父親になる

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妻が妊娠したと嬉しそうに報告してきたとき、俺だってもちろん嬉しかった。けれど妻の腹がだんだん膨らんできて、あなた、動いたわ!と言われ、その腹に手を添えたとき。赤ん坊が力強く妻の腹越しに俺の手を蹴ったとき。俺は、そのときまで考えないようにしていたある後ろめたい思いをじっと見つめてしまったのだ。 俺は、父親になれるのだろうか。 「ね、蹴ったでしょ!すごいよね!」 つわりがだいぶ落ち着いてきて、体中ふっくらとしている妻が顔をほころばせる。俺はそうだな、とあいまいにほほ笑んだ。 俺は、父親になれるのか。 この後ろめたい思いを妻に悟られたくなかった。俺は妻の腹からそっと手を放す。 「少し出てくる」 目を丸くする妻に、すぐ帰るよと声をかけて。不自然なことはわかりきっていたが、俺は家を出た。行くあてなどはなかった。夏の夕風がぬるく頬をなでる。もう19時だというのに日は高く空は明るい。家の前に突っ立ているわけにもいかず、俺はとぼとぼと歩き出した。 俺は母子家庭で育った。今時珍しくもない。物心ついたときには父親はおらず、母親が必死で俺を育ててくれた。「母子家庭の子はやっぱりだめ」そんなレッテルを貼られないために、母は俺を厳しくしつけた。今では違法行為だが、俺が子供のころはしょっちゅう母に叩かれた。朝顔の水やりを1日忘れたとき。茶碗を落として割ったとき。しっかりしなさい、しっかりしなさいと。俺が失敗すると母は泣きそうになっていた。かわいそうだった。俺よりも母のほうが世間の目を恐れていたのだ。俺は近所に住んでいる加藤という両親そろっている幼馴染の生活――朝顔を枯らしたり、傘を振り回して壊したり――を知っていて、加藤が親にあまり叱られていないのも知っていたから。不公平だなと思っていたのだ。母子家庭を理由に厳しくされるのは、やっぱり理不尽じゃないかと。両親そろっていてもだらしない奴はいるじゃないかと。でも俺は、母のために、母を世間の目から守るためにしっかりしなくてはならなかったのだ。
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