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1.
こんなにいらない。頭ではわかっているのに、手が止まらない。だけど、この手を止めてしまったら、あの日あの時見せつけられた彼女の画像が、頭の中心に居座ることになる。あの美しい人を打ち消すためには、刺激的なスナックとひと時の安らぎを与えてくれるスイーツを、かごへどんどんぶち込んでいくしかないのだ。
ほぼ満杯になったカゴをどんっとカウンターに置く。すると、すっかり顔なじみになってしまったコンビニ店員が、嬉しさを隠そうともせずニカッと破顔する。
「今日も大漁っすね! ありがとうございまーす!」
今風のもったりとした前髪を揺らしながら、手早く商品をスキャンしていく。私は無表情を決め込み、テクニカルに移動していく商品をただぼんやりとみていた。
「ありがとうございましたー!」
羽のように軽い声を背に、コンビニを後にする。そして、1DKの自宅のドアを開け、そのまま冷凍パスタをレンジに押し込む。その間に、先ほど買ったスナックやお菓子をビニール袋から順々に出していく。ほんの10分前のことであるのに、「ああ、こんなの買ったっけ」と、軽い記憶障害を毎度のごとく自覚する。
味気のない夕食を終え、テレビを動画配信サービスの画面に切り替える。そして私は、ポテチ、おかき、チョコレートという名の信仲間たちをすぐそばに引き寄せ、シーズン6の5話まで進んだ海外ドラマを見始める。すると私はいつのまにか寝落ちをし、翌朝を迎える。
朝日を浴びながら、私はほっと安心する。昨日も私は、感情にとらわれず一日を終えることができたと。
10日前、私は恋人に振られた。
いつものように駅前のカフェチェーンで本を読みながら待っていると、やけに神妙な顔をした彼がやってきた。何かあると直感した私は、その思いのまま彼を見た。すると彼は一瞬だけうつむき、「見せたほうが早いかな」と言った。そして、彼女と写った画像を私に見せたのだ。
「俺は、この人が好きです」
そしてひどく簡潔に、今ある事実を述べた。その正直さに感服した私は「あ、そうですか」と、その事実をただ受け止めた。
すんなりと納得できた自分がいたので大丈夫だろうとは思ったが、その日から私は、コンビニに通うようになってしまった。意味もなく義務付けていた自炊をやめ、不可解にうごめく渇望らしきものを埋めるべく、油分・塩分・糖分を求めた。
そうでもしないと、感情に飲み込まれて、どうにかなってしまいそうだったのだ。
嘘が嫌いで、誠実であることを正義としているような彼が、「私のことなどもう好きではない」と言った。あがいても、うろたえても、泣きわめいても、もう何も変えられないだろう。だったらいっそ、感情なんて厄介なものは漬物石を置いて封印をし、時間を頼って、跡形もなく消えてくれるまで待つしかない。それが唯一の解決法なのだ。それに身体が求めているのなら、栄養過多が心の健康に作用することもあるはずだ。
そんなことを頑なに信じ、刺激と安らぎを与えてくれる仲間たちとともに、時間が流れていくのをただ待っていた。
しかし。
「よくあれで、人前出られるよね」
「確かに」
矢印がくっついたようなひそひそ声が、私の背に刺さった。反射的にそちらを見ると、女子大生らしき二人組が、ぱっと視線をそらし、持っていた雑誌に視線を落とした。気づいていないふりをして仕事に戻るが、
「恥ずかしくないのかな」
「ねー。あたしだったら、外出られないよー」
一時停止された映像が再生されるように、新鮮な悪意がこちらめがけてやってくる。きっとあの二人は、人を傷つけるのが楽しくてたまらない人種なのだろう。そういった方々のことは、違う星の住人だと割り切って視界に入れないのが一番だ。
初手陰々の仕事は地味に多い。さっさとポップを配置して、新刊の荷解きを始めなければ。だから、彼女達の声にいちいち反応している場合ではないのだ。だがしかし、
「あんなニキビだらけの顔で平然としてるなんて、女捨ててんじゃん?」
という声が、私の胸を貫通してしまった。
もちろん、自覚はしていた。ジャンクで刺激的なスナックや甘ったるいスイーツが体の中で蓄積していけばいくほど、肌のうるおいは消えゆき、吹き出物の数が増えていくのを私はこの目で確認していた。でも、それに対する対処は何一つ行ってこなかった。
だって、別に見せたい相手もいなかったから。小奇麗にしておく理由がなくなってしまったから。だから、増え続けるニキビをほおっておいたのだ。
悔しいが、彼女たちのおっしゃる通りだった。だが、ここで反応してしまっては、彼女達の思うつぼだ。私に今できることは、いつもの歩幅とスピードでここを去ることだけだ。それが一番いいはずだとスタッフ通用口へ足を向けたその時、
「陰でコソコソ言うほうが恥ずかしいっつの」
静かな店内に、ぱっきりとした非難の声が響いた。
「見た目で人を判断した分、あんたらもしっかりジャッジされるってこと、ちゃんとわかってる?」
声の方を見ると、先ほどの二人組に詰め寄る長身の女性が立っていた。
「ま、あんたらを選ぶのはどうせ、意地の悪さがにじみ出たクソみたいな部類の奴でしょうけどね」
「は? な、何、あんた…!」
二人組の片方がいきり立ったが、「なんかこの人ヤバそうだよ、行こうよ」と言って、もう一人が彼女をいさめた。そしてそのまま彼女たちは、そそくさとその場を後にしていった。するとその長身の女性は、ゆるくかかったパーマを揺らし、私の方へと向きなおった。
「あ」
その顔には見覚えがあった。
「あなたは…」
「初めまして…」
頭の中で消そうとしていたあの画像が、立体になって私の前に立っている。
「私、西織光と申します」
あの日別れた恋人の現想い人が、私の目の前に立っていた。
「阿諏訪すず子さん、ですよね?」
「なんで私の名前、知ってるんですか?」
「それは、その…」
「定本君の携帯、見たんですか?」
定本君というのは、私の元恋人の名だ。
「ここで働いているということは、それとなく、彼から聞き出しました。あなたのことを、どうしても知りたくて」
「そうですか。それではるばる会いに来て、私を助けてくれたんですか? あまりにもかわいそうだったから」
「ちが」
「大丈夫ですよ。あなたの期待通り、事は運んでいます。私はちゃんと、よくない方向へ進んでいますのでご安心ください。では」
言うだけ言って踵を返すと、ぐっと腕をつかまれた。振り払おうとするが、見かけによらない馬鹿力がそれを許さなかった。
「確かに、私はあなたを見に来ました。だけど、あなたが想像している理由なんかじゃありません」
「……」
「彼が、言っていたんです。『僕はあの人の顔が好きだったんだ。何もかもを飲みこんだ上で、それでも凛としていようとする彼女の表情が』って」
『何もかもを飲み込んだうえでそれでも凛としていようとする』
そんなセリフはとんだ皮肉だ。今の私は、何もかもを飲み込んだうえで、多様な刺激物でそれらに蓋をしているだけ。その結果肌が荒れてニキビが出現し、見知らぬ若い女共から恥ずかしいと思われている。
「実際見てみてどうでした? 想像とは、違ってたんじゃないですか?」
「……」
沈黙が私の言葉を肯定する。この人も、彼に似てとても正直な人間のようだ。
「はい。もっと、わからなくなりました」
「え」
その声に思わず顔をあげる。
「あなたの顔を見れば、何かしらの答えが見つかると思ったんですけど。そんなわけなかったです」
野太い声を発し続けるその顔を、ついまじまじと見てしまう。
「あの、もしかしてあなた……」
「そうです。私、戸籍上は男なんです」
「……」
「だけどあの人はこんなこと、まったく想像していないと思います。だから私はこれからも、本当のことをあの人に告げるつもりはありません」
「だけど、隠し通せることでもないですよね?」
「……はい、その通りです。だ、だから私……」
そこまで言うのが精一杯だったのだろうか。彼女は二の句を告げないまま自身の足先を見つめ、ぼたぼたと涙を落とし始めた。
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