竹ノ内芹那の「最初の事件」

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竹ノ内芹那の「最初の事件」

 殺されたのは竹ノ内家に住み込みで働いている家政婦の菅谷瑤子。第一発見者の藤田は警察の取り調べを受けていた。 「だから、僕はぜんぜん、違うんです…。ほんとに違うのに…」  気弱そうな青年はゆるくパーマのかかった黒髪を両手でかきむしる。わずかに垂れた目を涙でいっぱいにして容疑を否認しているが、凶器だけでなく盗まれた宝石が入っていた引き出しからも藤田の指紋が見つかっている。証拠は揃っているのに青年は違う違うと繰り返すばかりで、まともな反論をしてこない。ベテラン刑事の高嶋はため息をついた。 「家政婦の直接の死因は心臓麻痺だ。心臓発作を起こして倒れかかったところを後ろから鈍器で殴られ、そのまま亡くなっている。宝石を盗もうとしていたところを彼女に見つかり、彼女の頭を殴って逃げ、翌日なに食わぬ顔で竹ノ内家に出勤し、証拠隠滅のためにわざわざ二階の部屋に入ったんじゃないのか」  藤田は口を真一文字に結んで鼻をすする。 「お前の場合は殺人じゃなくて傷害罪だ。人を殺すつもりはなかったんだろう。殴り方も人を殺せるような強さではなかった。誠意ある反省の姿勢を示せば初犯なら…」 「高嶋さん、竹ノ内のお宅から電話が入ってます」 「後にしろ」 「そう言ったんですけど、すごく強引でもう何度も電話がかかってるんです。高嶋さん、一言言ってやってくださいよ」  高嶋は数秒の沈黙の後、取調室を出て電話を受け取る。受話器を耳に当てると若い女性の怒鳴り声が聞こえた。 「とっとと藤田を解放して! 藤田が犯人のわけないんだから」  高嶋は受話器を耳から遠ざけながら口周りの皺をいっそう深める。 「お嬢さん、庇いたい気持ちは分からなくもないですが、現場からは藤田君の指紋があちこちから出てるんですよ。なのに犯人じゃないってどうして言い切れるんです?」 「決まってるでしょ。藤田みたいなバカが人なんて殺せるわけないじゃないっ」  高嶋はてきとうにあしらって電話を切ろうとするが、相手の女性が藤田と代われと騒ぎつづけるので、仕方なく電話を持って取調室に戻る。このまま切っても、またかけてきて騒ぎ続けるに違いない。 「分かりました。藤田君とつなぎますけど、自白するように促してもらえますか?」  高嶋は電話機を藤田に渡す。 「ああ、芹那さんですか? 本当にごめんなさい。僕、なんだかもう分からなくて」 「藤田。落ち着いて。あんたが犯人だなんて思ってないから。瑤子さんを見つけた時の状況を丁寧に話して欲しいの。私は現場を見てないでしょ」  電話の相手は竹ノ内神経病院院長の娘、竹ノ内芹那。藤田は竹ノ内家に頻繁に出入りしている作業療法士だ。 「ええっと。出勤してすぐに、瑤子さんがいないから探して欲しいって言われてましたよね。それで二階に行ったら、部屋の奥に瑤子さんが倒れてて。びっくりして助け起こしたら、なんかぐたーってなってたんです」  高嶋は待機していた部下に藤田の供述を録音するように視線で促した。 「その近くに重たい彫刻が転がってて。なんか変な顔の彫刻です。すごい重いやつ。片手をスーパーマンみたいに上げてて。お兄さんの趣味、本当に良く分からないですよね」 「兄の趣味なんて今はどうでもいい。瑤子さんはうつ伏せだった? それとも仰向け?」 「仰向けでした。窓の前にまっすぐ寝てるから、お昼寝中なのかな、なんて」 「それであんたは? あちこち触ったのはなぜ?」 「ああ、えっと。引き出しは最初から開いてたんです。あっちこっち。だから、閉めとかないとって。ほら、開けっぱなしだと民子さんに怒られちゃうから。この間も窓を開けたままにするなーって怒鳴られちゃったし」  民子は竹ノ内家に三十年以上仕えるお手伝いさんだ。芹那が生まれる前から竹ノ内家の世話をしている。藤田は瑤子の直接の死因が心臓発作だったことを伝え、自分は殺人罪にはならないらしいと精一杯訴えた。 「で、現場に指紋をいっぱいつけて現場をめちゃくちゃにした挙句、犯人扱いされて捕まったってわけね、分かったわ。しばらくそこで頭を冷やしてなさいっ」  電話が切れ、藤田は受話器を持ったまま、大声を上げて泣き出した。 「困りましたね、あのバカには」  民子が持っていた携帯をエプロンのポケットに入れたところで、玄関の扉が開く音がした。六十二歳になる民子は五年前から髪の毛が白くなり始め、今は真っ白になっている。顔や手には皺も増え、動く時には掛け声が必要になってきたが、まだまだ現役で働き続けるつもりのようだ。 「旦那様がお戻りのようです。今日はお客様を連れて来られるとおっしゃってましたよ」  民子は芹那の車いすを押して玄関へ向かう。民子は玄関に入ってきた竹ノ内英世の帽子と鞄を受け取り、客用のスリッパを出す。竹ノ内家は神経病院を経営する家系で、英世は数年前から院長として病院を切り盛りしている。 「芹那、上野君だ。覚えているかな。四、五年くらい前によくうちに来てたんだが」 「久しぶりだね、芹那ちゃん。今日は先生が取り組んでる研究について聞かせてもらいに来たんだ」  上野はスリッパを履くと、芹那の前でかがんで視線を合わせながら言った。上野はもともと竹ノ内病院に勤めていた医師だったが、小児てんかんの治療研究をしたいという希望があり、現在は大学で研究を続けている。子どもたちが安心して暮らせる社会にしたいというのが上野の昔からの夢で、芹那はそのことをずっと聞かされて育った。  黒かった髪の毛を最近は明るく染めているが、相手の目を見て話す姿勢は昔と変わらないと芹那は思った。上野は子どもと話す時は必ず目線が合うようにかがんで話すのだ。誰に対しても誠実であろうとする上野は、芹那の初恋の人でもあった。 「事件があったばかりでちょっとゴタついてるが、すまないね」 「いえ先生、こちらこそすみません。お忙しいところに押しかけちゃって」 「ちょうど今度の学会発表について、君の意見も聞きたいと思っていたところだよ。さあ、こちらへ」  竹ノ内は上野を二階に招く。階段が竹ノ内の体重で少しきしむような音がした。 「書斎にいるから。民子さん、後でお茶を持ってきてくれるかな」 「はい、かしこまりました」  民子が竹ノ内に頭を下げ、芹那の車いすを押してキッチンへ向かう。 「芹那ちゃん、最近キレイになりました? もう十七歳でしたっけ、大人になるのは早いなぁ」  上野が竹ノ内の後について二階へ上がる時に言った言葉が、芹那の胸に残った。  藤田の取調べをつづけていた高嶋は、再び部下に呼び出される。 「高嶋さん、竹ノ内家にあった宝石を売った人物が見つかりました。二十代の男性で山上タカシ、住所不定で女の家を転々として、借金もかなり。山上は定職に就かずに女性たちに貢がせていたみたいなんですが、今回殺された竹ノ内家の家政婦もその一人だったようです」 「痴情のもつれによる犯行の線も出てきたわけか。だがしかし、指紋は? 二階の部屋からは藤田の指紋と家政婦の指紋くらいしか出なかったのだろう?」 「そうですね。現場には山上の物らしき指紋は出ていません。藤田以外には掃除をしていた家政婦のものだけでしたし」  そこに別の部下が電話の子機を持ってやってきた。 「高嶋さん、また竹ノ内のお嬢さんからです」 「さっき話したばかりだろ。進捗があったら伝えると言って切れ」 「あの、それが、犯人が分かったから秒で来いって」  高嶋は話していた部下と顔を見合わせる。  高嶋が竹ノ内家に着いて巨大な門扉の横のインターホンを押すと、民子の声が聞こえて鉄の門が横に滑るように開く。車が出入りしやすいように舗装された道の先に竹ノ内の豪邸があった。高嶋は髪の毛の分け目を手でなでつけ、コートの襟を軽く引っ張って整えてから家に向かう。家の玄関扉の近くまで来ると、民子が扉を開けて出迎えた。 「お宅のお嬢様から犯人が分かったって聞きましたけど?」 「はい、私もそう聞いております。こちらへどうぞ」  民子が案内したのは玄関のすぐ隣にある部屋で、ベッドに人が横になっていた。ベッドの上には大型のモニターが設置されている。寝たまま映画でも見るために特別に作られたのだろうと高嶋は思った。 部屋に案内されながら、高嶋は違和感を覚える。広い部屋だが部屋の扉がすべて全開になっているのだ。若い女性の部屋なのに、玄関側とキッチンへ向かう方向に壁が大きく開いており、壁は一面しかない。玄関に向かう側は全面、窓になっている。部屋は玄関の真横で、訪れた人がみんな中をのぞけるようになっている。これではプライバシーがないのではないか。 「お嬢様、刑事さんがいらっしゃいましたよ」 「ありがとう。ようこそ高嶋さん。私は竹ノ内芹那」  芹那はベッドの上で高嶋のほうを見ることなく言う。電話の時も思っていたが、芹那の発音には感情がこもらず、機械が喋っているような不自然さがあった。 「私、あの日の夜、犯人の物音を聞いているの」 「なんだって?」 「犯人は玄関から入ってきて、玄関から出て行ったわ」 「それはどういうことだ。やっぱり内部を知ってる藤田の犯行だと言いたいのか?」 「いいえ。藤田はただのバカよ」  高嶋は頭を振ってため息をつく。この家の人たちはどうも論理的じゃない。藤田も違う違うと言い張るばかりで、凶器を触ったり引き出しを閉めたりした明確な理由を言わない。 「もう一人、重要参考人が上がってる。ここの家政婦に貢がせていた男だ。藤田じゃないなら、そいつの可能性もある」  高嶋はお嬢様の機嫌を取って情報を引き出そうと、あえて藤田をかばう発言をした。藤田の決定的な証拠を、このお嬢様が隠しているのかもしれない。 「なるほどね。それで全部つながったわ」 「で、あなたは犯人を見たのか?」 「いいえ、見てないわ」 「じゃあなぜ犯人が分かったんだ」 「民子さん。今朝、玄関の扉が開けたままになってたって言ってたわよね?」 「はい。うちは正門が閉まっていれば人が勝手に入ってくるなんてことはないのですが、朝起きたら開けたままになっていたので驚きましたよ」 「つまり犯人は、開いている扉から入ってきて、開いている扉から勝手に出て行ったの」 「君はいつもどこで寝てるんだ? このベッドで寝てるわけじゃないのか? 人がいる横を通って出ていくなんて、そんなリスクを犯す犯人がどこにいる。それとも、君自身が犯人なんじゃないのか?」  高嶋は荒っぽい足取りで芹那の近くまで詰め寄る。人が話しているのに、芹那はこちらを見ようともせずに横になったままだ。高嶋は芹那の態度や言葉遣いに苛立ちを覚えていた。 「ああそうか、だから藤田が犯人じゃないってことが分かるのか。犯人じゃないと言い切れるのは、真犯人だけだからな!」  高嶋は芹那の顔を覗き込む。黒髪のショートヘアに長いまつげ、ふっくらとした唇の若く美しい顔立ちだ。芹那は顔を少し動かして高嶋を見るが、再びモニターに視線を移した。 「違うわ」  芹那の視線が左右に動き、モニター上の文字をタップする。芹那の声はこのコンピューターから出ているのだと高嶋は気づいた。 「私、ALSなの。だから自分で自由に身体を動かせない。犯人は私がALSなことを知っている人物。真横を通っても追いかけられないし顔を見られることもないって分かっている人物よ」 「ALS?」 「日本語だと筋萎縮性側索硬化症。身体が徐々に動かなくなっていく病気です。お嬢様はもう五年も前からこの病気を患っているのです」 「身体が、動かないのか」  芹那は返事をするように瞬きを返した。 「目は動かせるので、こうして目の動きを感知する機械で会話しているのです。このコンピューターはお嬢様のための特別仕様で、お嬢様のもともとの声が出るように設計されているんです」  民子が近くに来て高嶋に説明する。 「身体が動かないのに、物音を聞くなんてできるのか?」 「今も会話しているじゃない。感覚は普通にあるわ。うちの階段、最近ちょっと傷んできてて音がするところがあるのよ。犯行の夜、私はその音を聞いてる」 「なるほど。だが玄関の扉を開けたのは誰だ?」 「瑤子さんよ」 「家政婦が? 理由は?」 「彼女は男に騙されやすい人だったから。うちから金目の物を盗んで渡してたのね。父は病院に泊まることが多いし、兄もどこにいるか分からないから」  高齢の民子はいつも二十一時には二階の自室に入って休み、夜は瑤子が芹那の世話をする。 「視線を動かすと、いつもなら二階の階段が少し見えるのよ。でもその日は瑤子さんが扉をちょっとだけ閉めたからおかしいと思ってたの。いつもはそんなことしないのにね」 「瑤子が誰かを招き入れた? なんのために」 「兄の部屋の宝石類は、ほとんどなくなってた?」 「引き出しにはほとんど何もなかった。安物のアクセサリーがいくつか残ってたと聞いたが、残ってたものはほとんど金になりそうにないものだそうだ。藤田の指紋は引き出しにも残されたアクセサリーからも出ている。もちろん凶器にも彼の指紋がべったりだったよ」 「だとしたら、うちで価値があるのはあと、研究データだけよ」  ALSの治療薬開発に関わる研究データが二階の父の書斎にあると芹那は言った。 「そんなものがカネになるのか?」 「新薬の研究には通常、何百億っていうお金がかかるものなの。逆に言えば開発できればそれだけのお金を回収できるってこと。それに瑤子さんは看護師よ。うちには看護師として来てもらってるんだもの」  芹那の世話をしていた瑤子は、住み込みの看護師として二年前から雇われていた。看護師としての経験も豊富な瑤子なら、研究データの価値も分かるはずだと芹那は言う。  その時、二階から竹ノ内と上野が下りてきた。 「おや、いつの間にかお客さんが来てたのか」 「刑事さんです」  民子が言うと、竹ノ内の表情が変わる。黒縁の眼鏡の中央を指で軽く押さえ、頭を下げるようにして芹那の部屋に入ってくる。上野は竹ノ内の後に続いて階段を下りるが、部屋の入口に立ったまま戸惑うような表情をしている。 「ああ、先日はどうも。それで、犯人は捕まりましたか?」 「おや、その発言はどういう意味ですか、竹ノ内さん。現在、警察が藤田を取り調べているのをあなたは知っているはずでは。まるで、藤田が犯人ではないと知っているかのようだ」 「いやいや、藤田君はその…」 「なんです?」  藤田が犯人ではないと知ってるのは、真犯人だけだ。高嶋は竹ノ内の挙動を観察する。 「彼はバカ、いや、気のいいだけの青年なので、そんなことをするようには思えないのですよ」  竹ノ内の言葉に高嶋は首を振る。 「気のいい青年が、人が死んでいるのを見た直後に、引き出しを閉めるような余裕がありますかね。普通だったら慌てますよ。彼は犯行の夜、慌ててそのまま逃げてしまったが、翌日になって証拠を隠滅しようと部屋に戻ってきた。死体があるのはもともと分かってたので、慌てることもなく引き出しを閉めるような真似ができたんじゃないですかね」 「引き出しは犯人がわざと開けたままにしたのよ。物取りの犯行に見せるために。藤田はそれを閉めて片付けようとしただけ」  芹那は言葉を切り、モニターに視線を走らせる。 「ねえ、真犯人の上野さん?」  部屋の外にいた上野は芹那以外の全員の視線が自分に集まるのを感じて、狼狽する。 「えっ、えっ。芹那ちゃん、なんのこと?」 「あなたしかいないのよ。五年前からALSを患って学校にも行ってない私には、もちろん友達はいないし、家族以外に私の病気のことを知っている人はほとんどいないもの。もともとうちに出入りしていたあなたなら、うちの家のことも良く知っているし、そもそもこの部屋を作り変える提案をしてくれたのがあなたじゃない」  芹那がALSだと分かった時、上野は緊急の時にすぐに対応ができるよう、芹那の部屋の改造を提案し、玄関横に特別室を作ったのだ。玄関から近く、扉は横開きになっていて全開にしておけばどこからでも部屋の中が見える。家族が芹那のことをいつでも見守れるようにという配慮だった。しかしその後すぐに、上野は大学に戻ってしまったため、竹ノ内家に来ることはほとんどなくなっていた。 「最近キレイになったって言ってたわね。四年も会ってなかったのに、最近っておかしくない? あなたは最近、家に来たことがあるんだわ。そして私の姿を見た。だから思わず最近って言ってしまったのよ」  上野は芹那の横顔を見たまま黙っている。 「数か月前に住み着いた野良猫がうちの庭に子どもを生み始めたの。猫の鳴き声が夜通し聞こえるようになってきたわ」  芹那は庭に猫を集めたのは瑤子だと言った。 「あの猫たちは夜に外に出る言い訳と不審な物音を隠すために集められたのよ。彼女が夜間、頻繁に外に出るようになったのをもっと気にするべきだったわ。うちの門って、有刺鉄線が張られてるわけじゃないから、登って入ることは難しくないし」  タカシに貢げるものがなくなった瑤子は、二階の書斎にある研究データを売ることを考えるが、書斎はふだん、民子が掃除をしているので瑤子は入れない。瑤子が書斎にいることを見られれば不審がられてしまう。 瑤子が書斎に入れるとしたら民子が寝付いた深夜だけだが、書斎の隣には民子の部屋がある。ヘタに物音を立てると瑤子が書斎に入ったことがバレてしまう。そこで瑤子は庭に猫のエサを撒き、野良猫を集めて増やしたのだ。  上野は軽く笑顔をつくり、部屋に入ってきて芹那の横に立つ。 「状況的にはそうなのかもしれないけど、僕が犯人だという証拠はあるのかい? それにそもそも、瑤子さんは心臓発作で亡くなったんだろう? 研究データを盗もうとした瑤子さんが心臓発作を起こして死んだ。だとしたらそもそも殺人事件ですらないんじゃないか」 「殺されたのが瑤子さんだってどうして知ってるの?」 「事件のことはすでに報道されてる。テレビでもニュースでもそう出てるよ」 「そうね、でもどのメディアでもスガヤヨウコで紹介されてたわ」 「タマコっていう読み方はあまり一般的でないですものねぇ。後から修正していたメディアも多くありましたけど、普通はあの字を見たらヨウコさんだと思ってしまいますよ」  民子が何度かうなずきながら言った。 「階段を下りてくる時に君たちが話してる声も聞こえたし。芹那ちゃん、それだけで僕を犯人と決めつけるには無理があるよ」 「いや、もう一つある」  刑事の高嶋が進み出る。 「上野さん、でしたっけ。あなた、なぜ瑤子さんが心臓発作で亡くなったと?」 「え?」 「まだ直接の死因は報道されていないはずです。瑤子さんは鈍器で殴られて死んだと一報では伝えられているんです」 「あの日、瑤子さんの様子がちょっとおかしかった。時間を頻繁に気にしていたし、いつもは早起きの民子さんも翌朝、なかなか起きてこなかったわ」 「眠気が本当にひどくて、これまで一度も寝坊なんてしたことがなかったのに、初めて寝坊しましたよ」  瑤子は民子に薬を盛って眠らせ、玄関の扉を開けた状態で上野を待つ。上野は開いた扉から二階へ上がり、瑤子から研究データをもらって帰る予定だったが、交渉が決裂。上野は瑤子に薬を飲ませて心臓発作を誘発してから二階の奥へと運び、外部犯に見せるために鈍器で殴り、引き出しを開け放って逃走した。 「遺体が書斎で見つかったら、研究データがなくなっていることが分かってしまうかもしれない。だから二階奥の兄の部屋に運んだんでしょう? 後ろから殴られているのに瑤子さんが仰向けに倒れていたのはおかしいでしょう。強盗だったら殴ってそのまま逃げればいいじゃない。座らせた状態で瑤子さんの頭を殴り、寝かせてからゆっくり逃げた」  上野は黙っていたが、芹那はつづける。 「あなたのもともとの専門は心臓だったわよね。心臓薬の研究開発にも関わっていたはず。思ったような成果は出せなかったけど、心不全を誘発するような薬はつくれた。男好きの瑤子さんに薬を飲ませた方法は…」 「もういいよ、芹那ちゃん。僕がやったんだ」 「上野君、なぜ君がこんな真似を」 「早く結果が欲しかったんです。人の希望になるような薬を僕の手でつくって、感謝されたかった。そういう人になりたかったんです、ずっと」  うなだれた上野に手錠をかけ、高嶋は警察へと連行した。  竹ノ内は書斎の研究データを調べに二階へ行き、民子だけが部屋に残った。 「それにしても玄関が開いたままだったのに、猫たちがよく室内に入ってきませんでしたね」  庭からは今日も子猫たちの鳴き声が聞こえている。 「猫の声がしない夜がたまにあったの。たぶん、瑤子さんが猫のごはんに薬を盛って眠らせてたんだと思うわ。上野さんが来る時はいつも」  猫が住み着いてから何日か、鳴き声がまったく聞こえない夜があったと芹那は言った。民子はベッドに近づいて芹那の顔を見ると、細い目をさらに細くして声をかけた。 「お嬢様、温かいタオルをお持ちしますから、それで顔をキレイに拭きましょう」  タオルをもって戻ってきた民子は、芹那の顔を優しく拭った後、芹那はモニターに視線を走らせた。 「大きくなったねって言うなら分かるわ。でもキレイになったねは、おかしいの。だって、私はキレイになんてならないもの。だんだん身体が動かなくなってきてて、もうすぐ人工呼吸器だって必要になる。  誰も、私をキレイになんてできないわ」  芹那の目から涙がこぼれ落ち、民子がもう一度顔を拭った。芹那の声は失われていないが、芹那は自分の肉声で話したがらない。普通に話せなくなった自分を見るのが耐えられないのだ。  数時間後、警察から解放された作業療法士の藤田が竹ノ内家にやってきた。藤田の父は竹ノ内神経病院に勤めており、藤田と芹那は幼い頃から知っていた。芹那より五歳年上の藤田は父と同じく医者になるつもりで勉強していたが、芹那がALSを発症したことから進路を変更し、作業療法士の資格を取った。それ以来、藤田は芹那のリハビリなどを手伝っている。 「お嬢様、バカが戻って来たみたいですよ」  芹那の部屋の大きな窓から藤田の姿が見える。藤田は門から家まで走ってくると、靴を脱ぎ散らかして二階へ駆け上がる。 「ちょっと藤田。どこへ行くのっ。お嬢様のお世話をしなさい」 「民子さん、すぐ戻りますっ」  民子は階段の下から拳を振り上げて藤田に文句を言ったが、藤田はそのまま二階へ行ってしまった。 「やっと帰ってきたと思ったら、なんでしょうねぇ、まったく」  民子は櫛を持ってきて、芹那の黒髪を梳かす。芹那が小さい頃からずっとやっていることだ。 「お嬢様は本当にキレイですよ。民子の自慢です」  二階から人が転げ落ちる音が聞こえる。藤田が階段で転んだようだ。 「ほんっとにもう、あのバカはうるさい」  民子が様子を見に行くと、足を押さえて踊るような動きをしながら、藤田が部屋に入ってきた。ベッドの横に立ち、ひと呼吸置いてから芹那の横顔に話しかける。 「芹那さんはどんどんキレイになる。最近特にキレイになったよ。十八歳のお誕生日、おめでとう」  藤田は手に持っていた小枝のヘアアクセサリーを、芹那の髪につけた。 「ささやかですが、僕からのプレゼントです!」
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