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第一話『九十九号計画』その6
「私を殺せ、それでこの場は収めろ!」
大顔面はグリコに狙いを定め大口を開いた。墓石が並んでいるような奥歯の奥に、梅子の半身が詰まっていた。
すまない申し訳ないとグリコは心で謝った。
準備が足りなかったのか見込みが甘かったのか。いや、早過ぎた。災禍と対するには、まだなにも整っていない。だから若し奥目地の意識が残存し、且つ彼の男が恨みに思うのが自分であるならば、この場の混乱を自分の命を以って鎮めてくれまいかと、これは体のいい責任逃れでもあった。
「中尉!」
脳璽は叫んだ。
「中尉、逃げてください!」
グリコは眼前の怖ろしい光景に息を飲んだ。
凶暴な歯がグリコを捉える。
講堂の壁が破壊された。
騎乗式蒸気戰車に乗った飯櫃雷蔵軍曹がグリコを攫って行った。
飯櫃は前後二輪の騎乗式蒸気戰車の前輪脇に備え付けられた砲塔で壁を撃ち抜き、道なきところに道を作り走り去った。
大顔面は雄叫びを上げた。
グリコを掻っ攫われ、狂おしく何処か切ない声を上げた。
脳璽は壁に空いた穴から外に出ようと狙う。その為には大顔面の注意を背けなければならない。
恐れ戦く鯖吉の姿を見つけた。あれならば脳璽の心もそう痛まない。脳璽は銃を引き抜き、躊躇なく鯖吉のふくらはぎを撃った。鯖吉は叫び声を上げ、その場に尻餅を搗いた。
大顔面が鯖吉を見た。脳璽は透かさず偽神に命じ、鳴き声を上げさせた。わんとした音圧に講堂にいるものすべての思考が奪われた。
大顔面は次々に骨を吹き出し、兵士を、教師を、学徒を、殺戮していく。
もう奥目地はいないのだろう。奥目地は災禍に飲み込まれ、奈落の底の沼の底でどろどろに溶けてしまったのだ。
かろんは目の前の惨状を見て愕然とした。
大きな、非常に大きな顔が、滑稽なほど不釣り合いの身体を蠢かし、鯖吉ににじり寄っていく。
鯖吉は声にならない声をあげ必死に逃げようとしている。食われればいい食われてしまえと、かろんは常時身につけている川浪紋の帯を広げた。
「来い、化け物!」
かろんは自信の塊だ。眼前に空前絶後の化け物がいようと怯むことはない。敵う敵わぬではない、立ち向かうのだ。
かろんの足は後退に向いていない。
「来い化け物!」
かろんの心臓が撃ち抜かれた。
「嘘だ……」
霞む視界の向こうで壁の穴から逃げ出す脳璽が見える。
鯖吉は何かを叫んでいる。
かろんは憤慨した。目から血が出るほどに憤った。
あの日あの時からずっと彼女の原動力となっていたのは怒りだった。
ふざけるな!
この世のすべて。
ふざけるな……
死にたくない、怖い……
「何で私が……ッ?」
かろんは自分に開いた大穴を見た。心臓のある位置に開いた風穴から止めどなく赤い血液が溢れ出る。止まらない。見る間にかろんの足元に真っ赤な血溜まりが出来上がった。
怒気を孕んだまま黄泉路に向かう。
こんな哀しいことがあるだろうか。
鯖吉……
「見てんなよゴミ……」
かろんは息絶えた。
魂を荒ぶらせ、怒りに震え、眉間に深い縦皺を刻んだまま。
兵士の一人が云う。
「講堂を破棄します」
学校長四方が受ける。
「ここもセメントで固めるのか?」
「いえ、固めるには広すぎます」
そうかと四方は息を吐いた。施設破棄の方法にも様々ある。兵士は明言こそしないが、この大講堂を爆破すると云っている。
「元帥、専用脱出口を解放します」
こちらにどうぞと四方を促した兵士の頭に穴が開いた。血飛沫を顔に浴び、階級を極めた老人の心臓も又、大顔面の飛ばした骨片に撃ち抜かれた。
逃げおおせた者は幸いだ。
逃げ出せない者は次々に殺されていく。
大顔面は人を殺し人を噛み砕きまた殺す。
災禍の怖ろしさを身を以って知る。
脳璽に足を撃たれた鯖吉は、最早半狂乱の体で兎に角この場を脱しようとしていた。
大顔面は手近なものを次々に殺していく。純粋なる災いだ。
「助けて、助けて」
鯖吉は痛む足を引き摺って飯櫃軍曹が開けた壁の穴近くまで逃げてきた。怖い。今の彼は恐怖の塊だ。
それでも振り返る。
「かろん、」
あれだけ酷い目に遭わされ続けても、鯖吉には未だにかろんと過ごした日々が忘れられない。
「ごめん……」
逃げなくては。
かろんは死んだ。
ごめんと鯖吉は涙を流した。
「僕は……」
鯖吉は這い蹲って瓦礫をよじ登る。あともう少し、あともう少しで講堂から脱し得る。
「くそ、くそおおおおっ」
鯖吉は瓦礫から転げ落ちた。
声を上げ涙と鼻水と血と埃まみれになって転がった。
大顔面が近づいてくる。
敵意も害意も希薄のように見えるのは気のせいだろうか。ただ純粋に破壊する、そうした存在に感じられる。
「僕はッ僕はッ……」
なにをしても駄目だ。
気力も体力もない、努力を厭い希望を哂う、糞駄目人間だ!
大顔面が大口を開けた。
鯖吉を噛み潰す気だ。
凶暴な歯列。大蛇のような舌。ヘドロのような唾液。
鯖吉はよろりと立ち上がった。
大顔面は鯖吉に歯を立てた。
かろんが立っていた。
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