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春はどこからやってくる
――私、突然ですが、本日、失恋しました。
ここは都内のオフィスビルに拠点を構える某大手商社。ひっきりなしに先方や他部署からの電話ベルが鳴り響き、社員の声が飛び交っている。この四月から入社五年目の私、藤原千尋は、毎日沢山の業務に囲まれて、多忙を極めていた。最近は大きな新規プロジェクトのリーダーの一人に抜擢されたのだが、とにかく忙しく、一日二十四時間のうち、半分以上の時間を仕事に費やしている日々だ。ご飯を食べる時間と寝ている時間以外は全て仕事をしているという荒んだ生活をしているが、そんな中で、唯一の癒やしがあった。それは、最近気になっている三つ下の後輩の夏目涼太くん。クールで一見とっつきにくい後輩であるが、仕事が早く、何かあるとすぐに助けてくれる。後輩のくせに頼もしい反面、時折見せる年下らしい笑顔に、気付いたら虜になっていたのだ。最近は先輩である私をいじってくるが、それが内心嬉しかったりする。
「藤原さん、資料の作成終わりましたので、確認お願い致します」
「助かったよ。本当にありがとう。夏目くん、仕事早いね」
「普通です」
「お礼にチョコあげよう。美味しいよ、それ」
「子ども扱い止めてもらって良いですか。俺、もう大人なんで」
「そんなこと言わないで。糖分は疲れた脳に効くらしいよ」
「全く」
ため息をつきながらも、ガサガサと袋を開けてチョコを食べていた。
(なんだかんだ言って、ちゃんと食べてくれるところが可愛いんだよなあ)
微笑ましく思いながら、私は再び業務に集中した。
*
「お疲れ様。お前も無理するなよ」
上司に声を掛けられ、ハッと時計を見ると、時刻は夜の十時を回っていた。もうこんな時間か……。そろそろ帰ろうかな。でも今作っている資料は今日中に提出するって言っちゃったしな……。もうひと頑張りすることにした私は、気分転換にジュースでも飲もうと自動販売機に向かう。すると、手前の給湯室から、聞き慣れた声がした。
――夏目くんだ。
同期の子とコップ片手に雑談をしている。夏目くんもまだ会社にいたんだ。心躍りながら、つい、雑談の内容に耳を傾ける。
「お前、最近どうなの?」
「なにが? 別に。彼女とはとっくに別れたよ」
「へえ。今、気になってる人とかいないの? そうだ、お前が入っているプロジェクトのリーダーの藤原さんってさ、絶対お前のこと好きだよな」
(私のことを話してる……?)
自分の名前が出てきたことに驚きを隠せないまま聞き込んだ。すると――
「藤原さんね……。良い人だけど、顔の肌がボロボロで残念」
「うわ、容赦なし。お前、透明感ある子好きだよな」
*
目が覚めると、自宅のソファの上だった。昨日、帰宅後すぐにソファの上に倒れ込み、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。化粧も落とさず、お風呂も入らず、洋服もそのままだった。
「いけない……。お風呂入って、化粧落とさなきゃ……」
このままじゃ、肌に悪い……そう思った瞬間に、昨日の夏目くんのショッキングな言葉を思い出した。――顔の肌がボロボロで残念。
私は学生時代から、グローバルな仕事がしたかった。就職活動中、商社であれば世界と関わりながら仕事ができると分かり、必死の思いで、なんとか希望通りの会社へ入社した。出社初日は不安もあったが、それよりも、すれ違う高いヒールの先輩たちや、キレイなオフィスに心躍らせた。数年後の私は、きっとキラキラした笑顔で、素敵な同僚に囲まれて、自分の能力を最大限に発揮している。プライベートも充実して、きっと心から尊敬できる素敵な恋人もいるに違いない。そんな自分の姿を思い浮かべていたはずなのに。現実は、毎日、夜遅くまで残業。鏡を見れば化粧が崩れた覇気のない顔。おまけに乾燥肌といくつかのニキビで肌はボロボロ。素敵な恋人はいないどころか、家族や友達ともロクに話せていない毎日。自分はなんでこの仕事を選んだのだろう。この道を選んで正解だったのだろうか――。
こみ上げる気持ちをぐっと抑え、今日も家を出る。会社に到着すると、背後から自分の名前を呼ぶ声がした。
「千尋、おはよう! 元気? ……じゃなさそうね」
よっぽど覇気がない顔だったのか、同期の中村澪が心配そうな顔でこちらを見ていた。
「澪…おはよう」
「千尋、大丈夫?仕事忙しい?」
「新しいプロジェクトのリーダーになっていて仕事が立て込んでいて。でも、なんとか元気だよ」
「そうなんだ。それは大変だね。今日のお昼、時間ある? 良かったら一緒にお昼食べようよ。たまには気分転換も大事だよ!」
「わあ、そうだね。ありがとう! 一緒に食べよう」
「じゃあ、十二時に一階で待ち合わせね」
「わかった。またあとでね」
澪は大きく手を振り、途中の階でエレベーターを降りていった。
*
十二時を回ると、人が一斉にお昼に向かう。次から次へとやってくるエレベーターは全て満員で、なかなか乗れずにいた。すると……
「あ、藤原さん、お疲れ様です」
声を掛けてきたのは、夏目くんだった。
「あ、お疲れ様」
また昨日のことを思い出す。肌を見られたくなくて、思わず顔をそむけた。普段はなんてことない会話がポンポンと出てくるのに、今日は何も言葉が出てこない。
(私って思ったより傷つきやすい人間だったんだな……)
心の中で、なにか言わなくちゃ、と考えていると、一人分が空いているエレベーターがやってきた。
「ごめん、私、急いでるから」
夏目くんにそれだけを言い残し、私はそそくさとエレベーターに乗り込んだ。
「あ……はい……」
いつもと私のテンションが違うことに気が付いたのか、夏目くんは、少し気まずそうな顔をしていた。
「ごめん、澪! 待った?」
「ううん、大丈夫だよ、今来たところ」
「良かった。じゃあ行こうか」
「今日は良さげなお店見つけたから、そこ行こうか!」
澪に言われるままついていくと、テラス席のあるおしゃれなお店だった。席につき、メニューオーダーが終わると、早速澪から質問が投げ掛けられる。
「何があった?仕事?恋愛?」
朝、仕事が忙しいことを理由にしたが、澪には全てお見通しのようだ。
「恋愛……」
「どうしたの?」
「実は……後輩に気になってる子がいたんだけど……」
昨日の夜にあったことを全て話し終えると、澪はニヤリと笑った。
「そんなの簡単じゃん!肌の悩みを解決して、可愛くなっちゃえばいいんだよ!」
澪曰く、人間の印象は肌のキレイさでだいぶ変わるとのこと。そして、肌のコンディションが悪いと、「疲れていそう」という印象を与えやすいと、どこかのインターネット記事で読んだらしい。
「どうすれば肌の悩みって解決するんだろう」
「まずは基本的なところからだね。十分な睡眠とバランスの取れた食事!洗顔に気を付けるのと、肌のスキンケア! これはマスト!」
確かに最近、残業続きで不規則な生活になってしまっている上に、栄養の偏った食事ばかりだった。昨日も化粧したまま寝てしまったし、肌に悪いことだらけの生活だった。
「ニキビ肌ケア用の製品でおすすめのものがあるからぜひ使ってみて」
昼休みの時間を使って、澪はたくさんのアドバイスをくれた。
「本当にありがとう。少しずつ頑張ってみるね」
「そうだね! 少しずつキレイになって、その後輩ちゃんを見返してやって。千尋、頑張れ!」
*
私はそこから毎日の生活習慣を見直した。食事の栄養バランスを考えて、できるだけ決まった時間に毎日きちんと三食食べることを心掛けた。また、残業続きでどんなに疲れても、家に帰ったら丁寧に化粧を落とし、ゆっくり湯船に浸かる。そして、澪から教えてもらったおすすめのニキビ肌ケア製品で、肌のトリートメントを欠かさないようにした。
「藤原さん、先方に提出する書類、もう一度見直しておいてくれる?」
「承知致しました。今すぐやりますね」
「……藤原さん、最近、なんだか前より明るくなった感じがする」
「え、本当ですか? ありがとうございます!」
「なんか肌のツヤが良くなったよね。若いって良いな。みずみずしいね」
「えへへ、ありがとうございます。今までニキビに悩まされていたんですけど、最近はちょっと良い感じです」
しばらく経つと、上司が変化に気が付いてくれるようになった。そして、何よりも――
「一緒にコーヒー買いに行きませんか?」
「夏目くん!」
「働きすぎもよくないと思うんで……ね?」
「良いよ。じゃあ、いつも頑張っている後輩くんに、優しい先輩がご馳走してあげよう」
「でた。本当にそういうのやめてください。そんなことより……」
夏目くんがじっとこちらを見た。
「藤原さん、最近、キレイになりました?」
「えっ」
「ほら、行きますよ」
「今なんて言った?」
「なんでもないです。ほら、忙しくて時間ないんだから」
夏目くんはプイッと顔をそむけ、スタスタと歩いて行ってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
外では春の風が吹いていた。
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