秘書課別室

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秘書課別室

 私物をまとめ、紙袋に移す。そんなに私物を置いているつもりはなかったが、意外と出て来るものだと錦織(にしこり)は思った。 「課長がなんで辞めないといけないんですか!」  部下がそう言う。 「誰かが責任を取るのは必要だからねえ。上司はそういう時のために高い給料をもらっているんだよ」 「だったらそれは部長でしょう?課長の進言をきかずに強引に決めた部長のせいで失敗したんだから!」 「まあまあ、そう言わずに」  請け負った警護の仕事はストーカー事案だったのだが、まだ引き上げるのは早いと言う錦織や現場の判断に異をとなえ、「もう安心」と警護を打ち切り、その2日後に元依頼人はストーカーである元夫に殺害されたのだ。  錦織はいきり立つ部下を穏やかに宥め、紙袋を手に立ち上がった。 「これに懲りて、現場の意見を汲んでくれるといいがねえ。それと、君達も気を引き締めて、またしっかりと頼むよ」 「はい。  課長はこれからどうされるんですか?」 「まあ、のんびりと老後の余生を楽しむかな。老人会とかシルバー人材とか」  にこにことして錦織が言った時、机の上の電話が鳴り、錦織は反射的にそれを取ってしまった。 『錦織課長。よかった、まだいてくれて』  それは、ついさっきフランス出張から帰って来たばかりの社長だった。 「社長。お世話になりました。御挨拶できてよかったですよ」 『いやいや。ちょっとこっちに来てくれないか。待ってるから』  それで電話は切れ、錦織はやれやれと受話器を置いた。 「あの人は忙しい人だからねえ、全く。  じゃあ、元気で」  錦織は、社長室に向かって歩き出した。  警察を40過ぎで辞める時、錦織をスカウトしたのが大学のOBに当たる社長の柳内だった。それで錦織は、柳内警備保障に再就職したのだ。 「柳内(やない)社長。色々とお世話になりました」  社長室で待っていた柳内は、それを笑い飛ばして言う。 「なんだ、もう終わりみたいなセリフだな」 「いや、そうなんですが。報告も辞表も上がっているでしょうに」 「隠居は早いだろ?もうちょっと頼むよ。預けたい人間がいるんだから」  言いながら、人事ファイルを寄こす。 (昔から、パワフルでやり手でカリスマ性のあるおちゃめな人で、いつの間にかこの人のペースになっていたなあ)  それを思い出した時には、言われるがままにファイルを手に取った後だった。そして、思わず真剣な顔になる。 「ほう」  柳内はニヤニヤとしながら、そんな錦織に言う。 「ちょっと新しい部署を作ろうと思ってね。俺直属の部署で、誰にも文句は言わせない。人員はちょっと変わった子達になるとは思うんだけど、いい子なんだよ」  一番上には、公安時代にずっと報告書で見て来た顔写真と名前の載った身上書があった。  篠杜 湊(しのもり みなと)、22歳。顔立ちそのものは端正と言っていい。しかし、正面を向いてカメラを見るその表情は、証明写真というには不敵というか、不機嫌というか、何かに挑むように、少しの嘘も許さないとでもいうかのように見る者を睨みつけている。 「妹に似て美人だろう?」 「ああ、先輩の自慢の妹さんに似ていますねえ。小さい頃よりも」 「だろう?」 「やっぱり、馴染めませんか」  柳内は苦笑を浮かべ、 「可愛いし、出来る子なんだけどね。どこにも居場所がなくて」 と言ってから、表情を引き締めた。 「で、どうだろう?仕事は、何でも課」 「……何でも課……」 「業務内容は、社内のトラブルも仕事の手伝いも、極秘案件も」  しかしその目は、「断る筈がない」という自信に満ち溢れていた。  そして錦織は、悔しいがそれに抗えなかった。 「老人会に入ってゲートボールをしたり、旅行に行ったりを楽しもうと思ってたんですがねえ」  そう、溜め息をつきながら首を振って見せるが、柳内は軽やかに笑い飛ばした。 「錦織君が?似合わないね!  で、頼んでもいいよね」 「いつからです?」 「入社式は明日だよ」 「了解しました」  柳内と錦織は、ニヤリとした笑みを浮かべ合った。  篠杜 湊。平和な日本にも、危険地帯にも居場所のない異邦人。本来は彼の為に居場所を作るというのを最初の目的として計画された部署だった。
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