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◆
その日はすっかり遅くなった。
授業の後、塾の先生にした数学の質問が長引いて、気がつけばもう八時。空はすっかり藍色に覆われて、大きく丸い満月が輝いていて、小さな星達もまるで溢れるように瞬いていた。
「早く帰って、復習に明日の宿題、やらなきゃな」
克也は『ペットショップ アーサー』を素通りした。
あの日……江崎 紅を見て以来、彼はその店には一度も入っていなかった。あの日の笑顔は眩しくって、克也の頭から離れなかったけれど……でもやはり、彼にとっては敵。顔を合わせたい相手ではなかった。
その代わり、クラスでワルとつるんでいる紅を目の端で見ることは多くなった。彼女は相変わらず、いつ見てもポーカーフェイスでスマホをいじってばかりいたけれど……克也はあの笑顔を見た時から、僅かに彼女のことが気になっていた。フワリとカールした柔らかそうな茶色の髪に、くっきりとした二重まぶたの大きな目、透き通るほどに白い肌に、鎖骨の間に覗かせた翡翠色のネックレス。クラスで一位、二位を争うほどの美少女……贔屓目に見なくてもそのことは明らかだった。
でもやはりぶっきら棒な表情の彼女を見ては「あんなの、気にも何にもならない」と自分に言い聞かせていたのだ。
商店街を抜けて少し歩いて……駅までもう僅か、目と鼻の間くらいの距離に差し掛かった頃だった。
それはいつもは寂れた、ほとんど人の通らない通りで。けれどもその日は、大学生くらいだろうか……柄の悪そうな男達が、誰かを取り囲んでガヤガヤと騒いでいた。
(何だろう……?)
柄の悪そうなそいつらは関わり合いたくない人種で、克也は急ぎ足を進めた。だけれども……彼らが取り囲んでいる者をその目で捉えて、克也は思わず振り返った。
(江崎……)
そう。どう見ても柄の悪いそいつらに取り囲まれていたのは、紅だったのだ。
そいつらは、知り合い? それとも……。
「ちょっと、離して……やめて下さい」
「いいじゃんかよ、姉ちゃん。ちょっと、俺らに付き合えって」
紅は顔を強張らせて……明らかに嫌そうにそいつらの手を振り払った。しかし、彼女が嫌がれば嫌がるほどにそいつらはヒートアップした。
眉間に皺を寄せて必死に振り払おうとする紅と、克也は一瞬目が合った。その目は泣きそうに、縋るように自分を見つめてきた。
だがしかし、克也はその中に割って入る勇気がなかった。
(関係ないよ。だって、あいつ……『敵』だもん)
そんな想いと共に、さっとその場を逃げ出した。
そう……あいつは敵。克也がワル達に絡まれていても、いつもスマホを見て、自分のことなんて見て見ぬふりをして。だから、自分もわざわざ危険をおかしてまであんな奴を助ける道理なんてない。
誰か……警察か、通りすがりのサラリーマンでもいい。誰かに「柄の悪い男達が女子に絡んでいます」って伝えて自分はいつものように家に帰ればいいんだ。
でも、その日に限って周囲に人の影は見当たらなかった。いつも寂しいその通りだったが、その日はよりがらんとして人の気配はなくて……彼は焦った。
(このまま、見なかったことにする?)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
だって、あいつ……江崎はいつも、自分に対してそうしていた。それに、彼女に絡んでいた奴らは本当に柄が悪そうで……その歪んだ笑顔を思い出しただけで、彼の足はすくむようだった。
だけれども……克也の脳裏には、紅のあの笑顔が浮かんだ。
数日前、ペットショップのハムスターのケージの前で、小さな女の子の前で見せた、天使のようなあの笑顔。
守りたい……克也の中でそんな言葉が反芻した。
僕はあの笑顔を……美しく可愛らしい、あの笑顔を守りたい!
「くそっ……!」
克也は思わず、あの場所……彼女が取り囲まれていた場所へ走り出した。
「ちょ……ちょっと! やめて下さい!」
男達は無理矢理に紅の手首を掴んで引っ張っていて……路地に連れこもうとしているのだろうか。
克也はそんな彼らの中に割って入った。
「僕の友達に……何か、用ですか?」
すると、金髪のいかにも悪そうな男が顔をしかめた。
「あぁ? 何だ、お前?」
「僕は……彼女のクラスメイトです!」
そんな言葉を聞いた途端、男達の嘲るような笑い声が響いて……だけれども、紅は目を見開いてじっと克也の目を見つめていた。
克也はついついと、真っ直ぐに紅の元へ歩み寄って、手を握った。
「走ろう」
そっと囁いて……克也は紅の手を引いて、思い切り走り出した。
「こら、この……」
その瞬間に、紅も手首を掴む男の手を振り払い、克也に引かれるままに思い切り駆け出した。
「おい、こら。待てよ、この……」
後ろから、男達の怒声が響く。追いかけてくる音がする……だから、克也は紅の柔らかな手を離さずに走り続けた。
克也は女子の手を握るだなんて、初めてのことで……でも、そんなことを意識する余裕もなかった。息が切れて、汗が吹き出しても、ただひたすらに走り続けたのだった。
「ちょ……ちょっと!」
どれくらい走っただろう……あの寂しい通りを抜けて、人通りの多い歩道に出たあたりで紅は息を切らしながら叫んだ。
「もう……撒いたみたいよ」
「そっか……」
克也は止まって、ぜぇぜぇと肩で息をした。
「ねぇ……」
「えっ?」
「手……握ったままなんだけど」
「あ……あぁ、ごめん」
全く悪いこともしていないのに謝る克也に、紅の顔は綻んだ。
「えっと……佐原くん……だっけ?」
「あ……あぁ」
紅が自分の名前を知っていた……クラスメイトだから当然のことなのだが、そんな当然のことに克也は少しドキッとした。
「ありがとね」
紅はそっと頬を染めて言う。
助けたから礼を言われて当然なのだけど……彼女のそんな素直な一面に、治まりかけていた克也の鼓動はさらにバクバクと高鳴った。
息が整って少しずつ汗も引いてきて、二人の足はお互いの家へと向かっていた。
いや……実は克也の家は反対方向なんだけれど、ここで別れるのも冷たいような気がして、彼は紅の歩く方向へ付いて行った。
「あいつら、知り合い?」
克也が紅に尋ねると、彼女は首を横に振った。
「いや、知らない。会ったこともない奴ら」
「会ったこともないのに、絡まれたんだ?」
まぁ、この容姿だから無理もないけれど……。克也の目の端に映る彼女はやはり、人形のように美しくて。先程までそんな彼女の手を握っていたと思うと、彼の胸ではまたバクバクと心臓が暴れ出した。
すると、紅はまるで嫌なことを思い出すかのように眉間に皺を寄せて、口を尖らせた。
「そうなのよ。バイトの帰り……今日はちょっと遅くなったんだけど、夜道で急に声を掛けてきた」
「ふーん……バイトって?」
本当は知っていたけれど、克也は敢えて尋ねた。
「ペットショップで……つい、この間から」
「そっか」
ぼんやりした返事を返す克也の顔を、紅が覗き込んだ。
「ねぇ、あなたは? こんな時間まで、何してたの?」
「僕? 僕は塾行ってた」
「うわっ、真面目! やっぱ、あなたって、見かけ通りだね」
茶化すように言う彼女に、克也は「放っといてよ」と言って、頭をポリポリと掻いた。
紅と会話をしたのは、初めてだ。だけれども、それはまるで自然で……自分とは別世界の人間のように思っていたけれど、そんなことはないのかも知れない。
「じゃあ……この辺で。家、もうすぐそこだから」
街灯の下で、紅はそっと微笑んだ。
「そっか」
克也は立ち止まった。自分の家からはもうかなり離れてしまったけれど、初めて紅とこんなに会話ができて良かった……いつも見せない笑顔を見せてくれる彼女を見て、そう思った。
街灯に照らされた彼女はまるで透き通るように美しくて……その美しすぎる彼女を見て、克也は何だか不安になった。
「江崎さん。本当に、気をつけなよ」
「えっ?」
不思議そうに自分を見る紅から、克也は赤くなって目を逸らした。
「めちゃくちゃ可愛いから……変な奴にすぐ狙われそうだし」
すると、紅の頬はみるみる紅色に染まって。克也の言葉にただ、こくりと頷いた。
紅はまだ何か、言いたげだったけれど、克也は踵を返して。紅も自分の家に向かって、とぼとぼと歩を進めた。
紅と別れた克也は、ぼんやりと空を見上げた。藍色に広がる空には、吸い込まれそうなくらいに綺麗な星達が瞬いていた。
(明日、教室で会ったら……また元通り、なんだろうな)
そう。彼女はクラスの中心……所謂、リア充のグループで、地味な自分なんかには見向きもせずにスマホばかりいじっている。
そんないつも通りの毎日が、また始まるのだろう。
(でも……)
克也はさっきまで……彼女と話していた、あの時間を胸の中で反芻した。
紅が教室の中では決して見せない一面……自分に礼を言ってくれて、きちんと自分の方を向いて話してくれて。そして、そんな紅はやっぱりすごく可愛くて、克也の胸では鼓動が高鳴って、ずっとときめいていた。
だから、あの時……彼女が男達に絡まれていた時、逃げないで勇気を振り絞って良かった。克也はそう、思ったのだった。
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