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「あの、違ってたらごめんなさい。お隣の津久葉さんよね?」
腕に青いカゴを通した私は、その声に首を回す。
「…どなたですか?」
「あ、ごめんなさい。怪しい者じゃないの!私、隣の家に住んでる大槻、大槻優里です。引越のご挨拶にお蕎麦を渡したの、覚えてないかな?」
大槻、お蕎麦…言われて辿る、一月程前の記憶。
いつものように一人きりの室内に、珍しく来客を知らせる機械音が響いた。インターフォンのモニタに映ったのは、二人の男女。
「ご挨拶に参りました」
お辞儀をする二人を見て、とりあえず勧誘の類ではないかとドアを開けた。
「こんばんは、突然すみません。…お父様かお母様はいらっしゃる?」
「今はいないんですけど…」
本当はいる時の方が珍しいのだが、何回も口にした事のある言葉はするりと外に出ていく。
「そうですか。私達、隣に越してきた大槻と申します。これからよろしくお願い致します」
長いこと空き家になっていた隣家。
前の住人と近所付き合いはほとんどなかったので、空き家になってからも経過をとりとめて気にする事はなかった。曖昧な言葉を返すと、長方形の木箱が差し出される。穏やかな香りがふっと鼻先をすり抜けた。
「引越蕎麦なんだけど、主人が打ったの。良かったら召し上がって下さい」
主人という単語に視線をずらすと、がっしりした体型にはあまり似合わない花柄のエプロンを身に着けた男性の姿があった。
目が合ったので小さく会釈をすると、男性はふはっと息を漏らす。
「それ、自信作だから。出来たら食べてやって」
正直他人から貰った食物を、食べようとは思っていなかった。口に出した訳でもないのに見透かされた本心を取り繕おうと、私はぎこちない笑みを浮かべる。
「それは楽しみです。ありがとうございます。では」
繋がらない会話を強引に切ってドアを閉める。
リビングに戻った私は木箱ごとゴミ箱に放り投げようかと思ったが、男の笑顔が頭を掠めた。
「食べればいいんでしょ…」
茹で上がった蕎麦は店で食べるものと遜色ない程、もっと言えば今まで食べた中で一番に美味しかった。
「お蕎麦、美味しかったです…」
随分遅れた感想にも、優里さんはにこりと微笑む。
「良かった!覚えててくれて!」
それ一穂ちゃん、あ、私の主人にね。直接言ってくれるともっと嬉しいけどと言葉は続く。
「あのね。私ここにほとんど毎日買い物に来てるんだけど、いつも同じくらいの時間にいるよね?」
「…」
優里さんは主婦だからその頻度は珍しい事でもないのだろう。でも私は結婚しているはずないし、身に纏うのは学生服だ。おまけに隣家の子供となれば、目に留まるのも仕方ない。
「母が、料理が苦手なので…」
この問いに定型文が用意出来ていなかった私はもっともらしい理由が言えず、上ずった声になってしまう。彼女はこの時どこまで私の家庭環境を想像したのだろうか。
少しの間をとってから、一つの提案をしてきた。
「ねぇ。もし、良かったらなんだけど… 家で、ご飯食べない?」
すぐ断ろうと思ったのに、思い出された蕎麦の味と独特な笑い声が私の判断を鈍らせた。
実際には母が待っている訳でもないのに、家に連絡をいれておくと嘘をついて私の足は隣家に向かう。言葉ぶりから優里さんが腕を振るうのかと思っていたが、それは違った。
大槻家には、初めて会った時と同じエプロンを肩から提げた男性。一穂さんがキッチンに向かっていた。
「おお、おかえり」
「ただいま、一穂ちゃん」
「そっちは?」
優里さんの隣に立つ私は、すぐに一穂さんに認識される。
「あ、あの。優里さんに声を掛けてもらって…」
眉間に皺を寄せる一穂さんにたじろぐ私に優里さんは「違うのよ」と首を振り、言うべき言葉を囁いてくれた。
「…ただいま、です」
「ですはいらないだろ。おかえり」
まぁいいやと、一穂さんはふはっと笑う。
ああ、またあの顔だ。
初めて見た時から目に焼き付いてしまっていた。
繊細ではないけれど、なんでも許してくれそうなおおらかな笑い方。
いつぶりか口にした「ただいま」に当たり前のように返された「おかえり」が、じんわり熱を持って胸に落ちる。私はこの日を境に、大槻家の食卓に加わる事になった。
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