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第一話『九十九号計画』その3
その日、鯖吉がかろんに財布を返してほしいと詰め寄ったことで、事件は起こった。
「知らない」
「お金はいい。あの財布は母からもらったものなんだ」
「しつこい、知らないって。つか、捨てた」
「じょ、冗談でしょ? 返してよ」
「しつっこい!」
かろんはそっぽを向いた。普段の鯖吉ならばかろんの仕打ちがどれほど道理にかなっていなかろうと反抗の姿勢は一切見せなかったが、この時ばかりは違った。
「捨てたんなら捨てた場所教えて、探しに行くから!」
鯖吉はかろんに詰め寄った。感情、特に怒りが外に出ることがほとんどないだけにかろんは面食らったが、それ以上にいつもに増して鬱陶しく感じた。
「近寄るな、生ゴミ」
「ゴミでいいからっ」
「あんたの母親死んでないでしょ、形見みたいな云い方して!」
鯖吉はついにかろんに掴みかかった。どうせ掴んだ腕を捻り上げられ、床に転がされるのが落ちだと鯖吉は思ったが、かろんは鯖吉の腕を掴んでその動きを止めた。
二人の諍いに割って入ったのは臥所脳璽だった。割って入り有無を云わさず鯖吉を殴り飛ばしていた。悪いのは一方的にかろんだ。しかしそれでも、脳璽は鯖吉を睨んだ。そこには脳璽自身の様々な感情が根底にある。
脳璽はかろんが好きだ。しかしかろんはまるで靡かない。少々短気であることを除けば、見た目も能力も人並み以上と自負している脳璽としては、これは意外とストレスのかかる事実だ。どう口説こうと褒め称えようと、かろんは一切脳璽に興味を抱かない。彼女はおのれを錬磨することばかりを考えている。鯖吉とは違った意味で友達も作らず、イ組の中では孤高の存在だ。
その、他人に興味のないかろんが鯖吉にだけは絡む。暴言と暴力で、要は虐めなのだが、どうあれかろんが能動的に接するのは鯖吉だけだ。
脳璽は鯖吉に焼餅を焼いていた。中々どうして脳璽も歪んでいる。
「なにを騒いでいる!」
仏頂面の奥目地がいきなり現れた。まだ始業の鈴は鳴っていない。床に倒れ込んだ鯖吉を、奥目地は蔑むような眼差しで見降ろし、脳璽にのみ何をしていると声を投げた。脳璽はふてくされたように自席に戻ると腰を下ろした。
「誰が座っていいと云った?」
かろんは何事もなかったように着席する。
脳璽は不承不承立ち上がった。
「喧嘩か、え?」
脳璽は何も答えない。奥目地は鼻を鳴らした。
「まあいい。いいか、今日の授業は予定変更。今から名前を呼ばれた者は俺と一緒に来い」
奥目地は手にした名簿に目を落とす。
「ええと、赤原簫八、七針梅子……」
さらに数人の名前を挙げ、最後に付け加えるように煮炊鯖吉の名を呼んだ。
奥目地は名簿を腋の下に挟んでなにかをぼやいた。よく聞こえはしなかったが愚痴だろう。
「臥所、喧嘩などの暴行事案は当然懲罰対象だ、わかるな」
脳璽は立ったままの姿勢で短く返答した。
「ほかの者は校庭でも走ってろ。よし、名前を呼ばれた者、それから臥所脳璽、ついてこい」
イ組以外にもロ組の軍手や鹿追、ハ組の学徒もいる。
奥目地教練長に連れられた総勢二十名前後の学徒たちは、一様に思いつめたような顔をして大講堂脇の階段を降りた。地階の長い廊下を渡り幾つかのドアを潜り、また廊下を歩いたその先に重厚な鉄扉があった。奥目地は両開きの扉の前で大声を張り上げた。
「奥目地曹長、ただいま到着しました!」
金属と錆の甲高い軋みがあたりに響いて、扉がゆっくりと開かれていく。途端に吹き出る熱気が凄まじい。
扉の奥には、源グリコ中尉、飯櫃雷蔵軍曹の姿があった。
それじゃどうもと不機嫌そうに立ち去る奥目地に、グリコは声を投げた。
「指示した通りの人選なんだろうな、奥目地」
「勿論ですよ、源中尉殿。私の目で選別した選りすぐり、ですよ」
それは大嘘だ。特に脳璽に関しては、つい先ほど起こした喧嘩騒ぎの懲罰のみで奥目地は連れてきていた。
グリコは奥目地を見つめる。奥目地は上官に対してやや不遜な目線を返しつつ、授業があるんで戻りますと背を向けた。飯櫃が無言で扉を閉めた。
源グリコ中尉は華奢な身体に纏った軍服を示し、地下室に集まった面々を見渡した。
イ組、ハ組、ロ組のお世辞にも成績優秀とは云い難い学徒たち。彼らは平たく云えば落ちこぼれだ。その事実を知らないのはどうやらグリコ中尉のみ。飯櫃軍曹も奥目地の嫌がらせに気づいてはいるが、敢えて注進はしない。生真面目に集められた学徒たちの成績を説明したところで、事はもう動いている。仕切り直している時間はない。無為に年下の上官を傷つけることはないと判断したのだ。
それにしても酷い暑さだ。
革の編上靴と手袋姿のグリコは短い前髪を掻き揚げた。
「我々ヤマツミ寮付対災禍特殊作戦小隊は、膨大な時間人員経費を掛け様々な計画を立案実行してきた」
急遽集められた方はまさに寝耳に水の展開で、突如始まったグリコの演説に耳を傾けようにも気持ちがついていかない。
「知っての通り災禍の被害はここ数年で増している。軍内に我々の如き組織が作られるのもやむなしと云えるほどだ。さて、今一度災禍とはなんであるか、諸君らに考えてもらいたい」
災禍とは、人智を超えた力を持った存在である偽神、その性質が悪に振れた姿。
悪とは当然人に対しての悪であり、人が人の生活を営むに当たり支障となり脅威となる存在のことだ。
「災禍の脅威を身を以って知っている者はいるか?」
手を挙げた者が一名。ロ組の軍手五郎だ。軍手は幼い頃災禍被害に遭い両親を失っており、親戚の間を盥回しにされ、まともに学校にも通えなかったのだそうだ。そのせいか読み書きも満足にできない状態でこの兵学校に入校したと聞く。
「軍手、災禍をどうしたい」
「け、消し去りたい、です」
たどたどしく軍手は答えた。果たして消し去るという表現が災禍に適当であるのか。兎に角グリコは災禍対策に特化した分隊の長であることは確かで、前触れなく集められたこの集団は九分九厘彼女の仕事に関わることである筈なのだ。
「災禍とは偽神の成れの果て。偽神とは偽りの神もしくは神モドキといった存在であり、その力は我々の及ぶところではない。たとえ銃器や刀剣を携えていたのだとしても、我々がこの身ひとつで対抗することができる偽神は極めて少ない」
グリコは若干垂れ気味の大きな目で、再度ゆっくりと地下室に集まった少年少女たちひとりひとりを見つめた。
「ワクチンというものがある。病原体から人工的に作られた、無毒もしくは弱毒化された抗原を人体に投与し、抗体を作らせ免疫を作り出す。君たちには、この国のワクチンとなってもらいたいのだ」
騒めく。当然だ。
「諸君らには偽神を憑けてもらう」
今度は皆ぽかんとした。
脳璽が汗を拭いつつ声を上げた。
「ぎ、偽神を憑けるというのは、どういうことでありますか?」
「まだ質問は許可していない」
「失礼しましたっ」
脳璽は直立不動の姿勢で固まった。
動揺しかない。
動揺だけが強い。
「人を超えた存在に抗うには自らもまた人を超える必要がある。格闘技術を身につけ銃器の扱いを習い最新の装備に身を包んでも、災禍の力はその上をいく。砂塵町のように堅牢な守備で管理された都市であろうと、どういうわけか災禍は現れる。人の知恵、人の力の上をいく存在。その発生を突き止めようとしたこともある。叩き潰すため弱点を探ったこともある。どちらもがうまくいかなかった。情けない事実だ。失敗を重ねること九十八度。ついに我々は、偽神を下僕化する方法を編み出した」
熱のせいばかりではないだろう、グリコはやや浮ついた様子で息をついた。
暑く狭苦しい部屋に集められた学徒たち。暑いのも当然、部屋の真ん中に設えられた八角形の大きな鉄鉢には炭が山と積み上げられ火が燃え盛っている。砂塵町などの都市部での火の使用は重罪だ。
グリコは鉄鉢に近づき、そこから鉄の棒を引き抜いた。
「偽神を下僕化する、即ち憑神とするに当たり必要なことがある」
グリコが引き抜いた鉄の棒は焼き鏝だった。不可思議な紋様が浮き彫りされたものが赤熱色に発光している。
「この紋様は二歩ノ花押(ニフノカオウ)という。偽神を従わせるために必須となる契約の印だ。先ずはこれを諸君らに押させてもらう。身体の一部ならば場所は何処でもいい」
突如の要請に梅子あたりは涙目になって震えた。しかし彼らの選択肢に拒絶の二文字はない。此処は兵学校である、彼らは上官の命令に徹底的に従うことを第一として教育される。
脳璽は左胸に、簫八は背に、梅子は左手に焼き印を押した。ロ組の軍手、鹿追も続く。皮膚の焦げる嫌なにおいと苦痛を耐える声が地下室に充満した。
鯖吉は怖気づき腰が抜けてしまった。
「あれだけ家猫に殴られてんのに怖いのかよ」
左胸の痛みに耐えながら脳璽が鯖吉を羽交い絞めにした。それでも泣いて拒否する鯖吉の額に焼き鏝が押し付けられた。
グリコは熱の冷めた焼き鏝を炭の中に押し込み、そこではじめて汗を拭った。番犬のように近侍している飯櫃などは既に汗達磨である。
グリコは淡々とした様子で作業を進める。
「先ずはイ組の学徒、前に」
鯖吉のみ身体を曲げ痛みに呻いていた。
「よし。諸君らには先んじて偽神を憑けてもらう。方法は簡単、印を偽神に近づけ、契りを交わすのみだ。質問あるか」
脳璽が手を挙げた。
「臥所脳璽、質問を許可する」
「ハッ。兵としての訓練を始めて間もない自分たちが、曲がりなりにも神である存在を従わせることが可能なのでしょうか?」
「そのための二歩ノ花押である」
「ニフノカオウがあれば、誰でも偽神を従えることが可能ということでしょうか?」
「そうだ」
グリコはブーツを履いた足を、やや広げた。
「怖ろしいか?」
脳璽は返答を飲んだ。当然怖ろしかったがそれを口に出すことには大いに抵抗があった。
簫八は背中の痛みに脂汗を流しながら、焼き印を押す場所を間違ったと後悔していた。しかし再度別の場所に押してもらう気にはなれない。
「偽神は既に捕獲してあるものを使用する。性向の安定しているものを選別した」
「それはつまりおとなしい偽神ということでありますか? 災禍に対抗するのにおとなしい偽神を憑けて意味があるのでしょうか」
「尤もな意見だが、それでは貴様は強烈無比なる力を持った偽神を従わせる自信があるのか」
グリコは暫時脳璽を見つめそして、飯櫃に無言で合図を送った。飯櫃は一度別室に消え、やがて台車に鉄の箱を乗せて戻ってきた。無言のまま蓋を開ける。
耳を劈く大音量が部屋全体を震撼させた。蝉だ、蝉が鳴いている。ただの蝉ではない、成虫の姿で既に二十年以上生きている偽神の蝉だ。蝉以外にも、金魚鉢や鳥籠虫籠、まるで祭りの夜店のようだ。いや、生き物ばかりではない、甲冑や経帷子のようなものも見える。
ロ組ハ組の学徒たちは固唾を飲んで見守っている。
「これが神?」
最早グリコも何も云わない。飯櫃はさらに何も云わない。
その時脳璽の頭にあったのは、このような茶番はとっとと終わらせて授業に戻ろうという思いだった。だから、手近な蝉に手を伸ばした。近づいてみれば確かに普通の蝉の数倍大きい。
偽神を憑けるなどどうでもいい、自分は自分自身の力で伸し上がる。
脳璽は鉄製の虫籠で鳴きしきっていた蝉を鷲掴みにした。
蝉は大きな翅を広げ束縛から逃げ、脳璽に襲い掛かった。
脳璽は蝉の鋭く尖った口吻で身体中を串刺しにされた。
「うわ、わっ」
イテェイテエ死ぬ死ぬ、
蝉の偽神は容赦なく、止めに脳璽の心臓を突いた。脳璽は気力のみで再び蝉を掴み、そのまま握り潰した。
「救護班!」
グリコは短く下命する。
何処に控えていたのか腕章をつけた兵士が昏倒した脳璽を搬出していった。
拒否の選択はない。
彼ら学徒たちは兵士になる為この予科練兵学校に来たのであり、上官の命令は絶対であることは常に頭に叩き込まれ続ける。
グリコは脳璽の運ばれていった先を暫く見つめていたが、やがて気を取り直すように咳払いをした。
「見た目で判断しないこと。相手は偽神、なめてかかると痛い目に遭う。さあ次は?」
次に名乗りを上げたのは意外にも梅子であった。簫八は制止しようとしたが、佐官の手前それは控えた。梅子は金魚鉢を覗き込んでいる。金魚鉢の中には水が湛えられ、先程の蝉とは違い常識的な大きさの朱文金が涼しげに泳いでいた。
梅子は金魚ならば幼い頃から馴れ親しんでいた。何も怖いことはない。
「怖くない」
兵士となるにはこんなことまでしなくてはいけないのか。
確かに学校長の言葉にあったように、意思のある災害と称される災禍と戦うためには、通常の身ではもたないのだろうとは思う。
梅子はもう一度、怖くないと呟いた。しかし見てしまった。愛らしい姿をしている金魚のその目が、人の目だった。
梅子は短く叫んで仰け反り、金魚鉢の乗った台を蹴飛ばした。金魚鉢は大きく揺れ、驚いた金魚が飛沫をあげ大きく跳ねた。
人の目が梅子を捉える。
梅子は反射的に手で顔を守ろうとした。その手には二歩ノ花押が押してある。
仰け反った梅子を支えようと前に出た簫八だったが、慌てるあまり勢い余って身体ごと台車にぶつかり箱が引っ繰り返った。
「な、なんだ? なんだこれ!」
簫八は震えた。急激に強烈な寒気に襲われていた。身体が動かない、視界が霞む。
簫八の背には経帷子が覆い被さっている。白かった経帷子は次第にその色を吸い取った簫八の血の赤に染めていく。
「赤原を搬出しろ!」
グリコの指示が飛ぶ。
梅子は気を失い、鯖吉は腰を抜かした。
グリコは飯櫃を見た。年上の部下は何も云わず表情も変えていない。グリコは頭を振り、計画の続行を指示する。
「つ、次の者」
鯖吉は部屋の隅に逃げた。
ロ組の軍手は呆然と立ち竦み、ロ組のもう一人鹿追が自棄になり引っ繰り返った箱から黒く萎んだ塊を拾い上げ、自分の二歩ノ花押に押し付けた。
塊は見る見る潤いを取り戻した。
それは大きな目玉であった。
目玉は鹿追の口を使い高笑いをした。笑う度その口が大きくなっていく。目も鼻も大きくなっていく。
「な、なんだよこれ! み、ちゅ、み、源中尉! これはだ、大丈夫なんですか?」
大丈夫かどうか。
源グリコはどうなのだと、既に何百と自問してきた言葉をまた今自分に問いかけた。
答えはわからない、だ。
偽神と云う存在の果てを見たわけではない。そのとば口に立ち得ているのかすら不明のまま、偽神を従わせることができる二歩ノ花押を見出し、そのまま今がある。
優秀な兄に追いつきたい。
数年前からワタツミ寮で軍人として活躍している憧れの兄に早く追いつきたくて、彼なりに必死に頑張ってきた。一向に成績は上がらなかったが、それでも今日、突然の招集に戸惑いながらもどこか胸が躍った。内容などまるで知らないまま、自分は抜擢されたのだと悦んだ。
鹿追は失禁している。
「し、鹿追……?」
その顔面が急激に巨大化した。
「あ、あ、ああっ」
飯櫃はグリコの前に出た。
グリコはすぐに自分を取り戻し、残った者に退去を命じた。
一刻も早く逃げるのだと本能が告げている。
雷鳴のような雄叫びが轟いた。それは鹿追だったものから発せられた声だ。
残った学徒たちは動けない。なにが起こっているのか理解できていない。グリコが早く逃げろと再三促す。源中尉が顔面蒼白になっている。其処に危機感を見出した数人が部屋を出て階段まで駆けた。グリコは学徒すべてが逃げおおせるまで責任を持って残るつもりであったが、飯櫃に肩に抱えられ無理矢理連れ出された。どれほど拒絶しようと忠実な部下は聞き入れない。
軍手は気を失った簫八や梅子を運び出す。鯖吉にも手伝うよう要請するが鯖吉は恐怖に竦んでしまってまるで動けない。
大きな口が軍手に襲い掛かった。
粘度の高い唾液に包まれた舌に巻き込まれ、軍手は藻掻いて逃げ出そうとする。
大きな顔となった鹿追にはもう、元の人格はなくなってしまったのか。
「た、助けて……」
壁の隅で怯える鯖吉に向かって、軍手はなんとか片腕を伸ばした。
死にたくない死にたくない死にたくない……!
鯖吉はひいひい呻きながら這うように部屋を出た。
行かないでくれ助けてくれ!
願い空しく軍手は墓石のような奥歯で擂り潰され、血みどろの肉塊となって吐き出された。
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