「お父さん」 追悼

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4、父の思い出 やせ形で、お酒よりも、甘いものが大好きな父だった。 おはぎやお汁粉は、たぶん3倍 いや4倍は食べるかな。 実家のお土産とは別に、父用に、栗入りどら焼きや 甘納豆と栗の詰め合わせなどを持参した。 父は、うれしそうに 「ひとつ、いただきましょう」と言いながら、何回も手を伸ばしていた。 甘いものが好きな割に、全然太らないのは、働くからなのだろう。 実家は、昔から大きな農家で米や麦を作っていた。 小さい時の記憶だが、田植えの時期には、人も雇っていた。 植木もいっぱいで、年に数回、職人が入っていた。 実家の隣は、曹洞宗の大きなお寺があるが、それと同じ位の 門構えなのだ。 父の兄妹は、8人いるが男は父だけだ。 そう、跡取りは、父だけなのだ。 そもそも、実家は白い蔵がある、数代続く家なのだが、代々女系で家督は お婿さんが継いでいたのだと聞いた。 父は久しぶりの長男で、大事にされた様だ。 実は、父は教師をやっていたのだという。 中学の社会科を10年ほど。 オルガンもあった。数回ほど、聞いた覚えがある。 カメラもニコンの二眼レフを持っていた。 私や兄の幼少時の写真があるので、昭和30年位だろうか。 当時の価格で、2万円と言っていた。パンが5円 10円の時代だから、今の価格なら30万~40万と言ったところか。 サングラスやハット帽子が山ほどあった。 それを、幼い 兄弟に付けさせて、写真を撮っていた。 結婚後も実家に行くと、鞄の中から昔の写真を見せたがる父だった。 「そんなものまた持ってきて」と みんなから揶揄されていた。 家には、トラックだが、4輪車があった。 当時は、車がある家がめずらしい時代だった。 荷台に幌が取り付けられる用になっていた。そう、自衛隊のトラックのように。その、荷台にコタツ櫓と布団を入れて、家族で、米軍の横田基地に行った記憶がある。 父は、農家の跡取り長男のため、戦争には招集されていないのだ。 それが理由か分からないが、自衛隊 警察 警備員 などの 制服にあこがれが強かった。 とにかく、紺色や国防色カラーを着用していた。 シャツ・ジャンパー・つなぎ・背広 目にするものはみんなその色だ。 農家だけで生活が成り立ったのは、昔だけで、お米がだぶつくようになると 政府方針で休田を余儀なくされると、働きに出るようになった。 専業農家から兼業農家になったのだ。 今から思えば、家・山・田畑の税金、私達の学費、部活、バイク購入などに現金が必要だったからなのだろう。 大型トラックの運転手をやったり、晩年にはガードマンの職に就いた。 父は、ガードマンの制服がとても気に入った様で、夜警に出る前に正装姿で敬礼して「行ってきます」と、笑いながら出ていった。 先生 → 農業 → 運転手 → 警備員  そして、時間が空くときは、畑仕事。暇を見つけて、庭木の剪定だ。 働きっぱなしで、太る事なんか出来ない訳だ。
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