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1.卒業
見上げれば、桜の木はまだ裸で、しかし、春風の温かさを待つように、ちらほらと硬い蕾が出来ている。あと二、三週間もすれば、この校庭すべての桜が咲き、それはまるで青を塗りつぶすように、ピンク色の空が広がっていくような光景になるのだろう。それを知っている少年は、今回こそ、それを見ることは出来ないのだろうと思う。寂しいようで、誇らしいような思いだ。
「おい、風斗(かぜと)」
黒い学生服の男子に声をかけられ、桜の枝を見上げていた少年は振り返る。
「この後、どうする?」
「打ち上げいくよな?」
卒業証書の入った筒を自身の肩に押し当て、ニキビや、そばかすが目立つ、まだあどけなさの残る笑顔を浮かべながら、そういう男二人。けれど、風斗と呼ばれた少年は首を振った。
「ごめん、この後、行きたいところがあるからさ」
そう微笑み返す少年は、今日、高校の卒業という節目を迎えた。
次の道はすでに決まっている。ギリギリで合格した大学は都心部にあり、同時に寮での、一人暮らしもスタートする予定だ。
よって、家族とは離れて住むことになるため、寂しさも感じるが、それを素直に家族に言えないのも、また少年が少年であるが故なのだろう。
いやその寂しさよりも先に……と彼は考える。節目というのは、別れと始まりを決意するのにちょうどいい。
そのため、彼は卒業式が終わった直後、アルバイト先へと走った。駅近にある、レンタルビデオショップだ。少年が高校の一年になったその時から、約三年間をお世話になった職場である。
その前で待ち合わせをしていた女性に、風斗は声をかけた。
「友梨佳さん!」
「風斗くん」
友梨佳、それは風斗の店の常連客であった。年上で社会人の女性であり、いつか、このレンタルショップで、DVDのありかを尋ねられてからというものの、毎週のようにここに訪れては、新作やおすすめの映画を聞いてくれるようになった彼女。単純で、女性との経験も一切ない少年は、すぐ彼女を好きになった。
そんな彼女を、風斗は今日という日に呼び出したのである。
店の前に佇む彼女は、雑踏の中だというのに、まだ咲いていない桜を背負っているように輝いて見える。ふわりと香るこの匂いは、洗剤か香水のそれなのだろうか。もし、その香りをこの手にすることが出来れば、自身はおかしくなってしまうだろうと少年は思う。いや、それと同等のことを、自分は望み、そして今、それを叶えるために動き出したのだ。
「すみません、友梨佳さん、お待たせしました」
風斗は、決死の思いで一歩を踏み出す。
『話したいことがあるので、明日、この店の前で会えませんか』
彼女にそう声をかけたのは、衝動的に、だった。高校を卒業するとともに、ここでのアルバイトは、今日で終わり。そんな時の風斗の心残りは、唯一彼女のことであり。いつものように陳列した棚をまるで迷子の子供を探すように、視線を彷徨わせていた彼女へ、少年は思わず、そう、声をかけていたのである。
「どこかお茶でも行く?」
優しく微笑んでくれる彼女に頷き、二人は近くのカフェへと向かう。
「その、おれ、友梨佳さんのこと好きなんです」
店内の端の方に腰かけ、少し背伸びをしてコーヒーを注文する。学生服の自分が、こんなおしゃれなカフェにいることは、落ち着かない心地がしたが、友梨佳と会話を重ねるうちに、彼はそんなことも気にならなくなっていた。
そして、ふいに口をつく言葉。それは彼女の『卒業か。もう風斗くんに会えなくなるのは寂しいな』という一言がきっかけであった。
「……す、みません、急にこんなこと」
「ううん、風斗くんからしたら、私って結構年上だし、対象外だろうなと思ってたのに、そう言ってくれたのが嬉しい」
友梨佳は驚きに目を丸くさせていたが、直後優しい笑みを取り戻し、頭を左右に振った。
「え、そ、それって」
「私も、風斗くんのこと、もっと知りたいなって思ってたから」
「じゃ、じゃあ、付き合って」
「でも、それは無理だと思う」
風斗が嬉々とした表情で、そこまで言いかける言葉を、彼女は静かに制止させる。
「えっ、なんで……」
「私、恋人がいるから」
友梨佳の言葉に、風斗は頭上から冷水を浴びたような心地になった。しかし、瞬時にそんなことは当たり前なのだと気づく。むしろなぜそこまで予想や、事前のリサーチをすることが出来なかったのだろう。恋とは、本当に恐ろしいと少年は思った。
「あー、いやそうですよね、そりゃあそうですよね」
何度も自身に言い聞かせるようにそう呟き、少年はカップに口をつける。コーヒーは、砂のような苦い味わいがした。
「……それでも私のこと好き?」
けれど、友梨佳は言葉を続ける。静かに、透き通るような声だ。
それによって、少年は何かこの世に引き戻されるように、再び言葉を思い出す。
「も、もちろん、そのショックは受けましたけど、好きなのは今も変わりません」
「もし、風斗くんが嫌じゃなければいいよ」
「え? その、付き合うってことですか?」
「うん」
「でもその、恋人がいるんですよね。別れてくれるっていうことですか?」
淡い期待を胸に少年はそう尋ねる。
けれど彼女は、首を振った。
「それは出来ないよ。私も彼のこと、大好きだから」
「じゃあ、二股ってこと、ですか」
「そういうわけじゃなくって……風斗くんのことなら、彼も認めてくれるんじゃないかと思ってるの」
友梨佳の言葉の意味もそして意図も、うまく汲み取ることが出来ず、少年は相変わらず、クエスチョンマークを頭に浮かべる。そして、整理の意味も含めて言葉を発した。
「え、それって彼氏公認で、おれも友梨佳さんの彼氏になるっていう?」
「そういうこと」
「え……」
彼女の提案に、少年は言葉を失った。当然だろう。彼女に彼氏がいたことへのあの時の驚きが、霞んで思えるほどだ。
「こんなこというの、変だよね。幻滅した?」
彼女の丸い瞳が自身を見上げる。
それにドキリと高鳴る鼓動。自分がこの瞬間、いったい何を答えとして導き出せばいいのか、わからなかった。それでも、彼女の瞳に見つめられると、少年はいつだって強く思う。
――やっぱり……おれは、友梨佳さんのことが大好きで、
「その、本当に彼氏さんも、友梨佳もいいなら」
風斗はこの時、自身を、欲望の塊だと思った。世間的に許されないことなのかもしれない。大好きな彼女に、からかわれているのかもしれない。それでも、彼は自身の口からついてでたその言葉を、飲み込むことが出来なかったのだ。
「本当に? そしたら今から、会いに来てくれる?」
「い、今からですか!」
友梨佳の言葉に、風斗は肩を跳ねさせる。結婚のあいさつなどしたことはないが、『お前なんかに娘をやれるものか!』とちゃぶ台をひっくり返す男性が想像できた。いや、この場合は娘ではない、彼女であるのか。そう思うと、その恋人の怒り様は、おそらく、想像の親父像より、物凄いものなのだろうと風斗は想像する。
けれど、友梨佳は柔らかく微笑んで見せた。
「みんなも喜ぶと思うから」
「へ? みん、な?」
小一時間かけて、二人が電車で移動した先。そこは、住宅地と呼ぶにふさわしい場所だった。その中の一軒の前で、友梨佳は立ち止まる。
「え、ここ、友梨佳さんの家ですか?」
風斗はその家を見上げ、思わず、感嘆のため息を吐く。その家は、立派な戸建てだった。ベランダや、庭までついている。都心部から少し離れているとはいえ、相当、豪勢だ。
「大きいですね」
「そうだよね」
「偶然だけど、大学とも近そうです」
「そうなの? 通いやすかったら嬉しいな」
友梨佳がそう微笑むのを見て、きゅんっと風斗の胸はしめつけられる。それは今後もこの場所に遊びに来ていいということなのだろうと解釈すれば、飛び上がってしまいたいほど嬉しかった。
だがふと、男は思う。自分は、彼女の恋人に会いに来たはずだ。それなのに、なぜ友梨佳の実家であろう、この場に連れてこられたのだろうか。
「あ、その、急に遊びに来たら、親御さんびっくりするんじゃないですか?」
「親御さん? 両親はここに住んでないよ」
「え、でも」
彼女の言葉を不思議に思い、少年が一歩を踏み出した時だ。
ふと、後ろから聞こえた声。
「あ、友梨佳ちゃん」
「あれ、瑞(みず)希(き)さん、もう起きてたの?」
「そう、夕飯当番だから」
後ろを振りかえれば、そこに立っていたのは、すらっとした体形の男性だった。目を引くような、整った目鼻立ち。明るい色に染めた髪がなびくと、同時にコロンの香りがする。友梨佳より年上なのだろう。その落ち着いた雰囲気は、大人の色気まで感じさせた。
そこで、風斗はようやく気が付く。
目の前に立っている男こそ、友梨佳の彼氏であり、ようするに彼と彼女は同棲をしているのだと。そしてこの豪華な戸建てと、彼のルックスを見て、少年は、勝てるわけがないと、絶望の表情を浮かべていた。
「あれ? そちらは?」
「風斗くん」
「あっ、はじめまして、そのあの、」
友梨佳から紹介され、少年はしどろもどろに言葉を発する。この人が友梨佳さんの恋人かと、そう思ってしまえば、今すぐ逃げ帰ってしまいたい思いが強くなる。
けれど、友梨佳はいつもの微笑みを浮かべたまま、彼の紹介を続けた。
「今日から恋人になって貰おうと思って」
「ああ、そうなんだ。学生服ってことは、高校生? 若いなぁ。下手したら、僕の子どもになれるね。僕は瑞希。よろしく」
しかし、男が驚いた様子もない。それどころか、冗談を交えて言葉を発し、人のよさそうな笑みを浮かべていた。
「へ? そ、そんな簡単に!」
「今夜の夕飯、僕が作るんだ。よかったら、食べていってよ。いいでしょ、友梨佳ちゃん」
「私もそのつもり。瑞希さんのご飯おいしいからだいすき」
「僕も、おいしそうに食べてくれる、友梨佳ちゃんだいすき」
へらりと微笑む男女。その会話や雰囲気は、まさに恋人同士のそれである。そんなものを目の前に見せつけられ、風斗は生きた心地がしなかった。
「やっぱ、おれ、」
「大丈夫だから」
逃げようとする風斗を笑顔で引き留め、玄関の扉を開ける瑞希。それに嫌とも言えず、風斗は身を小さくさせたまま、その背中についていった。
玄関の廊下、それをまっすぐに進むとキッチンダイニングとリビングに突き当たる。
「瑞希、コーラあったか?」
その時ふと、男の声が聞こえた。後ろを振り返れば、今しがた二階の階段から下りてきた、青年がいた。燃えるような赤い髪色をし、インダスピアスをつけている彼。一言でいえば、柄が悪いとしかいいようのない風貌だ。
その上、眉を寄せるその表情は不機嫌そのもの。
しかし、友梨佳を見た途端、男はそれを柔らかくさせた。
「……あ、友梨佳サン、お帰り。荷物持とうか?」
「陽(よう)くん、ありがとう」
友梨佳から荷物を受け取り、大事そうに胸へと抱える、陽と呼ばれた青年。その頬は、ほんのりと赤くなっていく。
それを見たとき、風斗はおかしいと気づいた。てっきり、瑞希か友梨佳の弟なのではないかと思えた彼であるが、彼女を見つめるその視線や態度は、そういった類のものではない。ならば、いったいこの人物は、友梨佳のなんなのか?
「ん……て、ああ? だれだよこいつ」
しかし、先にそれを尋ねてきたのは、陽のほうだった。下から煽るように睨んでくる男に「ひっ」と風斗は声を詰まらせる。
「新しい恋人」
「え?」
友梨佳の返答に、陽は目を見開き、間抜けた表情を浮かべた。だがすぐに風斗のその服装を見て、舌を打つ。
「学生……年下かよ」
「そんなに、年は離れてないんじゃない?」
「うるせぇ」
瑞希の言葉にも悪態をつき、男はしかし、リビングのソファーへどっかり座り込む。続いて、友梨佳からその隣を勧められ、びくびくとしながら座る風斗。
「え、この人は、」
いてもたってもいられず、風斗はそう尋ねるが、自身の小さな声は聞こえていなかったようだ。
「大智(たいち)くんと天川(あまかわ)さんはいる?」
「部屋にいるから、オレが呼んでくる」
友梨佳の問いに、陽はぴょんっと跳ねるように立ち上がり、二階へと向かっていった。そしてすぐに二つの足音を引き連れて戻ってくる。
「……友梨佳さま、おかえり」
まず現れた一人目は、ひょろりと背の高い男だった。そのわりに、猫背であるせいか威圧は一切感じない。ぼそぼそ、ニヤニヤとしゃべり、レンズの厚いメガネをかける暗い雰囲気の男。
「友梨佳、早かったな」
そしてその後ろから現れた男も、さらに背が高かった。さきほどの男とは違い、がっしりとした体形で、刈り上げられた髪型は、体育会系と呼ぶにふさわしい見た目だ。
友梨佳はそんな二人とあいさつを交わし、そして風斗へと振り返った。
「風斗くん、新しい恋人」
「へ! あ、その、」
まだこの状況が理解できていない風斗は、急な紹介をされ、視線を泳がせることしかできない。
「俺は大智。よろしく」
「……天川です。若そうだね~」
「高校生だって」
「高校生ぇ? 新しい~」
天川と名乗る男は、ニヤニヤと口角をあげ、風斗の顔をじっくりと観察する。その視線から逃れるように、風斗は声を発した。
「あ、でも今日卒業式だったから、」
けれどそこまで言いかけて、いや、そんな説明をしている場合じゃないと、風斗は思う。
ゴクリゴクリとつばを飲み込み、彼女へと助けを求めるように視線を送った。
「そ、それで、友梨佳さん、その、この人たちは?」
「恋人」
「いや、そうじゃなくて、そのほかの、」
「みんな恋人だよ」
「え、へ……? ま、まさか、四人とも?」
「そう」
「一緒に住んでる?」
「そう」
彼女の返答を聞き、風斗は目をパチクリと開閉させる。彼女が冗談を言っているようには見えなかった。それでも、掠れた声で問う。
「いや、そんな……からかってるんですよね?」
「はじめはそう思うよね、でも本当」
友梨佳の静かな声を聞き、風斗は、目の前の男たち一人ひとりに視線を送る。
さわやかなイケメン、赤髪のヤンキー、暗いメガネ、筋肉質な男。
「え、ええええっ!」
風斗の声が、リビングで鳴り響く。それをうるさいというように耳を塞いだり、笑ったりと様々な反応を見せる男たちは、けれど冷静なようだ。
「よ、四人も恋人って、そ、そんなのって……」
「……嫌なら帰れよ」
「でも、連れてきたってことは、相当、友梨佳ちゃんが気に入ってるってことだよ」
ブツブツと呟く風斗にとって、瑞希と陽の会話は遠くで聞こえるようで。くらりと揺れる視界。
少年は、恐る恐る手をあげる。
「ちょ、ちょっと頭の整理をしてきたいんですけど……」
「そうだよね。いやじゃなければ、私もついていってもいい?」
「は、い」
友梨佳にそう言われ、風斗はこんな時だというのに、彼女と二人きりになれることを嬉しいと感じながらも、外へ出た。
「驚いたよね」
「……そりゃあ、もう」
あてもなく、道路を歩く二人。しばらくは沈黙であったのだが、友梨佳の言葉に、風斗は何度も頷く。
「……おれ、どうしていいのか」
大好きな人に、恋人がいた。それも四人も。
そんな展開、予想などしていなかったものだから、どうして良いかのか分からないのは当然だろう。
重婚が許されていない現在の日本で。浮気や不倫にも煩いの世の中で。いくら互いが認知しあっているからといって、彼らのそれは、ふしだらと呼ばれる関係なのかもしれない。
ならば、自分は、彼女と付き合うことを諦めるべきなのか。それとも、そんな関係は間違っていると主張し、彼女の手を取るべきか。いや、これこそ愛の試練だと受け入れた方が良いのだろうか。
「選ばなくてもいいよ」
「……え?」
まるで、風斗の心の声を聞いていたかのような友梨佳の言葉。それに、風斗は思わず立ち止まった。すぐ近くを、車が音を立てて走り去っていく。
「私たちの関係が普通じゃないことなんてわかってる。このことを教えて、風斗くんに、怒られて呆れられて、嫌われる覚悟もしてたよ」
友梨佳は自分に言い聞かせるように、一言一言をゆっくりと紡いでいく。
その横顔を見ながら、風斗は深呼吸をし、彼女に問いかけた。
「……友梨佳さんは、あの人たちのことを、その、全員、本当に恋愛として好きなんですか」
「うん、大好き」
さも当然というように、そう答える彼女。友梨佳の浮かべるそれは、純粋な少女のような笑みだった。
その表情と言葉に、チクリと痛む、風斗の胸の奥。
「それでもね、他人事みたいに、こんなことを言うのはずるいと思うんだけど」
彼女はそこで言葉を切って、切なげにけれど優しく、目を細めた。
「もし風斗君が、今何かを決めようとして迷ってるなら、決めなくてなくていいよ。なんとなくね、私に会いたくなる時がいつかくれば、会いに来たらいいし、会いたくなる時がなければ、それでもいい。こうすべきなんて、道はないよ。だから無理に今、なにかを選ばなくてもいいんだと思うの」
「……友梨佳さん」
彼女の真剣な言葉を聞き、風斗は下を向く。選ばなくていいなんて、他人から言われたのは初めてだった。
受験も部活も、将来のことも、すべては自分が選択すべきで。自分が何かを望むことは当たり前で、そのためには、選ばなければならないことばかり。恋愛だってきっとそうなのだと思っていた。
けれど、彼女の言葉を聞いて、自分は彼女のこういったところを好きになったのだ、と少年は思う。一見人任せで適当な発言に、心が柔らかくなるような感覚がするのだ。
「おれ、」
そこまで言いかけた時だ。
ふと彼のスマホに着信が入る。こんな時にとは思うが、友梨佳から出るように促され、少年は少し離れたところで、電話にでる。
そして顔面を蒼白させて、友梨佳の元へと戻ってきた。
「今、大学から電話かかってきて、寮部屋の確保が出来ないって言われて……初期費用が、期日までに入金されてなかったからって、おれ、忘れてた……」
うわ言のように呟く、風斗。どうしようもないミスというのは、どんな時であったとしても、起きてしまうものだ。大学合格したことへの喜びもつかの間、入学前の手続きの多さや、引っ越しの準備に追われ、こんな重大なことを見落としてしまったのだろう。
風斗は、途方もなく困ってしまったようで、友梨佳が目の前にいることも忘れているようだった。
「こうなったら大学側に土下座しても頼んで……でも、だめだったら、しばらくは実家から通うしかないのかぁ……しかも、母親になんていえば……」
ブツブツと呟く風斗の言葉を聞き、状況を理解した友梨佳は手のひらを叩いた。
「そしたら、ちょうどいいし、私としばらく一緒に暮らす?」
「え、へ! 友梨佳さんと?」
風斗は友梨佳の言葉に、ドキリと心臓を跳ね上げた。大好きな彼女と二人屋根の下。一緒に朝食を食べたり、掃除をしたり、そして、夜には……。
「っ、そんなっ!」
「彼氏たちもいるけど」
「ああ、いやそうでした……」
ピンクの世界を想像してしまっていた風斗。しかし、彼女の言葉に、あの面々の存在を思い出し、大きく肩を落とす。
先ほどの『選ばなくてもいい』という言葉に救われた心地であったのであるが、自分のせいとはいえ、結局は選択を迫られる結果になってしまった。
けれど、そんな彼の心情のことなど、すべて彼女もわかっているのだろう。
「一人暮らしする部屋が見つかるまででもいいし、もしも私たちのことをもっと知りたいと思うなら、暮らそうよ、一緒に」
友梨佳は、柔らかな笑顔を浮かべ、風斗の手をとる。
自分が迷ったら、選ばなくてもいいと言ってくれて、自分が決意できなければ、優しく肩を押してくれる。惚れた弱みの勘違いなのだろうか。それでも、いつだって彼女は自分のことを考えてくれている気がして、固まっていた心が流れるように、ゆっくりと穏やかになっていく。
「だから、私の彼氏になってくれる?」
いやそれよりも、彼女の指先の温かさや、やわらかい心地。それに鼻の舌ばすような思いで、男は流されるままに頷いていた。
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