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五十八、汪溢 - débordants -
キセは恐ろしい。
羞恥と戸惑いに涙を流すキセを見下ろしながら、テオドリックは背中がぞくりと震えるのを感じた。
淫蕩に溺れながらなお、これほど清らかなままでいられる存在があるだろうか。
テオドリックはキセの中で硬度を増した自分の一部が暴発しそうになるのを耐え、キセの身体を抱きしめて一度身体を離し、手首に巻いたクラバットを解いた。
「どこもおかしくない」
キセの肩を引き寄せて仰向けにさせ、頬に落ちた涙を指で拭うと、キセが星空のような瞳を向けてくる。額に汗が浮いてほつれた髪が貼り付き、血色の昇った唇は濡れて、テオドリックの情欲をますます煽るようだった。
「それでいいんだ。俺がそうした」
「うぅ」
キセは自由になった両手で顔を隠した。
何故かますます恥ずかしくて、テオドリックの美しい顔を見ることができない。
「なあ、キセ」
テオドリックはキセの手の甲にキスをして、甘い声で言った。
「隠すな。もっと恥ずかしがる顔が見たい。快楽に戸惑う顔も、淫欲に抗えずに感じて漏らす声も、全部俺だけのものだ」
おかしい。
意地悪なことを言われているのに、テオドリックの声が紡ぐ言葉だけで、内側から何かが溶け出してくる。
キセはじくじくとテオドリックを欲して熱を持ち続ける身体を持て余し、膝を擦り寄せた。
「キセ…」
テオドリックが耳朶を噛んでキセの腕からドレスの袖を抜き取り、乱れたドレスを引き下ろしてキセを裸にし、露わになったキセの乳房に吸い付いた。
「あ…!」
キセはほとんど反射的にテオドリックの肩を掴んだ。
テオドリックはこの機を逃さず唇を奪い、乳房の先端を指で愛撫し、キセの甘い声で耳を潤した。キセの顔は真っ赤に染まり、濡れた瞳は羞恥と快楽に蕩けている。
「もっと欲しい?」
ぎりぎりの理性でそう訊ねると、キセが小さく唸り、長く黒い睫毛を少しだけ伏せて、潤んだ瞳でそれに答えた。
(ああ、くそ。可愛い)
完敗だ。
何度挑んでも、この無垢な誘惑に勝てる気がしない。何度でもキセに陥落し、溺れるのだ。まるでそれが当然のことのように、テオドリックの身体は無様なほど熱く猛っている。
テオドリックは衣服を脱ぐこともままならず、着衣を乱したままキセの脚を掴んで開き、身体を貫いた。
「う、んっ…!テオドリック…」
ぶる、とテオドリックの背筋が震えた。
一度達したばかりのキセの内部はひくひくと脈動してテオドリックをぴったりと包み、きつく締め付けている。
「は…っ、キセ。あんたは俺のだ」
キセはあわあわと歓喜に溶けていく意識の中でテオドリックの瞳を見た。南の海のような緑色の瞳がなにかを希うような輝きを持ってキセを見つめている。
それが身体の奥に響くテオドリックの熱と同じくらいの強さで胸に迫り、キセは自分の中にある感情の激しさをまざまざと思い知った。
「…っ、はい。あなたのものです」
キセはテオドリックの背中にしがみ付き、シャツを強く握った。テオドリックが嵐のような激しさでキセの奥を叩き付け、熱情を深く刻みつけていく。
テオドリックは呼吸を荒くし緊張を始めたキセの膝を押し上げて、その気持ちよさに唸りながら最深部に入り込んだ。全身を灼かれるような快楽に包まれながら奥を何度か突いたとき、キセが高い声を上げて強くテオドリックを締め付けた。
テオドリックは激しい快楽に抗い、二度目の絶頂にくたっと脱力したキセの身体の至る所にキスをして痕を残し、シャツを乱雑に脱ぎ捨てて、再びキセを強く抱き締めてその奥を突いた。
「あっ!待って…まだだめです」
キセがびくりと震えて腕を掴む。その弱々しさが、テオドリックの血を余計に沸き立たせた。
「またいきそうか?」
「うう、あっ――あ、やぁ…!」
互いの肌を隔てるものがなくなり、燃えるように熱い身体がキセの身体を包む。テオドリックの激しい律動に耐えかねて、キセはもう一度身体中が弾けるような絶頂を味わわされた。テオドリックもこの甘美な肉体が促すまま、キセの中に愛欲を解き放った。
「愛してる、キセ」
キセは恍惚に身を委ねてテオドリックの身体を抱き締め、筋張った首の窪みに頭を擦り寄せた。テオドリックの丁子に似た香りが濃くなり、心をきゅうっと締め付ける。
「わたしも、愛しています。テオドリック」
「俺のキセ…」
腰に絡みついたテオドリックの腕が更に強くキセの身体を抱いた。息が苦しいほどだ。
「…テオドリックは、やきもち妬きなのですね」
テオドリックはキセの腿を濡らしながら中から抜き出てキセの顔を覗き込み、片側の唇を吊り上げて笑った。
「知らなかったか?俺は独占欲が強い。覚悟しておけよ」
キセは頬と額にテオドリックの口付けを受けながら、顔を赤くした。
「わたしも、そうかもしれません」
テオドリックが顔を覗き込んでくるのが恥ずかしくて、キセはちょっと顎を引き、目蓋を伏せた。
「ああ、以前は花の礼に婦人たちに贈ったキスで妬いていたな」
「う、はい…」
「今日もか」
「……エメネケット・ロンドで…」
「こいつ」
テオドリックがキセの鼻をちょんとつねった。
「あんたもしてただろ、コルネールのやつに」
「はい。それなのに嫉妬してしまいました…」
キセがおずおずと視線を上げ、眉尻を下げてひどく心許なげな表情を見せた。きらきらと黒曜石の瞳が不安げに揺れている。
「わたしのこと、幻滅してしまいましたか?」
(うっ)
可愛い。
テオドリックは己の身体の正直さを呪った。たった今解き放ったばかりなのに、キセへの欲望は際限がない。
「幻滅なんかしないさ」
「…あの、ひゃっ」
下腹部に異変を感じて身体をもじもじとさせ始めたキセを身体の上に抱き上げ、再び硬くなった自分の一部をキセの中心に擦り付けた。
「もっと欲しくなるだけだ」
「あっ…テオドリック、これ…」
「ん?」
テオドリックは薄く笑ってキセの背を抱き、キセから折り重なるように引き寄せて唇を重ねた。小柄で華奢な体つきの割に豊かな乳房が胸に押し付けられ、熱く脈打つのを感じる。
「ん。このまま、もう一回」
「えっ、あっ!ちょ、ちょっと待っ――」
キセは腰を浮かせて逃れようとしたが、遅かった。
「だめ。そんなに可愛く嫉妬されたら、止まらない」
「あっ――!」
キセはテオドリックに跨がったままそれを受け入れ、後はテオドリックの思い通り、荒海のような快楽に溺れた。
頬に触れる体温でキセは目を覚ました。
窓の外から鳥がピチピチ鳴くのが聞こえ、既に高い位置に昇った陽光が、目の前で優しく微笑むテオドリックの顔を明るく照らしている。美しいアッシュブロンドの髪が月光そのもののように輝いている。
「身体は大丈夫か」
キセは頬を赤くした。自分は毛布の中で裸のまま寝乱れているのに、テオドリックは白いシャツとグレーのベスト、揃いのズボンに青いクラバットまできちんと身に付けて完璧な王太子の姿でいる。
「だ――」
大丈夫です。と言おうとして、咳き込んだ。喉が痛い。昨夜自分がどれほど乱れていたか思い知らされた気がしてひどく恥ずかしくなり、思わず目を逸らした。
「ん」
と、テオドリックが水の入ったグラスを差し出したが、キセは明後日の方向を向いたまま、もぞもぞ身動きして砂に潜る貝のように毛布の中に隠れてしまった。
「おい」
テオドリックはグラスをサイドテーブルに置いて毛布を剥ごうとしたが、キセは毛布をしっかり身体に巻き付けて抵抗した。
「だめです」
「なにが」
毛布からはみ出たふわふわの黒髪を指でちょんちょんと弄びながら、テオドリックが訊いた。形の良い唇が綻んでいる。
「見ないでください…」
「なぜ」
「何も着ていませんし、髪はぼさぼさだし、お風呂にも入っていませんし、たぶん、顔もひどいです。ですから、見てはだめです」
「……」
テオドリックが黙ってしまった。
(うう、呆れられてしまったでしょうか)
我ながら情けなくなる。が、仕方がない。
(だって、こんなに――)
キセは毛布を少しだけずらしてベッドに腰掛けるテオドリックの背中を見上げた。服の上から肩甲骨が隆起し、肘まで捲り上げられた袖から筋張った腕が伸び、キセの目の前に細く長い指が置かれている。
(おかしいです)
顔を見なくてもこの人が完璧だと分かる。その体温を直接感じなくても、鳩尾がぎゅうぎゅう締め付けられて、ふわふわした感覚が全身に広がっていく。
心臓が痛い。病なのではないかと思うほど、テオドリックがそばにいると苦しくなる。
その時、頭上でテオドリックが大きく溜め息をつくのが聞こえた。
「…ああ、だめだ」
独り言のように呟かれた言葉を聞いた瞬間、キセが身体に巻き付けていた毛布が力任せに剥ぎ取られ、毛布の代わりにテオドリックの身体がキセをがっちりと包み込んだ。
「あっ!だめですってば」
「見るなという方こそだめだ。あんたはなんでそんなに愛らしいんだ?」
「えっ」
キセは顔が爆発するのではないかと思った。いや、もうしているかもしれない。
「あんたを裸にしたのは俺だ。身体中にキスして汚したのも俺だし、ついでに痕をつけたのも俺だ。あと、あんたはどんな顔をしていてもきれいだから気にしなくていい。髪が乱れているのも無防備で可愛いが、気になるなら俺が結う。だから隠すな。なんなら風呂にも入れてやる」
「…!そ、それはいいです。自分でできます」
今度は心臓が爆発してしまいそうになった。テオドリックの言動は心臓に悪い。
「キセ」
甘い声でテオドリックが名前を呼ぶ。キセは堪らずテオドリックの背にしがみ付いた。そうでもしないと心臓に殺されてしまう。
「テオドリックはわたしに甘すぎます」
「甘やかしたくさせるキセが悪い」
「そんな――」
テオドリックはキセの顎を持ち上げて、唇を重ねた。本当はそろそろ政務に戻らなければならないが、まだこのままでいたい。
その時、寝室の扉が重たいノックの音を響かせた。
「おい、テオ!政務中だということを忘れるなよ」
イサクの声だ。キセは肩をびくつかせてテオドリックの腕の中で小さくなった。
テオドリックは小さく舌を打って渋々キセの身体を離し、自分が昨夜キセの肌のあちこちに残した痕を短く眺めてからキセの唇にささやかなキスをした。
「風呂、テレーズが用意してるから使え。寝るなよ」
「はい」
キセはテオドリックの唇の感触を惜しむように指で自分の唇をなぞり、熱っぽい目で頷いた。
無自覚なのが怖い。もう抜け出せないほどこの女神のような女に溺れている自分が滑稽だ。海鷲の娘を誘惑するつもりで神殿へ迎えに行ったというのに、すっかり自分が虜にされてしまった。
だが、今はそういう自分もいいと思える。多分、キセがこういうみっともない自分も慈しんでくれるからだ。今、目の前で見せている花のような笑顔で、欠点だらけの王太子を浄化してくれるからだ。
「ああ、そうだ。さっきシダリーズがあんた宛ての手紙を使者に持たせて寄越してきた。あとで見ておいてくれ」
本当はそれがキセを起こしに来た理由だった。というか、テレーズが起こしに行くというのをわざわざ政務を中断してまで止め、自分で来た。
「水も飲めよ。蜂蜜湯も用意させる。喉に良い」
キセはテオドリックが寝室から出て行った後、ベッドに身体を投げ出して枕を力いっぱい抱き締めた。まだ心臓が割れそうだ。
(あれは、あれはだめです…!)
なにかが胸の内からどっと溢れ出して、止められない。
テオドリックと初めて出逢ったときは、月神を祀るような気持ちで慈しみ、共に生きてゆけると思った。今は、いつの間にか気持ちが変質して、貪欲なまでにテオドリックを求めてしまう。テオドリックから愛情を与えられても、際限がない。もっと欲しくなる。
きっとテオドリックが神殿までやって来なければ、こういう自分がいることを終ぞ知らぬまま人生の幕を閉じていただろう。オシアスとして生きると心に決めていた頃はそれが理想だと思っていただろうが、今は、テオドリックを一人の男性として愛おしく想う自分のほうがいい。
(テオドリックは不思議…)
自分でも知らない自分を見つけ出してくれる。
「ふしぎです」
テオドリックを想うと、胸の中が温かくなる。
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