第一話『九十九号計画』その2

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第一話『九十九号計画』その2

 格闘教練。  かろんは既に組内に相手ができる者がなく、その日も黙々と一人で鍛錬していた。  簫八は自分と力量が近い級友を掴まえて、来るべき技術試験に備えている。  鯖吉は筋力を鍛えるふりをして、苦手な時間をどうにかやり過ごしていた。このままここにいても兵士になどなれまいし、親が期待している人格矯正も期待できないどころかますます卑屈になるばかり。この頃の鯖吉は、一体どうやってこの学校を辞めようかとそればかりを考えていた。いっそのこと大怪我をすれば兵士になる見込みが立たず強制退校となるかもしれない。そう思った矢先だ、背中に痛撃を食らい鯖吉は見事に吹っ飛び壁に強かに額を打ちつけた。  かろん。  かろんが無言で立っている。その手には絹の帯のようなものを持っていた。  かろんの後ろから奥目地曹長が野太い声を投げた。 「貴様がやっていたのは、なんという格闘技だったか」 「天鈿(てんでん)であります」 「てんでん」  天鈿。  古の昔、後宮の女房を護衛する立場にあった女官が創出した武芸。丈夫でしなやかな布を自在に操り、目隠しそして防御に使う。 「やって見せろ」  息つく間もなく鯖吉はかろんの操る帯状の布に絡め取られた。 「か、かろん姉ちゃん、やめてよ」  かろんは鯖吉ごと布を引き寄せその顔面を殴打した。鼻血が噴出した。  幾人かが鍛錬を止め、様子を見つめる。  簫八そして、組内で格闘以外ではかろんより成績優秀であるハンサム羅鱶劍作、優しい七針梅子、入校初日にかろんに告白して敢えなく撃沈した脳璽。  かろんは無表情のまま動けない鯖吉を殴り続けた。  かろんは鯖吉の顔を見るたび、謂れのない中傷そして嘲笑が耳に蘇る。その音を消すには目の前の存在を叩きのめす以外にない。歪んでいる。  奥目地も止めはしない。出来損ないがいなくなれば教える負担が僅かでも減る。寧ろかろんの暴走は歓迎したいくらいだ。かろんが布を操る様を見て器用なもんだと笑っている。 「どうして……」 「なんか云った?」 「どうして? 昔は仲良く遊んでくれたのに……」 「餓鬼の頃の話をするな、ナメクジ豚!」  私はお前が嫌いなんだとかろんは鯖吉を打ち据えた。 「それぐらいにしておきたまえ」  鞭で打つような切れ味のある声。拵えのいい革の編上靴を鳴らして、ヤマツミ寮作戦中尉にして対災禍特殊作戦小隊(災禍特戦隊)隊長でもある、源グリコが颯爽と登場した。  刈り上げない程度のおかっぱ頭がどうにも幼く見せるが二十代半ばのエリート将校だ。更にその顔つきだけを見れば丸い印象を受けるも、声と性質はしなやかで鋭い。 「これは源中尉」  奥目地はおどけたように云ながら、実にいい加減な敬礼をしつつグリコの斜め後ろ立つ男を睨みつけた。飯櫃雷蔵軍曹だ。 「飯櫃、兵学校時代はよく面倒見てやったっけなあ」  飯櫃は気をつけの姿勢のまま微動だにしない。飯櫃より頭一つ小さいグリコは、奥目地のにやけた頬を見ながら、年上の部下に命じた。 「飯櫃、楽にしていいぞ」  飯櫃は口を引き結んだまま休めの姿勢をとった。  グリコは近づき過ぎの奥目地を押し退け、かろんの前に立った。かろんも女子にしては上背のあるほうだから、矢張りグリコは小さく見える。 「女生徒、名前は」 「家猫かろんであります」 「格闘技術が優れているのはわかった。程度を弁えよ」 「仰っている意味が分かりません」  奥目地は笑いながらかろんを諫めた。 「いやいやすいません。中尉と違って下賤の出である自分なんぞは日々の雑務が多過ぎまして、中々若い輩の教育まで気が回りません。それで、このような場所にどのような用向きで?」 「何も聞いていないと云うのか」  何のことやらと惚ける奥目地。口こそ笑みを消したがその目は未だに笑っていた。奥目地は休めの姿勢で固まっている飯櫃の足を踏みながら、四角い顎を捻くった。 「素質のありそうな者を見繕っておくようにと通達をしたはずだ」  グリコは飯櫃の足を踏む奥目地の足を払った。 「あ? ああ、ううむ、素質ってどのような素質でしたか?」 「本部からの指令書に目を通してないわけではなかろうな」 「目は通してますよ。ただですね、矢張り日々の雑務に忙殺されておるわけですよ」  グリコはかろんに目を向け、云った。 「こちらで直々に選別しても構わないのだ」  かろん、劍作、そのほか凛とした雰囲気のある学徒たち。 「忙しいのは貴様だけではない」  奥目地は取ってつけたような敬礼をして見せた。急いでくれと云い残してグリコは立ち去った。護衛のように付き従う飯櫃の筋肉質で丸い背とグリコの華奢な背を見送って、奥目地は舌打ちをした。  続いての授業は標準支給品の五連装リボルバーの構造に就いて学ぶ。担当教諭は機関科所属の金髪碧眼の女性士官。簫八あたりは午前の授業が響き今にも眠りに落ちそうであったので、何とか眠気を覚まそうと教諭の青い目を無駄に凝視していた。  脳璽は以前云っていた、俺は頭が悪いから勉強は必死にならないとついていけねえ。それは簫八も同様なのだが、簫八にはそれを口に出す勇気がない。認めることが成長の一歩なのだろうとは思う。ただ脳璽は、確かにかろん、劍作あたりには敵わないにせよ、格闘もそれなり運動能力も高い男であるから簫八よりは随分上にいる存在でもある。  簫八は気高いかろんを見た。後ろ姿だけでも美しいが、気性に大いに難がある。特に鯖吉に対する当たりが非常に強い。それでも組内の人気は高い。  簫八は美しすぎるかろんよりも、安心できる七針梅子が好きだ。何処となく田舎の母を思い出させる柔らかい風貌と物腰。当然兵学校であるから生徒同士の恋愛など御法度中の御法度だが、辛い日々に僅かでも潤いを見出さなくては、簫八の如き者は目的地に辿り着く前に息絶えてしまう。  その一方で簫八は、劍作は滅法苦手だ。嫌いと云ってもいい。当然女学生に人気があることに対するやっかみもある。脳璽あたりは不良上がりのよくいる人間として、好き嫌いは別に受け容れられるが、劍作は一挙手一投足そのすべてが理解できなかった。  そんなことを考えている間に授業は終わり、簫八は何一つ学べていない事実に愕然とする。しかし毎度のことであるのでそこまで気にしない。  次の授業までの小休憩。  組内の面々は各々思い思いの行動をとる。トイレに行く者、級友と話をする者、次の授業の準備をする者、居眠りをする者。  鯖吉は傷が痛むのか頻りに顎や頬を気にしていた。  劍作は周りを組内数人の女学生その殆どが囲われていた。いや、女子ばかりではない、男子生徒もどこか浮かれたような顔をしてその輪に加わっている。  かろんはいつも授業開始寸前まで戻らない。  脳璽は無意味に辺りを藪睨みしている。  梅子は本を読んでいる。 「いつも何読んでるんだ?」  話し掛けるタイミングか言葉が悪かったのか、梅子はびくりと肩を竦ませた。簫八が話し掛けるといつもそうだ。そして簫八は、自身の声が無駄に大きいことに気づいていない。 「い、いや、本。何を読んでるのかなって」  梅子はおずおずと表紙を簫八に向けた。簫八としては会話の取っ掛かりが欲しかっただけで、本気で彼女の愛読書を知りたかったわけではない。 「ん? くさりうみ?」 「腐海」 「ああ、ふ、腐海ね」  地味な装丁の薄い本。簫八はそれほど本に詳しいわけではないが、まるで知らなかった。 「誰が書いてるの?」 「……誰って云うか、色々。同人誌なのです」 「ドウジン? へえ」  梅子は眼をしばたたかせた。  迷惑に思っているだろうか、簫八にはその判断ができない。  外庭を紙飛行機が飛んでいた。  予鈴が鳴った。  かろんが戻ってくる。鯖吉が飲もうとしていた水筒を取り上げ、ごみ箱に捨てた。その様を梅子は嫌悪感たっぷりの眼差しで見つめていた。簫八は成程と思い、 「酷いよな」  そう云った。梅子は強く頷いた。  放課後になり、学徒たちは一時解放される。  夕食の調理や配膳の係でない者は、その短い時間で厳しい訓練を忘れ人間性を取り戻す。  鯖吉は痛む身体を引き摺りつつ、凹んでしまって蓋が閉まらなくなった水筒を手に起居棟の自室に戻ってきた。同室の簫八は既に戻っており、一心不乱に鉛筆を削っているところだった。 「おう、鯖吉。今日も大変だったな」  鯖吉は自分に宛がわれた寝台に腰掛けると深い溜め息をついた。 「家猫って幼馴染なんだよな、なんだってお前を目の敵にしてるんだ?」  四人部屋である。他の二人は食事当番なのか姿が見えない。  鯖吉はごく小さな声でわからないよと答えて、私物を入れた行李の蓋を開けた。中には下着と洗面道具、親からの手紙。  そして靈氣双六が収められた木の箱。蓋を開くと一尺四方の大きさになる遊戯盤が畳まれて入っている。端を升目が囲い、真ん中に半透明の台座を設置する。その台座に専用の駒を置き賽子を振る。賽子の目の分升を進み、書かれている指示に従う。指示の内容は毎回変わる仕組みだ。また台座に設置した駒によっても指示は変わる。  盤は基本的な動作を支え、差し替え可能な台座と駒によって遊戯内容が千変万化する仕組みだ。台座は安価なものでもひとつで大卒初任給が吹っ飛ぶほどの値段がするそうだが、駒が実にピンキリで、安価なものは紙巻きたばこ二十本入り一箱と同等、高価なものになるとその値は天井知らずと云った塩梅だ。  鯖吉のお気に入りは魔音(まのん)と云う名の、大きな斧を担いだ少女の駒だった。少々具象化が極端だが、全体の作りは精緻であり、彩色も華美だ。  魔音を見つめている時だけ鯖吉は自分の輪郭を取り戻すことができる。 「大丈夫かあ、鯖吉よ」 「え、うん」  いや、魔音の駒だけではない。顔を合わせれば何かと声を掛けてくれる簫八の存在は、この気弱な少年の中で存外大きいものだった。  簫八は鯖吉の手元を見ている。正確にはその手に握られた魔音の駒を見つめている。 「なに?」 「ああいや、よくできてるなそれ。高いんだろ?」 「……あ、ああ、こ、この駒? いや、これは高くないよ、た、大量に出回ってる型だから。そう、高いのは双六盤の真ん中に取り付ける台座。盤自体もそれなりに値段するんだけど、こ、この台座が高いんだ」  普段まるで話さない鯖吉が、いきなり饒舌に話し出したものだから些か面喰いながら簫八はいい加減に相槌を打った。  簫八自身は鯖吉が大切にしている玩具になど興味はない。ただこうして話し掛けることが、授業について行けず、教官に疎まれ、かろんに理不尽に攻撃される鯖吉の、何の救いもないこの学校生活の僅かな支えになるのではないかと思うだけだ。 「まだ時間あるし、花街にでも出て気晴らししようぜ」  そう簫八は誘ったが、鯖吉は用事があるからとにべもなく断った。花街と云うのが良くなかったかと簫八は舌打ちをした。  靈氣燈にぼんやりと浮かぶ街並みは、何処から湧いて出たかわからない霧で煙っていた。  砂塵町。  買い損ね手に入れられずにいた魔音の限定装備が古道具屋に置いてあったとの怪情報を得て、鯖吉は普段歩きなれない街中を右往左往していた。  街路に設えられた時計を見遣れば、既に夕食の時間が近いことが分かった。時間厳守は兵学校の基本中の基本、破れば鯖吉の苦手な肉体鍛錬を課せられる。規定回数をこなすまでは食事はおろか眠ることすら許されない厳しいものだ。焦りばかりが募るも目的の店は見つからない。目印も何も知らない、屋号もうろ覚えである。  この路地に入って突き当りまで行って見つからなければ引き返そう。そうして曲がった先で、鯖吉は青白い顔をした少女を見かけた。それは彼が命よりも大切にしている魔音そっくりの少女だった。  姿が似ているというだけで魔音ではないことは鯖吉も理解している。ただ目を離すことができない。立ち止まり少女を目で追っていると、尻を思い切り蹴りつけられた。 「ねえ、なんでこんなとこにいんの?」  かろんだった。なあと云って、かろんは鯖吉の額を鷲掴みにした。上背も腕力もかろんのほうが上だ。 「やめてよ、痛いよ」  お姉ちゃん、かろん姉ちゃん、 「お前みたいなのが外出ていいと思ってんの? 息すんなよ、勿体ない」  そんな理不尽な言葉に返す言葉などない筈だ。しかし鯖吉は未だにかろんとの日々を捨てきれないでいる。何処かに拗れた関係を修復する糸口があるのではないか、壊れた友情が元に戻る日が来るのではないか、かろんの突然の心変わりや蟠りの氷解があるのではないかと期待する。  鯖吉がなんの言葉も返さないので業を煮やしたかろんは、気分悪いと鯖吉を突き飛ばした。鯖吉のポケットから小さなガマグチが零れ落ち、かろんはそれを拾い上げ立ち去ってしまった。鯖吉は待ってと叫んで追いかけたが、足の速いかろんに追いつくことはできなかった。  結局鯖吉は夕食の時間に間に合わず、懲罰を食うことになった。歯を食い縛って肉体鍛錬をこなし、這う這うの体で自室に戻る。既に眠っているだろう同室の簫八らを起こさないよう静かに寝台に忍び込んだ。肉体が擦り切れんばかりに摩耗しているのに酷い空腹のせいでまるで眠りに就けない。このままではまた明日の座学で居眠りしてしまうだろう。腹が鳴ってその音を誤魔化そうと咳払いをしつつ寝返りを打つ。 「煮炊、にたき」  月など出ない闇の奥では、窓にカーテンがあろうとなかろうと闇は闇のままだ。 「赤原、くん?」 「簫八でいいよ。それよりお前、腹減ってるだろ」  鯖吉の腹に何かが落ちた。 「ば、バナナ?」  手に入れ難き高級品、庶民垂涎の南国果実。鯖吉は戸惑った。 「こんなのもらえないよ」 「いいから食えって」 「……ありがとう、簫八君」  鯖吉はバナナを握り締めるだけで満ち足りた気分になり、ようやく眠りに就くことができた。
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