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それが高校の頃、たった1度、数学の宿題を忘れた日。教師に言われた。
「これだから母子家庭のやつは」
吐き捨てるように。学生服の下で心臓がきりりと冷えた。長いこと母子家庭育ちをやっていたが、その日初めて母の言うとおりの言葉をぶつけられたのだ。
数学教師は眼鏡の奥の目に軽蔑をにじませて俺をまっすぐに見ていた。自分は何ら恥じることはないと、当然のことを言っているだけだと、その目が伝えてきた。
「人はなあ、親の背中を見て育つんだよ。両親の背中だ。んでおまえは?母親の背中しか見てねえんだよな。じゃあ一生半人前だわ。そういうもんなの。俺は長いこと教師やってるけど、母子家庭とか父子家庭のやつはやっぱダメなんだよ。ダメなの。親のせいだけどな。親の都合でおまえも気の毒だけどさ。まあ仕方ないよなこればっかりは」
教師は一方的に語ると、犬にそうするようにしっしと手を振った。屈辱で唇が震えたが、母親のしっかりしなさいを頭に思い浮かべてなんとか一礼した。職員室は静まり返っていて、いつも俺をほめてくれる国語教師でさえかばってくれなかった。かばってくれなかったということは、きっとあの先生も俺を見下していたんだろう。絶望的な気分で職員室を後にしたが、入れ違いに入室した加藤が、軽い調子で「せんせえ、宿題忘れたわ!家に取りに行くから授業遅れまっす」というのが聞こえた。職員室のドアの外で、俺は立ち尽くした。「あほかおまえは!取りに行かんでもいい。明日必ず持ってきなさい」数学教師は笑いながら応えた。
殺してやりたいと思った。誰を。
あの日から、母を守るためのしっかりしなくちゃという気持ちは、自分を守るためにもなった。俺は母子家庭育ちだから。後ろ指をさされないためには人の何倍も頑張らなきゃならないのだ。それが「当然」なのだ。しかし、母子家庭育ちで一生半人前の俺が、父親になれるのだろうか。父親を知らないのに。正解の父親を、知らないのに。
胸がざわざわする。先ほどの愛しい蹴りの感覚が手のひらによみがえり、ぎゅっとこぶしを握る。手本を見たい。背中を。父親の背中を。ばかげている。でも今の俺に必要なのは、そういう、まっとうな父親という存在の気がした。
加藤のことを思いだす。俺の隣でのびのびとすくすく育ったあいつ。あいつも確か今父親やってる。少し深呼吸してスマホを取り出し、加藤に電話をかける。耳にスマホを当てて待つ。でも出ない。そうか。忙しいのかもしれない。俺は呼び出し音が鳴り終わる前に自ら終話ボタンを押した。
……帰ろう。帰って、今まで通りやろう。ちゃんと。俺は父親になる。なるんだ。なれるのか?
一度蓋を開けてしまった思いは、しつこくつきまとってくる。それでも考えを振り払うように来た道を引き返すために歩き出す。しばらく歩くと、スマホが鳴った。表示されているのは加藤の名前だった。
「もしもし!ごっめんな、今子供寝かしつけててさあ」
相変わらず軽い口調だ。数年前に子供が生まれたと連絡をくれたきりなのに、毎日会ってたときと変わらない親しさだ。
「おまえが電話してくるなんて珍しいじゃん。どうした?」
「うん。俺、もうすぐ父親になるんだ」
「えっ、マジ!?よかったじゃん!おめでとう!」
加藤が心から喜んでくれているのがわかる。もしかしたら今の俺より喜んでいるかもしれない。
「そういう報告してくれるとも思ってなかったしめちゃくちゃうれしい!よかったなあ」
「あのさ」
俺はうれしさを前面に出している加藤の言葉を遮った。
「それでその……父親って、何したらいいんだろうと、思って」
「へえ?」
「ほら俺母子家庭じゃん。だから父親って何をしたらいいのかさっぱりわからなくて。ちょっとなんというか、自信がないんだよ」
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