ヒデさん

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ヒデさん

 小さい頃から、我が家には「パパ」はいなかった。ママは恋多き人で、1年か2年ごとに入れ替わり立ち替わり、どう見ても不釣り合いな若い恋人がウチに住んでいた。男運がないのか、男を見る目がないのか、大抵は派手なケンカをやらかした挙げ句、ママは恋人を追い出していた。 「ヒモって言うんだよ。ま、俺も似たようなモンだけどな」  僕が10歳になった夏、ママの新しい恋人のヒデさんがウチで暮らし始めた。 「ヒモ? ヒデさんの髪を縛ってる、ソレのこと?」  彼は、金色に近い長髪を首の後ろで1つにまとめている。その赤くて細いヒモのことかと訊いたら、眠たげな一重を一瞬見開いた。 「はははっ。お前にゃ、まだ早いかぁ」  快活に笑いながら、彼は僕の頭をぐしゃぐしゃっと撫でた。 「アキラ、たこ焼き食うか」 「うんっ」  仕事で忙しいママの代わりに、彼は近所の神社の夏祭りに連れてきてくれた。赤い提灯が点々とぶら下がる境内。並ぶ屋台の中、僕の手を引いていく。美味そうなソースの焦げた匂いに腹がぐぅとなった。 「おう、ヒデじゃねぇか」 「どうもぉ。1つ、もらえます?」  額に捻り鉢巻きを結んだ、いかついオヤジさんと軽く挨拶する。 「おっ、その子……ヨシミさんの子か」 「あっ、はい。へへへ」 「よし。じゃ、オマケしてやる」  オヤジさんは、透明なパックにギュウギュウにたこ焼きを詰めると、長い串を2本刺して、ヒデさんに渡した。 「あざっす! ほら、アキラ」 「どうもありがとう」  促されて、頭を下げた。 「おう。楽しめよ、ボウズ!」  オヤジさんは、笑って目が細くなると、優しく見えた。ふと、友達の家にいる「お父さん」とか「パパ」と呼ばれる男の人は、あんな感じなのかな、と思った。  ヒデさんは、6年生の秋まで居た。遠足から帰って来ると、ヒデさんとママがソファで寄り添っており、見慣れない大きなトランクがソファの横に置いてあった。彼は、いつものくたびれた黒いスーツではなく、ジーンズに白いTシャツと紺のジャケットを着ていた。ママは赤いキャミソールに、黒のカーディガンを羽織っていた。普段寝ているママが起きている――そのことが、ただ事ではないと告げていた。 「お、帰って来たな、アキラ」 「ヒデさん……どこか行くの?」 「俺の父ちゃんがさ、倒れたんだ。命に別状はないんだけど、うち旅館やっててさ……」  ヒデさんは、くしゃくしゃっと顔を歪めると、僕の頭を撫でた。 「帰って……来るんでしょ?」  彼は、ママに乱暴したり、大声で怒鳴ることは一度もなかった。小さなケンカはあっても、すぐに仲直りしていた。彼の仕事はよく知らないけれど、家に居る時は、僕とお風呂に入ってくれたり、一緒にゲームしてくれた。年の離れたお兄さんみたいに、僕を可愛がってくれた……。 「……ごめんな」  ヒデさんの声が震えた。 「ママのこと、守れる男になれよ!」  踏ん切りをつけるように力強く言うと、彼はトランクを引っ掴んで出て行った。ママは、ソファで泣き崩れた。大人の事情は分からなかったけれど、ケンカじゃなくウチを出て行った恋人は、ヒデさんが初めてだった。
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