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第7話
「退院おめでとう、茉莉花ちゃん」
「お世話になりました。あの、鈴原先生、これ……」
「え……?」
「ブレスレット、作ったんです。結婚、おめでとうございます」
「きれいなトンボ玉……もらっていいの?」
「うん」
「……ありがとう。大切にするね」
◆ ◆ ◆
「あーもー……じめじめじめじめ鬱陶しいわね、あんたはっ! きのこが生えるわっ!!」
「陽奈ちゃん、酷い……」
陰鬱なオーラを纏い、学食のテーブルに張りつくように突っ伏した私に、ガルルッと陽奈ちゃんが吠えた。
学食内に人が溢れ返る午後12時半。彼女の大声が特別目立つというわけではなかったが、それでも私の鼓膜を盛大に揺らし、精神的なダメージを与えるには十分だった。
食欲なんてなかったけれど、彼女に、なかば強引に引き摺られるようにして、ここまで連れてこられた私。やっとのことでサラダだけ完食したのだが、この腑抜けた姿を見るに見かねた彼女が、食べ終わった私の分の食器も返却してくれた。
そして、綱をつけられた家畜よろしく、有無を言わせず外へと引っ張り出され、寒空の下へ。3限目の講義に出席するため、これから薬学棟へと向かう。
地面から突き上げてくる冷たい風。巻いているマフラーに顔半分をうずめ、虚ろな眼だけを覗かせる。彼女がリードしてくれてはいるものの、私の足取りは依然として重たかった。
この空のどんより具合と、今の私のウジウジ具合は、実にいい勝負だ。
「……あんたさ、いい加減にしなさいよ。いつまでそうしてるつもり?」
急に立ち止まり、怒気を含んだ声で、陽奈ちゃんがこう言った。煮え切らない私に、相当ご立腹の様子だ。
「あんたの気持ちはわかる。混乱するのも無理ない。でも、このままじゃ、なんの解決にもならないでしょうが」
「……」
速水さんのマンションを飛び出してから一週間。私は、彼と一度も会っていない。
連絡がなかったわけではない。彼のほうから何度か着信があったが、私はそれにいっさい応じなかった。
人として、最低なことをしているという自覚はある。でも、この受け入れがたい現実に直面してしまった今、彼とどんなふうに話をすればいいのか全然わからない。
……なんて、単なる言い訳に過ぎないんだけど。
私は、彼を傷つけるのが怖くて、自分が傷つくのが怖くて、ただ逃げているだけなのだ。
「茉莉花、あたしはね……」
ここで、真剣な表情をした陽奈ちゃんが、ひと呼吸置き、静かに語り出した。
その射貫くような眼差しに、思わず背筋がピンとなる。
「あんたが彼と食事をすることになったって聞いたとき、正直よくは思わなかった。恋愛経験も、男性免疫もゼロのあんたが、一緒にいてもいい相手かどうか、はじめは疑って聞いてたの。……でも、『横暴だ』って喚きながらでも、溜息つきながらでも、彼のことを話してるあんたの顔見てたら、その人なら大丈夫かなって思えたのよ。……実際、あんたは元気になった。身体的な面だけじゃないわよ? それは、自分でもわかってるんでしょう?」
彼女の言っていることは正しい。私のことを、4年間そばで見てきた彼女のひとことひとことには、やはり重みがあった。
一部、胸にグサグサ突き刺さるワードが含まれていたけれど。
「彼の奥さんが亡くなってること、本当に残念だと思う。つらい現実一気に突きつけられて、あんた自身、気持ちの整理がつけられてないのもわかるけど……彼のことを避けてるままじゃ、前には進めないわよ」
陽奈ちゃんの瞳と言葉が、私に真っ直ぐ向けられる。まるで、ぐらつく私の目と心を、ピンでボードに留めるように。
「……わかってる……わかってるよ。けど……」
あの日、速水さんから見せられた、鈴原先生の写真。
幸せに満ちた、とてもきれいな笑顔だった。彼と結婚できることを楽しみにしていた、あのときと同じ笑顔。写真を撮ったのは、きっと彼だ。先生のあの笑顔は、間違いなく、彼に向けられたもの。
頭の中で声がする。この一週間、何度も何度も繰り返し聞こえてくるフレーズ。
彼と一緒にはいられない。
「けど……自分の気持ち伝えても、きっと彼を困らせるだけだもん……。だって、彼は鈴原先生の旦那さんなんだよ? 私なんかが、言っていいわけないよ……」
それならいっそ、なかったことに。
「……いいわけ、ないよ……」
消え入るような、か細い声。この声が陽奈ちゃんの耳に入ったかはわからない。ちらりと目を配り、うかがう。すると、突如俯いた彼女は、わなわなと肩を震わせ始めた。
「っとに、あんたは……」
さらに、声のトーンが下がった。
あ、ヤバいかも。そう思ったが、時すでに遅し。
すうっと息を吸い込む。
そして——
「『だって』とか『けど』とかいらへんねんっ!! 好きなら、押して倒すぐらいの心意気見せてこいっ!!」
私の両肩を勢いよくガシッと掴むと、驚いて呆けている私の顔面目がけて、怒号を飛ばした。興奮するあまり、お国訛りがしっかりと解放されてしまっている。しかも、なんだか過激な発言まで。
周囲に人気がなかったことは幸いだ。
「あんたは、『自分の気持ち伝えてないから、今やったらなかったことにできる』とかふざけたこと考えてんのかもしらんけど、この期に及んでそんなもん通用せぇへんからなっ!!」
彼女が『キレた』ところを目の当たりにするのは初めてではなかったが、そのあまりの迫力に、私は目を見開いたまま、固まるほかなかった。
ここまで一気に言い終えると、陽奈ちゃんは私の肩を掴んでいた手を緩めた。コートの上からだったにもかかわらず、彼女の指は私の身に食い込んでいた。少しヒリヒリする。
「あんたたちの関係は、もう始まってるんよ、茉莉花。……続けるにしろ、終わらせるにしろ、あんたの気持ちを、彼にちゃんと伝えてきなさい」
最後は、ゆっくりと諭すような口調で、私にこう言ってくれた。
「陽奈ちゃん……」
耳を塞ぎたくなるような、厳しい内容だったというのが本音だ。でも、今の私にとって、一番大切なことを言ってくれた。……『好きなら~』のくだりは、ちょっと理解に苦しむけど。
彼女にしか言えないこと、彼女だから言えること。
陽奈ちゃんは、それ以上はもう何も言わなかった。あとは、私しだいだ。
気持ちを入れ替え、講義室へと入るために再び歩き始めた——まさにそのとき。
「……?」
キキッというブレーキ音に、視線を移す。道路に面した裏門。そこに、一台のスポーツカーが横づけされた。
降りてきたのは、ひとりの男性。髪をひとつに束ね、黒のテーラードジャケットと濃紺のデニムジーンズに身を包んでいる。
私は、思わず自身の目を疑った。
「っ——」
そのスポーツカーも、その男性も、私はよく知っている。
男性は、私の姿を捉えると、迷うことなくこちらへと歩み寄ってきた。
「よう」
「速水、さん……」
こうして彼の顔を見るのは、実に一週間ぶりだ。もちろん、声を聞くのも。
「どうして、ここに……?」
彼と対峙し、戸惑う私。当然だ。これまで意識的に彼を避けていたのだから、心の準備など整っているはずがない。そもそも、今日彼と会うなんて想定外だ。
身動きができず、体を硬直させていると、突然彼にガシッと右腕を掴まれた。
「ちょっとコイツ借りるな」
「え!?」
「どうぞどうぞ! 願ったり叶ったりです。熨斗つけるんで返品不要です」
「ちょっと!?」
「助かるわ」
「私、これから講義——」
「休め」
「休みなさい」
初対面のはずなのに、流れるような速水さんと陽奈ちゃんのこのやり取りに、ただただ目を白黒させるばかり。最後のひとことなんて、見事にハモっていた。しかも、両者ともに命令形だ。
……今日、掴まれて引き摺られてばっかだな。
かくして、抵抗する間もなく、彼に強制連行されることとなってしまった。
車へと向かう途中、私の顔を見ることなく、彼はこんなことを言った。
「お前には、言いたいことや聞きたいこといっぱいあるけど、今はいい。これから行くとこ、黙ってついてこい」
「……」
私たちのあいだに流れているのは、いつもとは違う張りつめた空気。そんな中、いつもと同じように、私は助手席へと乗り込んだ。
大学を出発してから約15分、ようやく車が止められた。どうやら、目的地に到着したらしい。
……本当に15分?
そう思わずにはいられないほど、この15分は長く感じられた。一時間ぐらい移動していた気分だ。
速水さんに言われたとおり、私は車内でひとことも発しなかった。いや、べつに言いつけを守っていたわけではない。言われなくても、きっとそうしていた。
彼に連れてこられた場所は、それはそれは立派な門構えの一軒家だった。門に掲げられた表札には、力強く行書体で『速水』と記されている。
テレビの中でしか見たことがなかったような建造物。
圧倒され、尻込みをする私とは対照的に、その荘厳な門を少しも臆することなく開けた彼は、スタスタと中へ入っていってしまった。
「そこ、気をつけろよ」
「え?」
振り返った彼が指した私の足もとには、地面から10センチほどの厚みが。……敷居だ。
「あ、はい」
私はそれをゆっくりと跨ぐ。
危なかった。門に敷居があってしかるべきなのに、緊張のせいで認識できていなかった。彼が注意を促してくれなければ、今ごろ盛大に跳ねこけていたことだろう。
彼の背中を追って、敷地の中にお邪魔すると、そこに広がっていたのは風光明媚な日本庭園だった。
最初に目に留まったのは、色鮮やかな錦鯉たちが悠々と泳ぐ大きな池。そのかたわらには、紅く色づいた楓が、しなやかに枝を張り巡らせていた。
丁寧に敷き詰められた石畳の上を、ゆっくりと進む。
目の前に現れたのは、入母屋造の大きな日本家屋だった。
もはや圧巻のひとこと。
中に入るよう促され、応接室へと通されたはいいものの、身の置き場に困る。
「そこに座って待ってろ」
彼が指定したのは、部屋の中央に備えられている、黒い革張りのソファセット。
とりあえずマフラーを外し、コートを脱ぐ。それらを簡単に畳むと、遠慮がちに腰を下ろし、自身の左隣に積み重ねた。
私のその姿を確認すると、エアコンのスイッチを入れるやいなや、彼はこの部屋から出ていってしまった。初めての場所で勝手がわからないので、大人しくしているしかない。
それにしても立派な家だな……。
ここは彼の家なのだろうか? あのマンション以外に住んでいる家があるなんて聞いたことはないが、こちらのほうが、なんだか生活感があるように感じられる。
ふと視線を壁にやると、額に入れられた賞状が、いくつもかけられていることに気づいた。
「あ……」
間違いない。ここは、彼が住んでいた家だ。
壁にかけられた賞状——それらは、すべて速水さんのものだった。
一番多いのは、空手に関するもの。棚の上にも、トロフィーや楯、メダルといった記念品が、多数飾られていた。
ここ、ひょっとして……。
私の頭に、あるひとつの仮定が浮かんだ。
それと同時に、彼がこちらへと戻ってきた。その手には、何か握り締められているようだ。
木製のテーブルを挟み、私と対面するようにソファに腰かける。こんなふうに、正面から彼の顔をちゃんと見たのは、あの日以来だ。
……やっぱりだめだ。陽奈ちゃんは、ああ言ってくれたけど、何から話せばいいのか……彼に対してどんな態度を取ればいいのか……私の頭ん中、ぐちゃぐちゃだ。
エアコンから吹き出る、ゴーッという乾いた風の音が、やけに虚しく聞こえる。
「……元気にしてたか?」
何もできず、黙り込んでいる私に、先に声をかけてくれたのは速水さんだった。
「え? ……あ、はい」
「嘘つけ。またあんま食べてねぇだろ。……顔色、よくないぞ」
「……」
心配そうに、苦笑を浮かべながら、彼がこう指摘した。
図星だった。ここ最近、私はろくに食べものを口にしていない。2週間前、彼に助けてもらったばかりなのに、私はまた同じあやまちを繰り返そうとしている。
「……ごめ、なさ……」
泣き出しそうになるのを我慢しながら謝罪するも、喉につかえて上手く言葉にできなかった。自分の情けなさに、腹が立ってたまらない。
どうして私はこんなにも弱いんだ。なんでこんなにも不甲斐ないんだ。
「謝らなくていい。説教するために、お前をここに連れてきたわけじゃないんだ」
「……?」
私の予想に反した柔らかな口調で、彼が言った。
「ここは、俺がばあさんと暮らしていた家だ」
……ああ、やっぱりそうか。
さきほど頭に浮かんだ仮定は、彼のこの言葉によって確かなものとなった。
彼の賞状などを見ると、そのほとんどが、彼が小学生や中学生のときのものだった。きっと、彼のおばあさんが、愛する孫の努力とその成果を称え、これらひとつひとつを大切に飾ったのだろう。
けれど、正直彼の目的がわからなかった。
てっきり、あのときマンションを飛び出したことや、電話に出なかったことを、咎められるのだとばかり思っていた。でも、今の彼の様子を見るかぎり、そういうわけでもなさそうだ。
いろいろと思案を巡らせる。
次の瞬間、彼の口から続けて語られた事実に、私は思わず彼から目を逸らしてしまった。
「それから、瑠璃子と暮らしていた家でもある」
おばあさんは、亡くなる直前、この家を彼に譲り渡したらしい。そして、鈴原先生と結婚した彼は、先生が亡くなるまでの約3年間、ここでともに生活していたのだそうだ。
このとき、彼があのマンションでひとり暮らしている理由が、なんとなくわかった気がした。
胸が痛い。張り裂けそうだ。
だけど、どうしてわざわざこの場所に私を連れてきたのだろう? 話をするだけなら、マンションでもよかったはずなのに。
その答えは、意外なものだった。
「お前に見せたいものがあるんだ。……これ、覚えてるか?」
「え……?」
そう言って、彼はゆっくりと、握り締めていた手を開いた。
「!?」
彼の手のひらに現れたもの——それは、私が退院する直前、鈴原先生にあげたトンボ玉のブレスレットだった。
おそるおそる両腕を伸ばし、そっと受け取る。
藍色や翡翠色、澄んだ蒼色の硝子玉には、あのころと変わらない光沢があった。
「お前にもらってから、瑠璃子はそれをずっと身につけてた。……死ぬまでずっと」
——血の繋がりなんて、関係ないんじゃないかな。
「……」
——大丈夫。茉莉花ちゃんは、お母さんの負担なんかじゃ絶対ないよ。
「…………っ」
先生が私にくれたもの——それは、本当にかけがえのないものばかりで。
唯一、自分が先生にあげられたものが、このブレスレットだった。母に頼み、病室まで持ってきてもらった材料で、懸命に作ったもの。
決していい出来だとは言えないものを、
——ありがとう。……大切にするね。
約束どおり、先生は大切にしてくれていた。
「ふっ……うっ——」
胸にかかえ込むように、震える両手でブレスレットをぎゅっと握り締めながら。
私は、声を出して泣いた。
◆
「ほら」
「ありがとう、ございます……」
私が泣きやむまで、速水さんは黙って見守っていてくれた。彼から差し出されたハンカチを受け取り、鼻をすする。今の私の顔は、相当ひどいに違いない。
人前でこんなに泣いたの、初めてだ。……恥ずかしすぎる。
それから少し間を置いて、彼は鈴原先生とのことを話してくれた。
「瑠璃子とは、もともと親同士が勝手に決めた話だった。あいつの親父さん、医学部の教授でな。俺の親父とは、古い付き合いだったらしい。……結婚なんかする気なかったけど、『顔合わせるだけでもいいから』って親父に言われて。いざ会ってみたら、不満オーラ出しまくってた俺なんかよりも、はるかに瑠璃子のほうが機嫌悪くてな。……あいつも、結婚する気なんか、さらさらなかったんだと」
そのときの先生の顔は、私にも容易に想像することができた。可愛くて可笑しくて、つい笑ってしまう。
そして、さらに彼はこんなことも。
「お前のことは瑠璃子から聞いてた。大絶賛してたよ、すげぇいい子だって」
遠距離だった当時、電話でやり取りしていたふたりの会話の中に、よく私が登場していたらしい。毎回、私のことを話す先生のテンションは、かなり高かったのだそうだ。……なんだか、胸がくすぐったい。
私はこのタイミングで、先日から気になっていたことを、彼に聞いてみた。
「速水さんは、最初から気づいてたんですか? その……私のこと」
彼は、いつの時点で『私』だと認識していたのか。
「いや。『茉莉花』って名前見て反応はしたけど、さすがにそんな偶然はないと思ってたからな。でも、歳も合うし、出身も神戸だって聞いて、気にはなってた。……極めつけは、入院の話と、薬剤師を目指すきっかけを聞いたときだな」
そのとき確信したのだと、彼。
私も、先生から結婚相手について、特徴だけだが聞いていたことを思い出す。一週間前まで、その彼だとは気づかなかったけれど。
どんぴしゃだ、速水さんに。
幸せそうな先生のあの笑顔が、また私の脳裡をよぎった。
「あ、あの……」
苦しかった、とても。だが、私は質問することに決めた。
なぜ、幸せなはずのふたりの結婚生活が、終わりを迎えなければならなかったのか。
「鈴原せ……あっ……る、瑠璃子さんは、なんの病気で……?」
彼の顔を真っ直ぐに見つめ、たどたどしく尋ねる。
いまだ癒えぬ彼の傷を、抉ることになるのではないかと怖かった。彼のその表情が、翳ってしまうかもしれないと。
「鈴原でいいよ。そっちのほうが呼びやすいだろ? ……あいつは、白血病だったんだ」
なのに彼は、落ち着いた顔色と声色で、この問いに答えてくれた。私に、配慮をしてくれてまで。
「医者やってると、毎日が誰かの『死』と隣り合わせだって……亡くなるのに歳は関係ないって、頭では理解してた。実際、何人も見送ってきたしな。……でも、嫁さんの『死』は、理解するどころか、受け入れられなかった」
病名を知ったときの、先生自身の気持ちと彼の気持ち。そのどちらも、計り知ることなんて、私にはできない。
先生の死後、臨床不能となった彼は、そのまま医療現場から去ってしまったらしい。
ここで、彼が視線を下に落とした。そして、自嘲気味に笑いながら教えてくれたのは、胸を締めつけるような、彼の心の葛藤だった。
「逃げるように医者辞めて、逃げるようにこの家出て……俺はいったい何やってるんだろうって、しょっちゅう思ってた」
「……」
「けど、樹のおかげで今の仕事ができるようになって、運よくそれが軌道に乗って……すげぇ救われたよ。写真を撮るのは好きだったし、自分の写真を見た人から反応をもらえることは、純粋に嬉しかったしな」
絶望のどん底にいた速水さんの腕を掴み、引き上げてくれたのは、親友の神田さんだったらしい。神田さんには、いくら感謝してもしきれないのだと、速水さんは言っていた。
ちなみに、今のはオフレコとのこと。照れくさいんだろうな。
でも、速水さんに写真を撮るよう勧めた神田さんの気持ちも、私はわかる気がする。
彼の写真は、見る人の心を揺さぶる、本当にすばらしいものだ。高校のときから、彼の感性やその腕前、なによりその人柄を知っていた神田さんだからこそ、一緒に仕事がしたいと考えたのではないだろうか。
一週間しかともにしていない私にも、十分に伝わってきた。
「……速水さん」
「ん?」
彼の、その魅力は。
「私、あなたのことが、好きです」
「!!」
あれほど躊躇っていたのに、不思議なくらい自然と口をついて出てきた。案の定、彼は驚き、目を丸くしている。
このあとどうなるかなんて、考えていなかった。……考えるのは、もうやめた。
「鈴原先生みたいなすてきな女性になれる自信なんて、全然ないです。……でも、自分の気持ちに嘘はつきたくないし、なかったことにはできないから」
自分自身に素直になること、ただそれだけに徹した。
想いを告げないまま、後悔なんてしたくない。
終わりになんて、したくない。
私の告白は、実にひとりよがりで身勝手なものだった。無言のまま、俯いてしまった彼。当然の反応だろう。
「……俺も、いい加減前に進まないとな」
「?」
と、突然立ち上がり、彼は私の右隣へと移動してきた。唐突な彼のこの言動に、動揺を隠せない。
「速水、さん……?」
そして、私の両手をきゅっと握ると、彼は自分の胸もとへと引き寄せた。それにつられて、上半身も彼のほうへと傾く。
状況に頭がついていかない私に、彼が今の心境を吐露してくれた。それはある意味、彼が導き出した答えのようでもあった。
「来年の春を目途に、現場に復帰しようと思ってる。樹には、もう話した。今度出す写真集で、最後にさせてくれってな」
最後に、こう付け加えて。
「俺の背中を押してくれたのは、間違いなくお前だ」
「え……?」
きらめく彼の双眸が、揺れ動く私の瞳を捉える。
一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。
「お前のその懸命さに、俺は惹かれた。お前と会えなかったこの一週間、ずっとお前のことばかり考えてたよ。自分の気持ち、痛感した。……『運命』なんて言葉、口にするの柄じゃねぇけど……瑠璃子がお前と出会わせてくれたんだと、俺は思ってる」
これは、夢? 私の欲望が見せている夢なのかな? ……いや、違う。だって、彼に触れられた部分が、全身が、体の内側までもが、こんなにも、
熱い——。
「お前より、ひとまわりも歳の離れたおっさんだけど……俺と一緒に、前向いて、歩いていってくれるか?」
「……っ……はいっ……!!」
彼は握っていた私の両手を放すと、今度は両腕を私の背中へと回し、優しく抱き締めてくれた。私も、彼のその大きな背中に、精いっぱい自分の腕を回す。
止まっていた涙が再び溢れ出し、頬を伝った。
でも、この涙は、哀しみなんかじゃない。
喜びと希望。そして、誓い。
この人と一緒に、前を向いて踏み出すことへの、誓いだ——。
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