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僕は鏡を見るのが嫌いだった。
『男らしさ』を求められて維持し続けている短い髪、同じく短く形を整えた顎髭、そして──荒れた肌。
「若い男は夜な夜な飲み歩くものなのよ」──口元で笑みを繕ってそう言ったのは母だった。女手ひとつで僕を育て、大学にまで通わせてくれている母は、僕が生まれてからの二十一年間、僕に対して不満という不満を口にしたことがほとんどなかった。
だけど彼女は、たまにぽろりと呟いていた。「いつもお母さんを助けて、守ってくれる、男らしいあなたが好きよ」
男らしいあなたが好きよ──何度かその言葉を耳にし、やがて真意を汲み取った瞬間、僕は自分の内側で少しずつ姿を見せようとしていたそいつを押し殺すことに決めた。
僕は、男らしくあらねばならない。母のために──母を裏切らないために──。
小学生の頃、クラスのいじめっこと取っ組み合いの喧嘩をした。喧嘩両成敗で先生に怒られたけど、いじめられていたクラスの友達からは「かっこよかったっ。ありがとうっ」と言われた。
中学生の頃、野球部に入った。朝も夜も野球に明け暮れた。夏にはこんがり日焼けして、汗臭いユニフォームに何度も袖を通した。その汗臭さが『男らしい』のだと思った。母は嬉しそうにそれを洗濯していた。
高校生の頃、ギターを弾き始めた。好きなアーティストの好きな曲。正直上手くはなかったけど、母はギターを弾く姿にも『男らしさ』を見ているようだった。コピーバンドとして人前で演奏したこともあった。女の子から告白されたりもした。
僕は──ただ、日々を演じ続けた。いいや、母の臨むそのものの姿になろうとしていた。そうして、本当の自分を消してしまおうと思っていた。そんなこと、できっこないのに。
魔法を手にしたのは、大学三年の冬休みだった。男三人女二人の仲良しグループ。僕はそのメンバーの一人で、彼らとクリスマスパーティーを開いた。とはいえ、唯一独り暮らしをしている男の1Kの狭い部屋だ。窮屈でしかたなかったけど、気心知れた仲間と過ごす時間は楽しかった。
その日の深夜だった。僕は何となく眠れなかった。窓の外では雪が降っていた。ホワイトクリスマスだ。何かを祝福するために舞い降りた小さな天使──だなんて、考えてしまうぐらいにはロマンに憧れていたのかもしれない。
「どうしたの?」ベッドの上で眠っていた友人が言った。その隣では静かな寝息を立てるもう一人の女友達。僕の隣では男二人が寝相悪く蹴り合っていた。
「眠れないんだ」僕は言った。
「どうして?」
そんなことわからない。「唇が乾燥して痛いんだ」と答えておいた。
「あ、じゃあこれ、あげる」友人は暗闇の中で床に放っていた鞄を引き寄せ、中を漁った。それから何か小さな物を取り出すと、僕に向けて差し出した。「予備に買っておいたリップ」
「いいのか?」
「うん。別の新しいのがもう一つあるから」
「……ありがとう」
唇がかさついているのは本当だった。僕はリップクリームを受けとると、静かに唇に押し当てた。自分のその仕草に、ほんのわずか胸がざわついた。
「……あ」声を漏らしたのは、ふわりと感じたほのかな香りにつられたからだ。「なんか、味がする」
「え?」
「甘い」
友人は、あっ、と呟いた。「間違えちゃった」
「何を?」
「味がするんでしょ? それ、ピンクの色つきリップだよ。花の香りがするの」
色つきリップ──僕は中指の先を唇に触れさせた。ここに、淡いピンク色が──。
「てことは、僕の唇って今ピンクなの?」
「そうなるね。暗いからよくわかんないけど。鏡で見てくれば?」友人はくすくす笑った。それから悪戯めいた声で「そのリップあげるよ」と言った。
彼女にとっては面白おかしいネタのひとつなのかもしれない。だけど、僕にとっては……。
「えー……勘弁してくれよ」
口にしたのは、気持ちとは真反対の言葉。僕は立ち上がり、暗闇の中手探りで扉の方へと向かった。未だ友人の笑い声が聞こえる。
廊下に出て、震える手で洗面所の電気を点けた。
鏡の真正面に立った。そうして、はっとした。はっとしてから、再び人差し指の先を唇に寄せた。
ここに──唇に、淡い……淡い、ピンクの……花の、香り……。
胸の底から熱いものが溢れてくるのがわかった。それは一気に全身を巡り、そして頭の奥まで浸透する。
僕は泣いた。声は上げず、ただ静かにほろりと涙を流した。込み上げた熱いものの正体が、僕が消し去ろうとしていたものだったことに、僕は嫌でも気づかされてしまった。
僕の目に、今の唇は異様な光を放っているように見えた。その唇からなぞるように、僕は自分の頬を撫でてみた。見た目にもわかるニキビがぽつりぽつり。「男は夜な夜な飲み歩くものなのよ」──母の求める男らしさの一つを繰り返し実行しているからだろうか。
命を吹き返したように主張するピンクの唇のように、この肌も、いいや僕の何もかもを、少しでも綺麗に──。
そうだ、僕は、綺麗になりたい。僕は──ただ、自分に素直に、輝きたい。
近頃の僕は、鏡を見ることが好きになっていた。
髪をさらりと長く伸ばす勇気はまだないけれど、それでも前よりはいくらか伸ばした。顎に蓄えた髭を剃り、頬にできていたニキビは綺麗に姿を消していた。
ひとまずは、夜な夜な飲み歩くことをやめたのだ。友人たちには──いいや、母にも、世の中の誰にもまだ本当の自分を見せることも話すこともできていない。だが僕は、まず僕自身が自分を知ってやらなきゃいけないと思った。胸の底に押し殺してきた本当の自分を、引っ張り出してやらないと。
僕はズボンのポケットに手を入れた。そこに潜ませておいた物を取り出す。あのピンクのリップクリームだ。蓋をとり、静かに唇に塗ってみる。ふわりと甘い香りが鼻腔をかすめた。
ぎしりと床を踏む音がした。僕は咄嗟にリップクリームをポケットに隠した。数秒後、鏡には僕の後ろに立つ母の姿が映された。
「おはよう」僕は言った。母も「おはよう」と返してくれた。その顔にはぎこちない微笑み。
近頃はいつもこうだ。少しずつ変わっていく僕の姿を見て、母はきっと戸惑っている。焦っている。苦しんでいる。
ごめんなさい──鏡越しに目を逸らし、淡い艶を含んだ僕の唇は、そんな形に動こうとしていた。
「最近……綺麗になったね」
はっとした。
微かに聞こえた母の声に、言葉に、僕の肩はぴくりと跳ねた。どくんどくん──高く、大きな鼓動が内側から響いてくる。全身が心臓になったみたい。
「……綺麗に……なったね……」母はもう一度言った。その声は濡れて、震えていた。だけど、悲哀のそれには聞こえなかった。
恐る恐る、鏡越しに母を見た。彼女は泣いていた。下まぶたから溢れさせた涙を、ぽろぽろと流していた。だが彼女の唇は、小さく笑みを浮かべていた。その微笑みは繕ってなんかいない。
僕は一層胸を震わせた。「ごめんなさい」と紡ごうとしていた唇を閉じ、震わせ、涙を堪えた。
母は言った。「……私はね……男らしくなくたって、あなたが好きよ」
僕の喉がごくりと鳴った。目頭がさらに熱くなる。
「私は……あなたという、私の子どもが……大好きなのよ」
今まで、ごめんね──母は一言そう添えた。そして僕の後ろで涙を拭った。
僕はゆるゆると首を横に揺らした。俯き、そして泣いた。
仕事に行くからと母がその場を去ってから、僕はようやく顔を上げた。
改めて鏡に映る自分を見つめた。髪や肌や唇だけじゃない。内側から、少しずつ自分自身を取り戻そうとしている僕の姿を、じっと見つめた。それからふわりと微笑んで、僕は呟いた。
「……最近、キレイになった?」
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