとキセの元へ戻っていった。  中のフランボワーズと苦みの強いショコラがとても相性良く味わい深いなどと悠長に感想を述べているキセの肩を抱き寄せ、ガイウスに冷たい一瞥をくれてやった後、キセに礼儀正しく微笑みかけた。しかし、目の奥には怒りが燃えている。  キセはまた二人が喧嘩を始めるのではないかとヒヤヒヤしたが、テオドリックはガイウスの方を見ることなく、何か言いたげなキセの口を自分の唇で封じた。 「――!」  テオドリックの舌がそろりとキセの唇を舐めて離れると、顔が燃えるように熱くなった。こんなに大勢の目の前で口付けを受けたのは初めてだ。しかも、呆れ顔の兄の目の前で。 「帰るぞ、キセ」  テオドリックは短く言って、言葉をなくしたキセの肩を抱いたまま出口へ足を向けた。  キセは赤い顔でまだ口をもぐもぐさせながらガイウスとスクネとシダリーズをきょろきょろ見回し、ショコラを急いで飲み込んで三人に礼と暇を告げた。 「あの、イサクさんは…」 「あいつはまだ仕事がある」 「でも、お一人で…」 「大丈夫だ」  テオドリックがキセの肩を抱く手に力を入れた。キセは心臓が軋むのを感じながら、テオドリックに導かれるままコルネール邸を後にした。
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