九十八、怪物 - le mal -

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九十八、怪物 - le mal -

 翌朝、キセはセレンと共にルグラン診療所に立ち寄った。裁判で証言する予定のアニエスを気遣ってのことだ。  ところが、アニエスは病室にいなかった。 「退院の前に少しお散歩をされるとかで、五分ほど前にお出かけになりましたよ。すぐに戻るからお供はいらないとおっしゃって、お一人で」  キセはそう案内してくれた受付の女性に礼を言い、アニエスの病室でその帰りを待つことにした。  この時アニエスは、監獄にいた。  湿った石の螺旋階段を下りて独房へ辿り着くと、案内してくれた看守に礼を言い、鉄柵の向こうで粗末な毛布に包まって眠る老人を見た。 「お父さま(・・・・)」  喉の粘膜が貼り付くようで、ひどく不快だった。この薄汚い老人を父親と呼ぶことを、身体が拒絶しているようだ。  老人は飛び起きるように上体を起こし、黒く長い外套を纏ったアニエスの姿を認めると、見た目よりもずっと頑健そうな足付きで、足枷の鎖を引きずりながら鉄柵へ駆け寄ってきた。 「アニエス…!ああ、生きていた。わたしの娘が生きていた…」  涙ぐむ父親の皺の多い顔を見て、アニエスは息苦しくなった。どういうわけか、この怪物のような男に愛されているような気分になった。しかし、この驚きと同じだけ、怒りが湧いた。憤怒と言っていい。娘を愛する情緒を持ちながら、他者の命を自分のための消耗品のように扱うなど、到底理解ができない。まるで違う生き物だ。そして、呪わしいことに、自分はその血を受け継いでいる。 「本当にお前は、ジュスティーヌによく似て美人だ。彼女と出逢った頃を思い出すよ。行きつけの酒場によく働く娘がいて、それがお前の――」 「やめてちょうだい。お母さまの話は、あなたの口から聞きたくない」 「わかってくれ、アニエス。お前の母――ジュスティーヌのことは、心から愛していた。汚泥にまみれたわたしが唯一、心を許せる女だったんだよ」  この男から何を聞いても、全てが陳腐で、信用できない。子供の頃からそうだった。次はいつ‘家族ごっこ’をしにやって来るのか約束もなく、病気の母がうわごとのように名を呼んでも姿を現さない。そのくせ、気まぐれに顔を見せるとまるで心から愛おしむような素振りを見せて母に甘い期待を抱かせ、亡霊のように消えるのだ。もうこの人の何が真実なのかと疑念を逐一抱かなければならないことに、疲れてしまった。 「他の人は?」  老人は何のことかよく分からないというように怪訝そうな顔をした。 「コンスタンスのことか」 「彼女だけじゃないわ。お母さま以外の、全ての人間よ。心の、例えば千分の一でも誰かに分けたことがあったのかしら。一体――」  アニエスは声を荒げそうになるのを、息を吐いて耐えた。 「一体、…今まで、何人殺したの」  デヴェスキの目が暗い影を映した。石壁に陽光を遮られた牢獄では、いっそう影が濃く、殺人者の暗い顔をより酷薄に見せる。 「あの男からどう聞いたかは知らないが、時には手を汚すことも必要だ。お前なら分かるだろう」 「ガイウスは、事実をありのまま教えてくれたわ。本物のルネ・ヴィエルニルを殺して人生を乗っ取ったことも、ガイウスの父親を殺してコルネール家に入り込んだことも。他には何人殺したの」 「さあ…五人かな。六人かも知れない」  デヴェスキは虚空を見つめた。本当に分からないようだった。その目には、後悔はおろか、罪悪感も、彼らを思い出そうという思慮もない。  アニエスの軽蔑するような顔に気付き、デヴェスキはまるで赤子をあやすような調子で笑顔を作り、猫撫で声で説いた。 「わかってくれ、アニエス。彼らは必要な犠牲だったんだよ。誰しも生きるために糧を得るだろう。魚を(いさ)って食い、牛や羊や豚を屠って食う。それと同じだ。彼らには悪いことをしたが、心から感謝しているよ。何も持たぬわたしに人生を、運命を切り開く力を与えてくれた」  異常だ。  アニエスは胃から何かが込み上げてくるのを感じた。  この男は異常だ。ヴェロニク・ルコントよりも、醜く、哀れで、軽蔑すべき存在だ。 「あなたみたいな人は、世に出るべきじゃなかったんだわ。いっそ誰もいないところでひっそり生きて、誰とも出会わず、ひとりで死んでいけばよかったのよ」 「ああ、アニエス。わたしの娘ならわかってくれると思っていた」  デヴェスキは心底落胆して言った。その目が本当に悲しみを映していたことが、アニエスには恐ろしかった。 「冗談じゃない…!あなたの娘だなんて、恥辱でしかない」 「お前もすっかりコルネールの人間になってしまったわけか。残念だ」  デヴェスキは瞳を暗くして再び殺人者の顔に戻り、鉄柵から一歩退いた。 「…何故、来た。全ての罪を告白させろとでもあの男に言われたか」 「わたしがすることはわたしが決めるわ」 「ハハ、それでこそわたしの娘だ」 「憐れね」  とアニエスが冷淡に言ったのは、本心だった。嫌悪や軽蔑だけでは、憐れみを打ち消すことができない。 「人を殺してまで運命を支配したかったあなたが、死ぬ場所さえ選べないなんて」 「処刑はお前が見届けてくれるのか?」 「いやよ。わたしと同じ目をした人の首が落ちるところを見るなんて、御免だわ」  デヴェスキはニヤリと笑った。どこか、誇らしげでもある。 「鏡を見るたびに、憎い父親の影を見るのだろうしなぁ。小さなアニエス」  心底怖気がする。それが真実だからだ。自分の目の中に、父親の影がある。 「わたしの人生でいちばんの汚点は、汚らしいあなたの存在がわたしの命を生み出したという事実よ」  これほどの嫌悪感を露わにしたアニエスを見ても、デヴェスキはどこか愉しそうだった。これが今生の別れだ。この先の長い人生の中で、きっとこの父親の顔も次第に朧気に忘れていくだろう。その、茶色い目以外は。  アニエスは鉄柵に背を向け、衛兵の立つ扉へと向かった。 「息災でな、小さなアニエス」 「さようなら、お父さま」  鉄の扉が閉まる前に、デヴェスキは妙なことを言った。 「御者(・・)にチップを弾んでやれよ」  アニエスは一度だけ振り向いて機嫌良く笑う父親の顔を一瞥し、二度と振り返らなかった。  この後、アニエスは馬車に揺られる間、無心で窓の外の景色を眺め続けた。頭に思考が入り込まないようにすることで必死だったのだ。あと一滴でも水が増えれば溢れてしまうほどいっぱいに水を張った甕を両手で運んでいるような気分だった。  誰と挨拶を交わしたかもはっきりしない中、覚束ない足取りで病室へ戻ったとき、カーテンを暗く閉め切ったはずの部屋が陽光でいっぱいに明るくなっていた。 「おかえりなさい、アニエス」  陽光の中でキセが笑った。ベッド脇の椅子に腰掛けるセレンの後ろに立ち、セレンの茶色い髪を三つ編みに結っているところだった。  最後の一滴だ。  アニエスは水の溢れた甕を手放した。  王太子妃が侍女の髪を結うなんてどういう料簡?とか、今日退院なんだから見舞いなんて来なくてもいいのに。とか、叩きたい憎まれ口はいくつかあるが、もうどうでもいい。  脚が勝手に駆け出してキセに飛びつき、その勢いのままキセをベッドに押し倒すと、今度は涙が勝手に溢れ、叫ぶような声が喉から勝手に飛び出した。  キセは子供のように泣き叫ぶアニエスをそっと無言で抱きしめ、あやすように背をさすってやりながら、驚いた様子で立ち尽くすセレンに柔らかく微笑んだ。セレンは僅かに顎を引き、三つ編みの途中だった髪をくしゃくしゃとほぐして真っすぐに直し、剣を持って病室の外に出、扉を閉めた。  キセには扉の外でルグラン医師らしき男性とセレンが話している声が聞こえたが、アニエスの嗚咽にかき消された。多分、セレンが「おんなの事情です」とか何とか言ってやり過ごしてくれていることだろう。  やがて全身を震わせるほどの慟哭がやみ、アニエスの息遣いが穏やかになった頃、キセは病室の天井の木目を眺めながら、自分の身体の上でスンスンと鼻を鳴らすアニエスの髪をそっと撫でた。 「…できなかった」  アニエスが掠れ声で囁いた。 「それでよいのですよ」  キセは何も訊かずに言った。 「知らないでしょ…。何しようとしたか」 「はい。でも、アニエスが心に従ったことは間違いではないです」  この時、アニエスがキセの上から退いた拍子に黒い外套のポケットから手のひらに収まる程度の茶色の小瓶がコロリと転がった。  アニエスはのろのろとベッドから下りて瓶を拾い上げ、サイドテーブルに置いた。 「…あとで薬品棚に戻しておくわ」 「はい。それがいいです」  キセもベッドから下り、アニエスの真っ赤に腫れた目をにっこりと覗き込んだ。 「あなたは自慢のお友達です」  何となく、アニエスにはキセが全てわかっているような気がした。  牢獄の父親に会いに行ったことも、毒の入った瓶を渡して自死を促そうとしたことも、多分キセはわかっているのだろう。  本当は、死罪を目前とした父親に、死に方の選択肢を与えることで、娘として最後の情けをかけてやりたかった。  が、できなかった。  この瓶を渡したら、自分も怪物になってしまう気がしたからだ。 「差し出がましいとは百も承知ですが――」  キセは柔らかい手でアニエスの両手をしっかりと握った。 「ガイウスさまと、これからのことをよく話し合ってください。おふたりの友人として、お願いです」 「…聞いたのね」  ちょっと責めるような口調だ。 「はい」  と、キセは柔らかく笑んだ。 「でも、苦しみを分け合える人がいるって、奇跡みたいに素晴らしいことだと思いませんか?」  これは、アニエスには本人の知らないところで重大な秘密を知ってしまったことに対する子供じみた言い訳にも聞こえたし、真実にも聞こえた。  例えばガイウスやキセがアニエスの苦しみを同じように受け止め、悩んでくれるのなら、なるほどそうかもしれない。例えば答えが出なかったとしても、少なくとも孤独ではない。 「そうかもね」  アニエスは外套を脱いで床に放り、ごろりとベッドに横になった。 「ひどい顔でしょ。しばらく冷やさないと…」  キセはくすくす笑った。 「泣いた後のお顔も可愛らしいですが、セレンに何か冷やすものを頼んでもらいましょう。帰りの馬車にも、もう少し待っていただくようお願いしてもらいますね」  アニエスは顔を上げた。 「馬車…」  そう呟いた後、初めて父親の最後の言葉の意味を考え始めた。 「…‘御者にチップを弾んでやれ’」 「あ!そうですね。とてもよい考えです。御者の方に…」 「違うわ。父が言ったの。最後の最後に…変だわ」  首を傾げるキセの顔を見て、アニエスの胸に不吉な予感が迫った。 「ねえ――」  アニエスはベッドから身体を起こし、キセに詰め寄った。キセは目を丸くしてアニエスの顔を見つめ返した。 「あなたをドーリッシュの屋敷に連れて行った御者は、捕まったの?」  キセは無言で首を振った。  この日、デヴェスキの裁判が行われることはなかった。  裁判の時刻に衛兵がデヴェスキを外へ出そうとしたとき、デヴェスキは鉄柵に吊したベルトで縊死していた。  壁には「運命はわたしを支配しない」と、指を切った血で記されていた。死を自ら迎えに行くことで、この男なりの矜持を守ったに違いなかった。  監獄の遣いからアニエスにその報せがもたらされたのは、ちょうど荷造りを終え、病院を出ようとしていた時だった。強く抱き締めてくるキセの腕の中で、馬車の前に立つガイウスの目を見た。二人の兄妹としての繋がりが、完全に絶たれたような気がした。
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