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プロローグ
軽快なメロディーと共に扉は閉まり、氷を滑るようになめらかに新幹線は動き出した。
金曜日の昼下がり、満員でもなくガラガラでもない車内は静かだった。
出張帰りだろうか、前の座席で中年のサラリーマンが缶ビールを開ける音が車内に響いた。
千葉 明は大きくため息をついた。
午前中は社内のデスクを片付け、午後から東京へ移動した後、先週マンションへ送った段ボールの荷解きをしなければならない。
月曜日からは異動先でまた仕事が始まる。
実に憂鬱な気分であった。
車内に再び軽快なメロディーが流れた。
いつの間にか千葉は眠っていたようだ。
目的地である終点東京へまもなく到着するというアナウンスが流れた。
やがて新幹線は到着し、千葉は知り合いが1人もいない未開のコンクリートジャングル東京へ降り立った。
環状線に乗り、アパートの最寄り駅へ着く。
時刻は5時すぎであった。
少し小腹が空いた千葉は軽食でも食べようと喫茶店を探す。
大通りに面した喫茶店はどこもおしゃれなうえ、値段が高かった。
オレンジジュースに700円は高すぎる。
結局、裏道にあったこじんまりとしたカフェを見つけ、そこに入った。
「One's cafe」
この店の名前だ。
「好きなとこどうぞ」
店に入ると奥からマスターのダンディな声が聞こえた。
店内には千葉以外誰もいない。
適当に座席に着く、やがてマスターが出てきた。
まばゆいばかりの金髪、
目元に光輝くエメラルドグリーンのマスカラ、
燃える情熱のような真っ赤なルージュ、
口元には青いジョリヒゲ、
「あら、いらっしゃい。見ない顔ね。お兄さんはこの店初めてかしら」
ダンディな声とは真逆の容姿のマスターが慣れた手付きで水とメニューを渡してきた。
入る店を間違えたのだろうか、あわててメニュー表の店名を確認する。
なんということだ。
店名はOne's cafe(ワンズ カフェ)などではなかった。
ここは「Onee's cafe」(オネェズ カフェ)だ。
奥からもう1人表れた。
緑色の髪の毛、
真珠のイヤリング、
ムキムキの体にはち切れそうなピッチピチの紫のワンピース、
「こんな時間から珍しいお客さんね」
ムキムキのほうが話しかけてくる。
「私は清美、よろしくね。こっちが美千代ママ。」
ダンディボイスの金髪オネェを紹介した。
「それにしてもあなた、かわいい顔をしてるわね」
「ホントよね、あたしのタイプかも」
「あら、私が最初に目を付けたのよ!」
白目を向きそうな千葉の目の前でダンディオネェとムキムキオネェがキャッキャッはしゃいでいる。
何も飲まず帰るわけにも行かず、千葉はアイスコーヒーを頼んだ。
千葉 明、29才。もうすぐ30才。
恋愛経験無し。
女性経験もない。
所謂童貞。
そんな千葉が今日、オネェにモテると初めて知った。
出されたコーヒーを一口飲む。
オネェに見つめられながら飲むコーヒーはほろ苦かった。
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