九十七、不変、可変 - immuable, muable -

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九十七、不変、可変 - immuable, muable -

 寝室の扉を閉めるなり、テオドリックはキセの身体を壁に押し付け、隙間もないほど唇を重ねてきた。  くらくらと眩暈がする。まるで獣に食べられているみたいだ。激しく触れ合う舌が、どちらの唾液で濡れているかわからないほどに混ざり合って、次第にキセから考える力を奪っていく。 「ずっとこうしたかった」  唇が触れ合う位置でテオドリックが焦れたように囁いた。 「裁判の間、ずっと」 「そんな、不謹慎です…」  キセが掠れた声で抗議すると、テオドリックは吐息だけで笑い、顔の角度を変えて、もう一度噛み付くような口づけをした。 「あんたの誘惑に勝てると思うか?」 「誘惑なんて…」 「してる。全身で」 「んん…」  反論はテオドリックの唇に飲み込まれた。  互いに息が上がって唇の触れ合いに満足できなくなった頃、テオドリックはキセの腰を抱き上げて大股で奥へ進み、ベッドにその身体を下ろして、自分も乗り上げた。  腰の周りを飾っている絹のベルトを解いてその先端にキスをするテオドリックの仕草が、ひどく官能的だった。誘惑されているのは自分の方だ。キセは激しく疼き出した腹の奥を持て余して、長いドレスのスカートの中で脚を擦り合わせた。  鬱陶しげにクラバットを外したテオドリックの白い襟から覗く首筋が、キセの感覚をふつふつと鋭くさせる。 「きれいだ」  テオドリックの美しい唇がうっとりするような音を発して、緑色の瞳が愛を語っている。  夏雲が空に広がるようにゆっくりと覆いかぶさってきた愛おしい男の顔の輪郭をキセはそっと撫で、その造形に見惚れた。なんて美しい人だろう。 「あなたこそ」  テオドリックが頬に優しく触れるキセの手を握り、手のひらにキスをした。  とつとつと心臓が打ち、全身をざわざわと欲望が駆けていく。 「今日の正装がいつもに増してかっこよくて、どきどきします…」  ふ、とテオドリックの唇が淫靡な弧を描き、キセの指先を舐めた。キセはくすぐったさに小さく唸った。 「これからもっとひどくなる」  これは真実だった。  緩慢な仕草でドレスを剥がされている間、わざとなのか無意識なのか、時折首や胸元や腰にテオドリックが微かに触れるたびに身体の中で脈動が激しくなり、火花が大きくなる。  キセの舌を散々に味わった唇が啄むように首筋を下り、蝋燭に火を灯すようなささやかさで夜気に晒された胸を食んだ。 「…っ、ん」  キセがテオドリックの肩を掴んで悶えると、テオドリックが胸から視線を上げてキセの目を捕らえた。自制をやめた男の顔だ。  長い指が胸の丘を這い、頂を指の間に挟むように撫でる。じりじりと快感が肌を伝って、心臓が破裂しそうなほど打ち、触れ合う肌からテオドリックの鼓動が聞こえる。自分と同じくらいの激しさで脈打ち、熱くなっている。  身体中、隅々まで触れられ、或いは歯を立てない程度に噛まれ、キセの中で何かが溢れ出しそうになった頃、テオドリックの指が脚の間に触れて内側をゆっくりと押し広げた。  恍惚の悲鳴を上げたキセの口をテオドリックは自分の口で塞ぎ、キセの身体の中に更に大きな火花を散らして快楽を巡らせていく。キセはテオドリックの乱れたシャツにしがみ付き、迫り来る嵐のような波に身を委ねた。 「…なあ」  テオドリックの低い声と共に熱く吐き出された息がキセの耳をくすぐる。それさえ刺激になって、キセは唸り、浅く呼吸を繰り返しながら自分の身体の上にいるテオドリックをとろりとした視線で眺めた。 「もう入りたい」  この瞳を見ているだけで燃えてしまいそうだ。  キセは切羽詰まったように眉を寄せたテオドリックの頬を引き寄せ、唇を重ねて、シャツのボタンを外し始めた。 「はい…。わたしも、もう――」  もう一度テオドリックの唇が降りてきた。同時に脚を抱えられ、まだ乱れた衣服がまとわりついているまま、内側を貫かれた。指で触れられるときとは全く違う、強烈な快感だ。もう何度も中へ迎え入れているというのに、その度に新たな快楽が開いてゆく。  キセは硬いテオドリックの肉体の下で何度も悲鳴を上げた。身体が軋むほど強く抱き締めてくるテオドリックの肌が、灼けるように熱い。  身体の奥に与えられる甘美な衝撃がキセの意識を何度も嵐の中へ放り出し、その度にテオドリックに呻き声を上げさせた。テオドリックが自分の身体で快楽を得ているのが嬉しい。そして自分もそれを感じる度に、貪欲になっていく。 「…ッ、ああ、キセ」  恍惚と掠れた声がぞくぞくとキセの感度を上げた。羞恥も忘れてこの行為に没頭し、貪るような口付けの合間に愛の言葉を交わし合い、激しい絶頂に飲まれた後、キセは何も身に付けていないテオドリックの温かい身体と蕩けるような感覚に身を委ねて目を閉じた。  テオドリックは腕の中で寝息を立て始めたキセの波打つ黒髪を柔らかく梳き、キスをして、毛布を掛けてやった。  キセが漠然と感じている不安は、多分消えないだろう。今日の裁判の様子に違和感を覚えたのはキセだけではない。テオドリックもまた、何か奇妙なものを感じていた。ただ適切な言葉が見つからないというだけで、きっと同じことを考えているはずだ。だが、二人でいるときだけは、そういう得体の知れない苦しさから解放されて安らいでいて欲しい。  テオドリックがキセの頬をちょんとつつくと、キセが愛らしい唇をもぞもぞさせて再び寝息を立てた。多分三十分もすれば目を覚まして、夕食も取らずに眠ってしまったことを恥ずかしがり、赤くなった顔を隠そうとするに違いない。 (あ。…まずい)  テオドリックはベッドから下りて立ち上がり、床に脱ぎ捨てた服を拾い始めた。このまま隣にいたらまた襲いそうだ。再び熱くなり始めた身体の一部が自制心に猛烈な抗議を始めたが、今日はもうこれ以上キセに負担を強いるわけにはいかない。  明日も早朝からキセを伴って法廷に赴くことになる。――アントワーヌ・デヴェスキの評決が下されるのだ。  アントワーヌ・デヴェスキの裁判の前に、一つならず、明らかにしなければならないことがある。ガイウスはこの日の夕刻、アニエスの療養するルグラン診療所を訪れていた。  病室の白い扉の前で、足を止めた。中からアニエスと男の笑い声が聞こえる。――ブノワ・ルグランだ。  扉を開くと、部屋の奥の装飾の少ない小綺麗なベッドの上で身体を起こし、すっかりいつもの元気を取り戻したアニエスの笑顔が見えた。が、それはこちらに白いシャツの背中を見せているルグラン医師に向けられたものだ。  まつ毛の長いネコのような目がこちらを向いて細まると、ルグラン医師もこちらを振り向いて礼儀正しく微笑み、ガイウスに挨拶をした。 「お兄さん。アニエスはもうすっかり元気ですよ。明日には退院できます」 「そのようだな」  ガイウスも儀礼的な笑みを返した。 「では、僕はこれで」  ルグラン医師は病室を出て行く前に、アニエスに向かって機嫌良く言った。 「アニエス、さっきの話、考えておいてくれ」 「わかったわ」  そう言って手をひらりと振ったアニエスのベッド脇のソファにガイウスは腰を下ろし、ひんやりとしたアニエスの頬に手の甲で触れた。昨日よりも血色が良い。 「心配しないで。もう平気よ」 「声も戻ったな」  ガイウスが優しく微笑むと、アニエスは不覚にも動揺した。なんだか、いつもと違って見える。一体ガイウス・コルネールは、こんな風に愛に満ちた笑顔を見せる人間だっただろうか。 「ブノワがたくさん笑わせてくるからよ。冗談が好きなところ、変わってないわ」  ガイウスは眉間に皺が寄るのを辛うじて耐えた。なぜか面白くない。が、決して悟られまいとした。アニエスの心に余計な負担をかけたくない。しかし、こればかりは聞かずにいられなかった。 「‘さっきの話’って?」 「ああ、大した話じゃないわ」  そう言うアニエスの顔が、‘コルネール兄弟の妹’を演じていたアニエスの顔になっていることに、ガイウスは気づいている。しかし、今はこれを追及するよりも先に話すべきことがある。一昨日も昨日もこの病室で顔を合わせたと言うのに、告げることができなかったことだ。  柄にもなく、怖かったのだ。血がつながっていなければ何が変わるのかとキセに問われた時から、開けてはいけない扉に手をかけているような感覚に囚われ続けている。  だが、もうだめだ。これ以上は引き延ばせない。アニエスが父親の真実を知らないままその死の決定を知るのは、どう考えても道理に合わない。 「どうしたの。顔色が悪いわ」  沈鬱な暗闇を映す青灰色の瞳が、アニエスの心をざわめかせた。そう言えば、目を覚ました後、こんな顔で何か話すことがあると言っていた気がする。 「明日の裁判の前に、聞きたい」 「なあに?」 「お前、全部知りたいか。お前の父親について、本当のことを」 「それって、知らないままでいて欲しいみたいに聞こえるわね」 「…そうかもしれない。だがそれは公平じゃないだろう。お前には――」 「‘知る権利がある’って言うんでしょ。それならつべこべ言わないで教えて。兄さまらしくないわ」  ガイウスは小さく息をついた。愚問だった。自覚はあったが、躊躇せずにいられなかった。心のどこかで、アニエスが知りたくないと答えることに僅かな望みを持っていたのだ。まったく、馬鹿げている。アニエスのことは、アニエスが決める。キセの言葉は全くもって正しい。 「‘アントワーヌ・デヴェスキ’が本名じゃないのはもう知っているな」 「ええ」  アニエスは頷いた。 「最初の名は‘ハンス’だそうだ。何度も名を変えて人を騙し、本物のルネ・ヴィエルニルを殺して名前と身代を乗っ取り、コルネールに婿入りした。大罪人だ」 「わたしたちが思ってたよりとんでもない人でなしだったわけね」  冷静な声を必死で絞り出すように言って、アニエスは唇を固く結び、ガイウスの目をまっすぐ見た。  茶色の瞳がカーテンの奥からぼんやり差す夕陽を受けて蜜色に光ると、その光の破片が刺さったようにガイウスの胸が痛くなった。 「…どうして、‘お前の(・・・)父親’と言ったの」  ガイウスはぎくりとした。このことはもっと慎重に伝えるはずだった。しかし、自分の迂闊な発言のせいで、アニエスはもう何か察している。開いた唇が、やけに重く感じた。 「わたしはあの男の息子ではない」  アニエスは言葉を失った。この娘にしては珍しく、ひどく気の抜けた表情で固まっている。 「………じゃあ――」 「お前の兄はセオスだけだ。わたしは違う」 「それって…鵜呑みにしていい情報なの?」 「あの詐欺師の言うことを全部信じるわけではないが、恐らく真実だ」  そう直感が言っている。デヴェスキのことは全く信用ならないが、あの話は寧ろ、辻褄が合う。既に人を雇って調べさせているが、同じ結果になるだろう。 「…あなたの父親は?」 「マルセル・ピノという名前の美術商だったらしい。…わたしが生まれる前にハンスが殺した」  アニエスにはこの構図が見えた。理由など、聞くまでもない。異常な野心の犠牲となったのだ。コンスタンス・コルネールも、マルセル・ピノも。 「ねえ、大丈夫?」  そう問われてガイウスは顔を上げた。顔を上げて初めて、自分の手が痛みから守るように頭を抱えていたことを知った。 「熱く溶けた鉛を飲んだみたいな顔をしてるわ」 「熱く溶けた鉛を飲んだ人間を見たことがあるのか?」 「ないけど」  アニエスは喉の奥で虚ろな笑い声を上げた。ガイウスには今アニエスがどういう感情でいるのか、読み取れなかった。当然だ。アニエス自身も自分がどんな気持ちでいるのか分からないのだから。  だから、アニエスはガイウスの顔を見ることもできなくなっていた。 「アニエス…」 「ごめん。ちょっと――」  アニエスはガイウスの言葉を遮って顔を背け、ゆっくりとベッドに横たわった。 「しばらく一人になりたい」 「…わかった」  ガイウスは静かに立った。そして、扉の前で一度足を止め、窓の方を向いたまま微動だにしないアニエスを振り返った。 「あの男が、お前に会いたがっている。死ぬ前に娘の顔を見たいと。お前の考えで決めろ」 「…うん」  声が震えなかったのを自分で賞賛すべきだ。と、アニエスは内心で思った。  扉が閉まった音が聞こえると、同時に目の奥から熱と一緒に涙がどっと溢れた。頭の中がぐちゃぐちゃだ。嗚咽が外に漏れないように、アニエスは枕に顔を押し付けた。  こんなの、どう対処したらいいか分からない。  父親が詐欺師だっただけでなく、自分の欲のために殺人を繰り返した異常者だったことも、ずっと恋い焦がれていたガイウスと血が繋がっていなかったことも、ガイウスの父親を自分の父親が殺していたことも、何もかも受け止めきれない。  最悪だ。  半分だけ血が繋がった兄妹でいるよりも、よほどひどい。
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