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「やっぱりこの時間多いわ。間に合うんやろか」
「なあ、あんた。こんなん信号とかも消してしまうん?」
「交通量の多いところはさすがに無理みたいやけど、消せるところは消して警察官やら立たせてなんとかするらしいんよ。ほんまに大がかりやんな。街のほとんどの警察官があっちこっちに出てはるみたいやわ」
ぶつぶつひとりで文句を垂れているおばあちゃんを後部座席に乗せ、ひたすら車を走らせた。家からしばらく行ったところに、普段は夜景スポットで人気の山道がある。今夜は街を見下ろすためではなく、空を見上げるためにたくさんの人たちが向かっていた。できるだけ空に近い場所で、今夜起こるであろう奇跡を目に焼き付けるためである。
『星降る夜』と名付けられたその日は、知事自らによって発表された。そして、明確な日にちが決まってから街の動きはますます勢いを増していった。飲食店の多くはその日に向けたイベントなどを用意し、限定メニューやテラス席を設けるところもあった。宿泊施設などは県外からの予約でほとんど満室になり、各地の学校では、その時間帯学校の校庭を一般開放するようなところまであった。テレビやラジオでは具体的な交通規制についてや、当日の車での走行はできるだけ控えてくださいなどのアナウンスが連日流れるようになっていった。街頭ではいくつかのボランティア団体が協力して、『星降る夜の実現を』と題して手作りのビラを配り、明かりの消灯を呼びかけていた。
「うわあ。やっぱり人すごいわ。みんな考えてること一緒やね。天気も予報通りやからよけいやろうね」
山の高台には、一時間前とはいえもうすでに大勢の人で埋め尽くされていた。本格的な天体望遠鏡を持参している人もいたが、あまりの人の多さに諦めてたたんでいる。高台からはまだ夜の街が広がっていた。
わたしはおばあちゃんの車椅子を押しながらできるだけ人ごみを避け、街を一望できる場所でなんとか落ち着いた。高揚感で溢れかえったこの場所には、様々な人たちが集まっていた。作業着姿の人や、スーツ姿のサラリーマンやOL。パジャマのまま急いで出てきたであろう家族まで。たくさんの人たちが、たったひとりの小さな女の子が起こす奇跡を見るためだけに集まっていた。
「なあ、これほんまに全部消えんの? 信じられへんわ。ここまできてやっぱり無理でしたとかなるんちゃうの」
いまだ半信半疑の母は、あまりの人の多さに少し苛立っているようだった。
そして、約束の時間は思っていたよりもすぐに訪れた。
「あと五分」
群衆の中の誰かがそう叫ぶと、すでに歓喜に満ちて声をあげる者もいた。わたしも声には出さなかったけれど、心臓を打つ音が、強く、早くなっていくのが分かった。体の中心からはなんとも言えない何かが溢れて外に飛び出そうとするのを、必死に堪えている感覚があった。母もいつの間にか周囲の興奮に取り込まれて「はあっ、なんやもう、わくわくするな。あと何分? もうなるんちゃうの?」と街を見下ろしていた。おばあちゃんは相変わらず、不機嫌な表情のまま車椅子に腰掛けている。いまだに山道の渋滞を走っている車は、諦めたのかそれぞれ次々とヘッドライトを消し車を降りて、通り沿いに集まっていくのが見えた。
「10……。9……。8……」
どこからともなくはじまったカウントダウンに、人々の興奮は最高潮に達していた。わたしはおばあちゃんの肩に手を添えて、その瞬間を待った。
「携帯消して!」
再び誰かの声がして、わたしも母も慌てて携帯電話の明かりを消した。
「1……。……」
そして次の瞬間、高台の街灯、山道沿いに連なる街灯が一斉に明かりを落とした。見下ろす街の明かりも次々と消されていき、地平線の先まで消えるのにそう時間はかからなかった。瞬く間に街全体から光が失われ、ほんの僅かな明かりを残しただけですべてが暗闇に包まれた。
誰もが歓喜の渦に包まれ声をあげると思っていた。
誰もがその美しさにありきたりな言葉をこぼすと想像していた。
けれどその瞬間。
誰もが言葉を失った。
地平線の先の光が消えたその瞬間から、膨大な数の星が瞬き、煌めいていた。それはまるで、世界中の人たちが両手いっぱいに星の欠片をすくって、せーので空へ散りばめたように目に映る世界のすべてを覆いつくしていた。そしてわたしたちから確実に言葉を奪っていったのだ。わたしはしばらく地平線から広がる無数の星を眺めた後、ゆっくりとその視線を空高くへ向けた。
ああ、わたしは今。空へ向かっている。
それは、そう思わざるを得なかった。
空を二分するかのように流れる星は、雲のような星団となって、わたしたちに降りそそぎ、まさに天を流れる巨大な星の川だった。
わたしは泣いていたのかもしれない。
それとも、天の川から零れ落ちた星の欠片が頬をつたっているのかもしれない。
誰かの手が見える。
大きく広げられたその手は、散りばめられた星を掴もうと空へ向かってまっすぐに伸びている。
それはわたしの手だった。
伸ばせば届きそうなほどに目の前を埋めつくす星々に向かって、まっすぐに伸びていた。気が付けばまわりの大勢の人たちも、わたしとおなじように空へ向かってまっすぐに手を伸ばしていた。膨大な量の星が舞う夜空に向かって、それぞれの小さな手の平が無数に向けられている。
その時、誰かがわたしの袖を引っ張った。
おばあちゃんだった。
わたしがおばあちゃんに気が付くと、おばあちゃんは体を精いっぱい起こして手を伸ばし、空を流れる天の川を指さした。
「ほれ、見てみい。ほれ、あそこや。おじいさん待ってはるわ。あんなとこでちゃんと待ってはるわ。えらいわろうてからに。そうか、そうかあ」
もう随分見ていなかったおばあちゃんの笑った顔は、すこし皴が増えたように見えた。わたしは涙がおばあちゃんに零れ落ちないように、おばあちゃんが指さした方へ顔を上げた。
「おばあちゃん、ほんまや。ほんまやね。あそこでちゃんと待っててくれてはるやん。心配いらんで。ほんまや。ほんまや……」
わたしの母は何も言わず、わたしの肩でずっと声をあげて泣いていた。
「しゃ、写真……」
誰かの声がして。それをきっかけに大勢が一斉に携帯電話やタブレットを空へと向けた。それぞれから放たれる大小さまざまな無数のブルーライトは、山道沿いを流れ街に向かって伸びていった。それを見たおばあちゃんは目を丸くしてわたしに言ったのだ。
「見てみい。星が降ってきたで。天の川が降ってきたで」
わたしの腕を掴んでゆっくりと立ち上がるおばあちゃんの手をとり、わたしはもう一度空を見上げた。そしてふと、わたしはあの星の少女のことを思い出した。体育館で幼い体からまっすぐに伸びた、まだ小さくて真っ白な細い手の女の子。きっとあの頃よりすこし背も伸びて、まだ小さかった弟はもうお姉ちゃんの手をかりることなくしっかりと立ち上がって。あの少女もきっと、今この空を見ているのだろう。星が大好きな弟と一緒に、体育館の時とおなじようにまっすぐ星に向かって手を伸ばしているにちがいない。目を輝かせ、幸福に満ちた笑顔で、声をあげて星空を仰いでいるはずなのだ。
たったひとりの女の子が起こしたこの奇跡の一時間は、空を見上げるそれぞれの人たちの心に、星とともにたくさんの幸福が降りそそいでいるのだと思う。
星降る夜に。
わたしはそう願わずにはいられなかった。
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